【連載】ドキュメンタリストの眼 ⑬ 羽仁進監督インタビュー text 金子遊

羽仁進監督

戦時中の羽仁家のこと

――今日は羽仁進監督の岩波映画時代とドキュメンタリー映画を中心に、お話をうかがっていければと思います。今年2015年は戦後70年ということになります。監督は1928年生まれですから、終戦の年は16歳か17歳で、羽仁監督のお祖母さまの羽仁もと子さん(ジャーナリスト・自由学園創立者)が創設した自由学園に在校中だったと思います。そのあたりからお話をうかがえますか。

羽仁進 はい。子どもの頃を思いだしますと、父の羽仁五郎(歴史家・参議院議員)はマルクス主義を中心とした歴史を研究していました。父は講談を勉強していました。太平洋戦争に入る寸前、ぼくが小学校4年生の頃、父は中国へ渡っていった。父の持論は中国共産党と話をしなければ、中国との戦争は終らないということであり、話し合いのためのルートを探しにいったのです。日本は大陸で軍事的に勝利をおさめているように見えるが、それぞれの極地で勝っているだけで、中国共産党のほうが勢力を増していると考える人たちが父のまわりにいた。ぼくには妹たちが1歳ずつ違いで2人いて、母の羽仁説子(ジャーナリスト・教育評論家)に連れられて昔の品川駅のホームまで父を見送りにいきました。

その2年後、ぼくが中学校へ入る前に、母・説子が中国にいる父・五郎と連絡をとろうとして、母はぼくたち子どもを置いて中国へ行ってしまいました。ぼくたちは自由学園の支持者の人たちが暮らす村に住んでいたので、それでも大丈夫だったのです。近所に中島飛行機の工場ができて、ぼくは中学生でしたが動員されました。ぼくは不器用なので、ぼくの作った飛行機でよくぞ墜落しなかったものだと思いました。当時は正規の高校や大学へいっていれば、兵隊にとられずに済んだのですが、太平洋戦争に入ると様相が変わりました。当時の私立学校の中では、自由学園と文化学院が独自の教育をおこなっていたが、文化学院が強制的に閉鎖されてしまった。自由学園は何とか閉鎖は免れたが、他の学校の学生よりも早くに出征させられるということになっていった。

中学2年のとき、自宅に特高警察が2、3人やってきました。警察の人は何も言いませんでしたが、後に羽仁五郎が上海で逮捕されたことを知りました。母・羽仁説子は、北京の自由学園の関係の学校にいったまま、帰国していなかった。ぼくは妹2人を学校から帰らせました。特高の警部は父の書類を調べるといいましたが、父は大変な数の蔵書をもっていた。下の妹が書庫の建物に警察の人たちを案内しました。ぼくたちの住んでいる家と書庫とは別に、父の書斎の建物があり、そこに父が書いたものがありました。警察が書庫をさがしている間に、ぼくと上の妹で庭の土を掘って、原稿や大事そうな本を埋めました。そのあとで、警察が父の書斎を捜査したが、目当てのものは何も出てこなかった。戦後、平和になってから、その原稿等を庭から掘りだしました。そこに埋めてあった原稿のなかから2冊父の本が出版されることになりました。そのなかから共産党の細川嘉六(文筆家、参議院議員)さんの原稿も見つかり、それも出版されたので、公的に貴重なものを守ったのかなと思っています。子供心ながらに、父親がおこなっている活動が反政府的であり、政府のほうが間違っているということを理解していたんでしょうね。

――羽仁家ならではの戦中史ですね。

羽仁 ええ。自由学園を創立したのは、祖母の羽仁もと子のほうで、父の羽仁五郎はもと子の娘、説子のところへ婿養子に入った人でした。父は群馬県桐生市の出身で、その父親の森宗作は第四十銀行の創始者で実業家だった。父は5番目の息子で末っ子でした。ぼくは羽仁五郎が上海で逮捕されたことを桐生の家に知らせようと思い、東武線に乗ろうとして浅草駅に行ったら、空襲で浅草の町が焼けて、ほとんどの建物がなくなってしまっていた。それが1945年3月10日の大空襲だったんです。東武線の駅もなくなっていたけれど、駅3つ分を歩けば、まだ駅舎が焼け残っていて、そこからは電車が動いているという話でした。その前日の夜に大空襲があったわけだから、そこら中に亡くなっている方が沢山いた。そのような焼け跡のなかを歩いていった。駅に軍人がいたので、ぼくはとっさに「群馬県太田市にある飛行機の工場にいくところです」と嘘をつき、中島飛行場の徽章を軍人に見せて通りました。そうやって、父の実家の桐生までいったんですね。

――少年にとっては、相当な冒険だったんでしょうね。

羽仁 その頃は空襲が迫るとサイレンが鳴って、みんな防空壕に飛び込むといった日常でした。ぼくが動員されていた田無の飛行場から、15分も歩けば家に帰ってこれた。あるとき、空襲のサイレンが鳴ってもぼくは防空壕に入らず、家に帰って2階にあがって空を見上げていた。空にはアメリカの爆撃機が無数に飛んでいた。そこへむかって、1機の小さな日本の飛行機が飛んでいった。すると、アメリカの飛行機から撃たれて、その小さな飛行機は炎と煙をあげて墜落していった。そのとき、理由はわかりませんが、あの墜落する飛行機に乗っている人は、ぼくのお兄さんみたいな人じゃないかと思いました。実際の兄ではないんですけど、兄のような人が燃える飛行機の機体のなかで死んで行くんだ、という考えが去来したんです。

ぼくが戦争にいったら、相手を殺すなんてことは考えられない。そうであるなら、自分があの飛行士のように撃たれて死ぬしかないと考えた。それで2階から家の屋根まであがり、そこから下へ飛び降りたんです。夕方まで気を失っていて、家に帰ってきた妹たちに発見された。下が畑だったので助かったんですね。吉田茂の若いときからの友人で、日本医師会の会長をつとめた武見太郎という人がいました。その武見先生が診てくれて、これは飛び降り自殺ではない、気を失ってしまう病気であり、それで屋根から落ちたのだと証明書を書いてくれた。そのおかげで終戦までの6、7ヶ月間、ぼくは工場にもどることなく家にいることができた。それから2ヶ月くらいして、母が中国から帰ってきた。それで、ようやく戦後というものが、ぼくの家にも来るんですね。

▼page2 共同通信記者から映画『はえのいない町』へ に続く