【Review】光と重力がもたらす偶然という恩寵  中村祐子監督『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』text 金子遊

振りかえれば、わたしは『あえかなる部屋—内藤礼と、光たち』という映画を見るまでに、いくつかのふしぎな「偶然の一致」に導かれていた。

ある夜、特集上映でロシア演劇の批評家と対談したあと、思いついて「懇親会をしましょう」と会場にいる方々に呼びかけてみた。参加してくれた人のなかに、その若い編集者の女性がいた。顔の絆創膏が痛々しい彼女がかそやかな声で話しだすと、まわりの喧噪がすうっと退いていった。その女性は車にのっていて交通事故にあい、体ごと宙に放りだされ、顔から地面に叩きつけられたのだった。

「おそらく恐怖からだと思うんですが、運転手さんが叫んで、車から放りだされたときの記憶がないんです。地面にぶつかったとき、わたしはこれで死ぬんだなと思いました」

すると、耳を傾けていた初老の演劇批評家が「ぼくも最近、心筋梗塞で病院に運びこまれて、ふしぎな経験をしたんです」と話した。胸の激痛でのたうち回ったが、病室でふっと楽になる瞬間があった。気がつくと、体から意識がはなれて、天井のあたりから自分の姿を見おろしていた。壁をすり抜けることもできて、病室の外へでて廊下やロビーを歩いたという。それで終わりではない。後日『あえかなる部屋—内藤礼と、光たち』の試写を見にいくと、偶然に編集者の女性のうしろの席になり、会釈をかわした。彼女の姿がスクリーンに大写しになり、先夜の事故の経験を語りだしたので魂消てしまった。その女性とは、この映画の登場人物のひとりである大山景子さんだった。風にゆれるか細い糸の動きをたどるようにして、わたしはこの映画のまえに連れだされたのである。

中村佑子さんが監督したドキュメンタリー作品『あえかなる部屋—内藤礼と、光たち』では、映画がはじまって30分ほどすると出演者である美術家の内藤礼さんがほとんど登場しなくなる。「ときどき深く息をするために内藤さんの作品が必要なときがある」という中村監督は、冒頭で内藤さんに取材を申しこみ、ふたりで語りあい、書簡やメールでやりとりをする。それと並行して内藤さんの作品や彼女のインタビュー時の音声が紹介されるが、最初の取材地であった広島の展覧会で作品の「配置」を終えると、内藤さんは「カメラの前に立てなくなって」しまう。その後、内藤さんの姿は画面に登場せず、言葉を発する「声」として気配のように監督に寄りそい、重要な場面で助言し、監督のつくる行為を導いていく。映画とこのように精霊的にかかわる方法をわたしは他に見たことがない。

一方で、生身の内藤礼さんが登場するシーンには、撮ることと撮られることがせめぎあう緊張感がみなぎっている。人物や現象をフレームとショットで切断してしまうカメラという暴力のまえで、なんとか内藤さんは自分の繊細ではかない本質をもつアートの営みを維持しようとするが、うまくいかない。中村監督は「カメラで覗くと内藤さんの存在の縁は、空間にとけ込んでいくように感じました」とインタビューで語っているが、顔が映らないように配慮されたその映像では、内藤さんのイメージもまたフォーカスを外されたかのように、ごく淡い印象しかあたえないのがふしぎだ。


映画の最初のパートは、音声トラックで、撮影されることのなかった取材の内幕を語り手の視点(中村監督)から振りかえり、映像トラックが内藤さんの作品を撮ったイメージ、取材の旅先で見た光景、再現されたシーンを展開する。さいごには、内藤さんが映像に映りこむことができなくなるという帰結を迎えるが、ここでは「ドキュメンタリーを撮るプロセス」が前景化されており、アピチャッポン・ウィーラセタクンの名前をもちだすまでもなく、「映画を撮ること自体を撮る映画」ならぬ「ドキュメンタリーを撮ること自体を撮るドキュメンタリー」になっている。

ビデオカメラとは常に「その瞬間」に間にあわないものだ。それを乗りこえるべく、演出や仕こみによって決定的瞬間を撮ろうと腐心することは、ドキュメンタリー映画が映像に映るものに依存する「素材主義」におちいることに他ならない。むしろこの映画のように、つくり手が撮れなかったもの、過ぎ去ってしまったものの記憶をいかに表象するかに労力をそそぐほうが、表現の可能性を広げるのではないか。かつて足立正生の「風景映画」やソクーロフの「映画小説」もあったが、『あえかなる部屋—内藤礼と、光たち』では、優位に立つ音声トラックがさまざまな映像(光たち)の連鎖にたいして、意味や文脈をあたえるエッセイ映画なのである。

自分は出演できないけれど「つづけてください。そこには何かがあるから」と中村監督に言いはなつ内藤礼さんはやはりすさまじい。結果的には「不在の内藤礼さん」を撮らなくてはならないという、中村監督に課されたきびしい条件が、このドキュメンタリー映画に生命のはずみを与えている。内藤さんの姿や彼女が発する言葉にもたれかからず、中村監督が内藤さんの作品とむきあい、そのエッセンスを映像化する離れ業を支えるのは、美しい風貌をもちながら、どこか現実世界との齟齬のなかでギクシャクとした表情や身体所作をもたざるをえないモデルの谷口蘭さんのイメージの強さであろう。

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