【連載】ドキュメンタリストの眼⑰ 『変魚路』公開記念 高嶺剛監督インタビュー text 金子遊

『パラダイスビュー』や『ウンタマギルー』など、沖縄を舞台にした沖縄語(ウチナーグチ)の映画を発表してきた高嶺剛監督。その一方で、初期の『オキナワン ドリーム ショー』は、8ミリフィルムによる実験映画とドキュメンタリーの間にある伝説的な作品となっており、その後も、沖縄のミュージシャンや京都の芸術家を撮ったドキュメンタリー作品を手がけている。『夢幻琉球つるヘンリー』以来18年ぶりに手がけた劇映画『変魚路』を公開し、過去作品の特集上映も開催される鬼才・高嶺剛に、単独のロングインタビューを試みた。(構成・写真=金子遊)


——ちょうど私は旅行で八重山諸島の島々をまわり、石垣島の川平にも行ってきたところです。とても古い貝塚があり、山の麓と山上に3つのウタキがあるところですね。川平湾は美しい景勝地としても有名です。高嶺さんは1948年に川平で生まれて5歳までそこで過ごし、その後は沖縄本島で高校を出ました。卒業後は、当時アメリカの統治下だった沖縄から、留学生として日本本土の京都教育大学の美術コースに入ったわけですね。

高嶺 幼年期の石垣島の川平のことはほとんど覚えていないけど、うっすらとひとつのイメージが浮かんできます。母におぶされトラックの荷台に乗って川平の集落を出ていったとき、母の背中に小さな虫がしがみついていた様子が、なぜか目に焼きついています。川平は父の実家があるところで、母は沖縄島の人間でした。石垣島のある八重山の言葉と沖縄島のとではずいぶん違うので、共通語は日本語ということになってしまう。他の島の人間と結婚することは、当時の習慣からすると珍しかったのでしょうね。

沖縄那覇市に楚辺という所がありますが、5歳以降はそこで育ちました。高校を卒業したあと家を出たいと思ったので、沖縄で行なわれた国費留学の試験を受けた。その当時はアメリカに占領されていたから、日本本土へ渡るというだけでも、たいそうな出来事だった。那覇港から出航する「ひめゆり丸」は、定刻から半日近くも遅れ、見知らぬ遠い親戚の人まで見送りにきてくれて、ぼくの19の春、なんとも涙の旅立ちでした。あの頃はアメリカ留学制度と日本留学制度があり、私は京都にある大学の特修美術科に配置されました。特に美術に興味があったわけでもなかったが、とにかく家を出たかったのです。合法的に。国費留学生にはささやかながらも生活費が支給されるので、なんとかやっていけると思った。鹿児島から汽車に乗り換えて、私は京都で下車を命じられ、京都伏見にすみついたのですが、第一印象は琵琶湖から流れ来る疎水の匂いだった。ここが祖国といわれる日本なのかと、私はまったく馴染みがない京都の風景に呆然としました。食い物も始めて食うものが多かった。ざるソバの食い方も分からなかった。

——『オキナワン  ドリーム  ショー』(71〜74)へと至る、映画監督になる前の時期について教えてください。京都へきてジャクソン・ポロックなどの影響を受け、当時は美術の勉強をしていたのでしょうか。それと同時に、アンディ・ウォーホル、ジョナス・メカス、スタン・ブラッケージらの実験映画にも触発されたそうですね。

高嶺 京都に来たのが1969年。まだ政治の季節でしたから、美術の方にいても、既成制度や表現そのものをラディカルに批判破壊して、何か新しいものを生み出さなくてはいけないという雰囲気でしたね。私はアンディ・ウォーホルが好きだったので、大学の隅にあった旧日本軍の兵舎跡の倉庫を、勝手に「ファクトリー」と呼んでたむろしていました。その倉庫でシルクスクリーンを刷ったり、写真を焼いたり、8ミリフィルムを編集したりしていました。ぼくの家族の写真に人工着色して、それを8ミリ映像でつないだ『サシングヮー』(73)という作品も、そのような場所でつくった。

京都には東映などの撮影所があったが、そこで作っている映画は自分とはまったく関係ないものだと思っていました。私の場合は京大西部講堂などで上映された、ジョナス・メカスやスタン・ブラッケージなどのアメリカの独立映画や実験映画、日本のアンダーグラウンド映画や、個人映画などを見てとても刺激を受けた。日本の作家では、飯村隆彦さん、高林陽一さん、大林宣彦さんの作品などを見ていましたね。ウォーホルの『チェルシー・ガールズ』はじつに強烈だった。

——その頃から、のちに『オキナワン  ドリーム ショー』(71〜74)へと結実する、8ミリフィルムでの撮影がはじまったのですね。

高嶺 沖縄から家出してきたつもりの青年が、日本の伝統の塊りのような京都にいて、「私は日本人ではない、もちろんアメリカ人でもない、もしかしたら沖縄人でもないかも知れない、自分は何者なんだろう」と自分のアインデンティティーに迷い悩んでいました。そうこうするうちに、フジの8ミリカメラを買って、沖縄の風景を撮影していこうと思いついた。学校には冷えた鯨カツを食いには行っても、授業に出る習慣はなかったので、時間はたっぷりあった。私は沖縄にひんぱんに帰って撮影をしました。そのつど、8ミリフィルムの50フィートのカートリッジを50本ほど買い込んで、音はソニーのカセットレコーダーで録音。沖縄返還は1972年5月15日ですけど、ぼくが『オキナワン ドリーム ショー』を撮影していたのは、ちょうど返還前後の1971年から74年までですね。沖縄のいろんな風景が急速に変わっていった時期でした。

撮影スタイルは、ぼくが8ミリのカメラをもって、録音担当の友人のタルガニはカセットレコーダーの係、『オキナワン ドリーム ショー』は、那覇の楚辺にある私の実家の前の路地からはじめて、タルガニの750ccのオートバイに二人乗りして撮影した。沖縄島の南部、そこから一号線(現国道58号線)でコザへ行き、最後に生まれた石垣島の川平に行って撮った。最初からワンカットワンシーンで撮ろうと決めていました。通常は1秒間に18コマで撮影するところを、34コマぐらいの高速度撮影(弱スローモーション)で撮っていました。

そもそも、作品にしようなどということはまったく考えていなくて、沖縄の日常的風景をひたすら撮って、それを京都で見ていたのですが「あれでなく、なぜこれを撮るのか?」などと、ひとり悶々としながら見ていました。8ミリフィルムは撮影ポジ一本が原版になりますので、繰り返し映写機にかけるとフィルムはどんどんキズついていくので、フィルムはずたずたになりましたが、「作品」とは思わなかったので、ぜんぜん平気でした。ジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』(73)を京大西部講堂で見て、決定的な衝撃を受けました。私が撮っている風景は「映画」ではないのかと思った。それで8ミリカメラを買い変えて、石垣島のシーンを追加撮影しました。だいたい20時間くらい撮影したフィルムを、3時間くらいに編集。私とタルガニは、約束ごととして、基本的にワンカットワンシーン構成にしてワンカットを30分ぐらいフィックスで撮ってその中の約3分を使用する、ということを那覇で泡盛を飲みながら延々と議論した。

——『オキナワン  ドリーム ショー』の上映方法を教えてください。8ミリ映写機でスロー映写しながら、ライブで音楽をつけたのでしょうか。上映はどのような場所でおこないましたか。

高嶺 8ミリ映写機の映写速度が変速式なので、正確な速度は分からなかったが、おおよそ18コマ映写で、撮影が34コマですので、スクリーンでは弱スローでした。音は映像におおよその目安で合わせておいたカセットでポンと出す方法です。正確なシンクロはしませんが、現場音や島唄ですので、シンクロがはずれていけば、映写機の速度で調整するのです。上映時間は映写機にもよりますが、だいたい3時間くらい。『オキナワン ドリーム ショー』の本格的な上映は1974年の京都のアートコアホールという現代美術の画廊でやりました。仙台・東京・大阪や各都市、もちろん沖縄でもやりました。那覇市民集会所では最後の一人の観客も帰りました。京都の京大西部講堂でのライブ上映の場合は、沖縄島唄の知名定男さんに来てもらい唄ってもらいました。今思ってもとても贅沢な上映会でした。要望があれば個人の家ででも出張上映するという感じでしたね。
『オキナワン・ドリーム・ショー』

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