【連載】つげ義春 「ガロ」時代 第1回 text 正津勉

はじめに

1964年4月、18歳。わたしは福井の山奥の高校を卒業、同志社大学に入学。文学研究会に入会した(半年後退会)。そこで厄介な御任と出会っている。

清水昶(あきら)(1940~2011)。5歳年上、学年2級上、詩人志願。65年春、清水が、わたしの住む嵐山の下宿に越してきた。このとき初めて同居人がたいへんな漫画狂だと知らされる。清水は、のちに書いている。

「ぼくは本気で「漫画少年」になろうとしていた。「ぼくは漫画家になる!」と母にいった。母はじつに悲しげな顔をして、どんなビンボーでも「大学」まで行きなさいといった」(「漫画少年の頃」『ぼくらの出発』)

1964年9月「月刊漫画ガロ」(青林堂)創刊。「ガロ」は、貸本マンガ出版、三洋社を経営していた長井勝一(1921~96)が、盟友の白土三平(しらとさんぺい)(1932~)を主導者にして企図した雑誌だ。清水は、なんとその定期購読者だったのだ。お目当ては、白土の「カムイ伝」だ。その本棚には、『忍者武芸帳』(1959~61、全17巻、三洋社)、10冊近く。『サスケ』、『忍法秘話』などが揃っていた。これは漫画にそんなにまで熱くなかった田舎出体育会系少年にはちょっと考えられない壮観さだった。

はじめて読む『忍者武芸帳』は凄かった。それもだが「カムイ伝」にはもっと惹き付けられ、次回がいつも待ち遠しかったものだ。清水は、ことあるごと「カムイ伝」の素晴らしさ魅力を説きつづけてやまなかった。きくところどうやら、それはときの活動家さんの文脈でもって組織論・実践論の応用篇(?)として俎上にされている、そんなふうなぐあいだった。

いまこのことに関わって、ある名をあげたい。それは谷川雁である。ともかく清水らが熱烈に愛読していた。主著『原点が存在する』(弘文堂 1958/改版 現代思潮社)。物知らずの新入生には超難解もいい一冊。清水は、こんなのを薦めていった。

まあこれを精読するのや。読んだらわかるけど世界の見方が根底からガラッと変わってしまうかもよ。いやほんま面白いでこれは、と。

このかたが、特異な詩人思想家にして、三池争議や安保闘争などにおいて理論実践両面に主導的位置にあり、じつにこの本はというと、いまなお先鋭部分に熱狂的支持を受けている革命工作者の、特異な扇動宣言集、であると。

革命とは何か? 詩とは何か? コピーふうに、いうたらあれや。「その根源を問う一書やな」。なんては、おっしゃるが。いったいどこがどう凄くあるものなのか。

「下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギーがある」

ここにいう原点なるもの、それをさらに農村や炭坑などの共同体とむすびつけ、あわせて革命と詩のための起爆点としようという、そういう壮大なビジョンや。これはやな、革命のイメージのコペルニクス的転回、というのか……。

そうなのである。「カムイ伝」は、まさにこの雁の『原点……』とおなじ文脈で迎えられていた。そのようだった。白土三平、革命家、革命工作者。このことでは「ガロ」(1965・11)誌に載る京大大学院生の熱い投稿をみられたい。

「私は、白土三平氏の漫画を大変おもしろく、且つ、貴重なものと思いながら、愛読しています。……。私の問題意識に極めて鋭く迫るように思われ、全く、全神経を緊張させて読ませていただいております」(京都・竹本信弘)。この竹本信弘(1940~)とはそう、ペンネーム・滝田修。1969年、京大パルチザンを結成した運動家。 

つげ義春。このときにはその名前はいままだ、わたしらの意識にのぼっていない。

 

第一章 沼

ある秋の旅から* 寿恵比楼

1965年、つげ義春、28歳。つげにとって、この年は格別に深い意味をもつ。「ガロ」4月号に同誌の出資者の一人で、赤目プロを経営する白土が、「つげ義春、九鬼まこと(1941~ 本名・九喜良作。劇画雑誌「街」新人賞受賞)、両者至急当社に連絡乞う」との「尋ね人」掲載をした。白土は、誌面の拡充を求めた。つげは、それに応えて長井に連絡。これを機に「ガロ」に発表の場を得るにいたる。

「噂の武士」(65・8)で初登場。つづき「西瓜酒」(65・10)、「運命」(65・12)と隔月で作品を発表。それをどう読んだものか。あらかじめ言っておこう。ときにこれら初見にする三作はというと、ほとんどまったく、わたしらの仲間うちで話題にならなかった。たしかにそつのない描き手らしいが、これまでの貸本マンガを、それほど大きく出るものではない。作画法も、世界観も。そこらがどうやら白土ファンのおおかたの見方だったようである。

それがしかし変わったのである。ほんとまったく突然も俄然、面目を一新することになった。そこいらから初めることにしよう。

ところで後述するが、つげと当方はというと、のちにいっとき湯治場巡りをともにするなど、かなり親密にしてきた。そういうようなしだいで以下の記述にその折に交わした私的な寸感がはさまることよしとされよ。

1965年8月、そのいつか出会いがあった。つげは、田端の貸本マンガ家の集会の席で白土、水木しげる(1922~2015)と初めて顔を合わせるのだ。長井、白土、水木は、この時期のつげを支え新たな出発を促した、重要な年長の3人だ。そしてじつはその秋のことなのである。

10月、白土が、つげを千葉へ誘った。そこは白土が仕事場にしている夷隅(いすみ)郡大多喜の旅館寿恵比楼である。同行は運転の若者、白土、つげ、赤目プロで白土の秘書的な仕事をしている岩崎稔(1937~)の4人。この岩崎がつげを語る上で外せない人物である。それはつげがこの人から初めて井伏鱒二の名を教えられたからだ。こののち井伏の文学がどれだけつげの世界を深化させたか。その影響は甚大である。

さて、寿恵比楼は、いすみ鉄道大多喜駅から徒歩約15分。夷隅川のほとりにある木造2階建ての旅籠である(現在は廃業、建物は2019年12月取り壊し)。ここにおよそ半月ばかり滞在したという。この旅の意義は大きい。それがどんなに画期的な転換点となったものか。そのしだいは後述するとして、まずはそこが大原の海浜ではなかった、このことの意味におよびたい。

つげは、海浜と縁深く、幼時、伊豆大島に育った(参照、自伝的作品「海へ」1987)。4歳、母ますの郷里大原町の漁村小浜に転居し、2年過ごす。これからも海を背景にした秀作は多くみられる。しかしそれだけに勝手知った大原の海では新鮮味に欠けるともいえるか。もしもそこが大原のどこかならば、それはそんな事件になってはいない。のちに秀作を生む発見はない。しかし大多喜である。大多喜は、大原からいすみ鉄道で6駅(乗車時間30分、走行距離15・9㌔)入った地区である。

ほんの6駅だけ離れた内陸のこと。だがそう軽くみては誤ることに。ほんとわずかそれしきの違いで人はふいと、わからぬ何かが降りてくるのをおぼえる。そしてときにそれこそ、その人をとりまいていた何もあらかた根こそぎがらりと変える、ことになっていたりする。

寿恵比楼跡近辺、いまもあたりは夷隅川に沿いのどかな山陵地が広がっている。じつはわたしも昭和のしまいころ、ヒッピーくずれの旧友が当地で農業をやっていて、しばしばそこいら周辺を気儘に遊山したものだが、いったいはとても緑濃いところだった。つげがここに宿したのはさらに昔のはなしである。あたりはよりもっと自然豊かであったことだろう。このときに東京でずっとどん底にもがいていた、つげにその光景はどのように感じられたものか。つげの発言にある。

「自然の風物の何もかもが新鮮に見えて、目からうろこが落ちた」(『つげ義春漫画術 下』以下、註無きは同書)

ここでちょっとばかし唐突ではあろうが、つぎのように揚言しておくことにする。

この秋の旅から。つげ義春は、フォーク・ロアの世界へと参入することになった、と。