【連載】つげ義春 「ガロ」時代 第2回 text 正津勉

 

第二章 紅い花

ある秋の旅から** 

 

「沼」から

「紅い花」。これからは第二章のはじまり。ここに俎上にするのはつとに世にきこえるこの名作である。

「沼」(66・2)は、つげの名前を「ガロ」誌上に刻印した。翌3月「チーコ」発表、「沼」とは主題も内容も異にする、若い男女の愛と葛藤を描いた。これがのちにまた新境地を拓いた画期的な作とされるのである(後述)。

だけどよくわからないものである。なんともなんとこの2作とも漫画界では不評さんざんだったとか。がっくりもげんなりのしまつとなる。つげは、そんなわけでこのさきは水木プロのお手伝いにとどめるだけにして、ことあらたにまた「ガロ」へ作品をという気持はなくしてしまっていた。

というところで水木プロでの仕事についてみたい。それまでずっと最底辺を這いずりまわるような窮乏生活を強いられてきたのだ。これがどんなに喜ばしいことか。こんなふうにも正直に書いておいでだ(わたしものちに幾度も聞かされているが)。

「……やがて、水木さんが忙しくなりだし、来てくれないかというので、日当を相談したら、一日二千円(現在はその数倍)ということだった。そのときのぼくの胃袋の大きさは、一日三百円もあれば満腹になれたので、夢のような話だった。/この幸運は、どんなに辛いことがあっても絶対に逃すまいと、秘かに誓った。そして、現在でも水木プロの仕事は続いている」(「犯罪 空腹 宗教」)。

ほんと「この幸運は、……」という。この一文が書かれたのが69 年だが、このときの2千円というと現在幾らぐらいだろう。

この年、前章の「初茸がり」(66・4)以後、わずかに「ガロ」発表は2作にとどまる。「古本と少女」(66・9)と、「手錠」(66・12)と。いずれも旧作改稿版というのだ。

それはしかし画に向かうほかない。どのようにしたらまた筆を走らせられるのか。ひとりひきこもり悩み苦しみつづけただろう。いったいどう何を描けばいいのか。

そのときそれはさながら、暗い野末の灯り、そのようにあったのではないか。

――寿恵比楼!

あの宿で送った日々、また想い出の数々。その1コマ1コマが浮かぶ。つぎからつぎへと想い出されてきてならない。宿のおかっぱ頭のなんという名なのかあの娘。あのひどくきつい千葉弁丸出しのつっけんどんな……。

そのような折しも旅への誘いがあった。通いのアシスタントの稼ぎのおかげで懐もそれほど寂しいとはいえない。そこになんと願ってもない道連れさんがお出ましとまいる。このかたがつげ唯一の友人という面白い御任というのである。

8月、Tと東京の深部、檜原村は数馬へ遊山。Tさん、立石慎太郎(1937~2004)、つげと同年生まれ。60年頃から付き合いを温める古書店主。つげは、つぎのようにこの御任について紹介におよぶのである。

「彼は相模原の酔狂人とか、退屈男、鉄面皮などと自称する救いのないヒマ人で、旅行に誘うと死にもの狂いでとんでくるのだった」(「颯爽旅日記 関東平野をゆく」)。これだけでも良いお人としのばれる。それで数馬で味をしめて、Tのオートバイや自動車に乗っかって、これから各地へ繰りだす。

1967年、つげ義春、30歳。

まずこの年の活動はつげには珍しくすこぶる多く旺盛であった。水木プロの仕事が煩瑣をきわめること、右手が腱鞘炎に罹るも激痛に堪え、間置かずに作品を発表しつづけている。それがどうして可能となったものか。そのわけはというと大まかに二つあげられるのでは。

一つ、金。いわずもがな喰うに困らなくなったこと。アシスタントの収入で多少とも生活が安定したためである。

一つ、旅。「救いのないヒマ人」Tとの旅である。4月に秩父、房総、8月に伊豆半島などへ出掛けている。

金と、旅と。以上の二点、よろしくあって筆を握れたといえよう。それにしてもこの期間になった作品がどれも素晴らしいことったら。まったくこのラインアップはどうだろう。なんというバラエティであることか。

「通夜」(67・3)

「山椒魚」(67・5)

「李さん一家」(67・6)

「峠の犬」(67・8)

「海辺の叙景」(67・9)

「紅い花」(67・10)

「西部田村事件」(67・12)

いやほんとうにどれもこれも外しようがないものばかりではないか。そうなのだがこの章に「ある秋の旅から」と添えているのである。であればここではそのうちうしろの二つにかぎってみることにしたい。