【連載】つげ義春 「ガロ」時代 第3回 text 正津勉

山椒魚

山椒魚は、両生類有尾目。多くは山間の渓谷や湧水の湖沼に棲み、水中の小魚、蟹、蛙などを補食する。その名前は山椒に似た匂いの体臭に由来する。

山椒魚この滝に棲む神代より 山口青邨

いまこれをこのように解するとおかしいか。神代よりこの滝の主さながら棲み継いできた山椒魚。いやなんたるその尊いありようなるものぞと。

しかしなんという。いやはやどうにも本作はへんなのである。なんともこれが清流どころか、いつごろからか都市の下水道を住処にしてしまった、おかしなやつの物語というのだ。だがなんでそんな事態になったものか。それがどうもという。

「俺がどうしてこんな処に棲むようになったのか分からないんだ」。「気がついたらこの悪臭と汚物によどんだ穴の中にいたのさ」

なんとそんな「分からない……」、「気がついたら……」というぐあい。以下、下水道の汚物のなかから顔をのぞかせた一匹の山椒魚、そいつがひとり語りするというしだい。独白の形式をとって、それがまったくなんとも歯痒いほど、どうしてここに存在しているのやら、まったく不明きわまりないままに、作品は進行してゆく。

「ではそれ以前の俺はどこでどうしていたのかというとサッパリ想い出せないんだ」、「ただ遠い故郷があったような気がするのだが……」

濁った水のせいか、ぼうっとするばかり記憶はぼやけきったまま。ろくな食べ物もない。「食べて」いるのは小魚、蟹、蛙なんかでない「得体のしれない腐肉や虫ケラ」という。犬や猫の死骸が流れ込む。どこももろもろのゴミでごたごたいっぱい。蝙蝠傘、空き缶、下駄、空き瓶、手袋……。

なかにはあれはどういうのか。三白眼を描いた眼科医の丸い絵看板(「ねじ式」の彷徨シーンで効果的に使われる画像アイテム)。そんなのもちゃんとおありだ。

はじめはもうひどい悪臭に吐気をもよおし汚物に下痢もさせられたものだ。だがしだいにヌルヌルした汚水にもゾクゾクするぐあい快感さえおぼえるようになる。

「環境や食物がかわると体質まで変化するのであろう」、「俺はいつのまにか俺でなくまったく別のいき物になってしまったのだ」

ここから後半となってゆく。そのまえに一言しておく。

「山椒魚」、そうなるとやはり井伏鱒二の同名小説ということになる。なんたって教科書文学なのである。つげは、ときに井伏の熱心な読者だった。むろんもちろん井伏のとは意を大きく異にした内容となってはいる。それはしかしその影響関係はというとどうか。どうしたって気になるものである。つげは、このことについては以下のようにいっている(ことは当方の問いかけにも、かたくなに答は同様だった)。

「井伏鱒二とはまったく関係のない作品なんだけれども、どこかに井伏鱒二の題名だけでも引っ掛かっていたのかなあ。でも井伏鱒二の『山椒魚』の小説そのものは、ぼくはそれほど好きではないんですよね」

好き、嫌い。それはおいて読んでおいでだ。でなければどうして、都市底辺生活者がそんな両生類有尾目なんぞを、ごぞんじだったろう。というところであらためて、井伏のそれを想起すると、どんなものではあっただろう。

井伏の山椒魚、そいつは谷川の岩屋を棲家としている。ある日突然、岩屋の出口から、外に出られないのに気づく。知らぬうちに大きくなること、でかくなった頭が出口を塞いでしまって。しておぼえる孤独地獄のいやはてに……。

しかしどうだろう、つげの作品のそれは、まるで真逆なること、はっきりとちがう。そいつはというと、こんなにまで幸福感を満腔いっぱい丸々太り満足げにうそぶく、なんてなやからだ。

「目方も以前の三倍くらい大きくなり 時たまながめると たくましく黒光りしてじつに感じがいいんだ」

いまとなってはもはや香ばしい山椒らしき匂いなどはもってのほか。というここで画をみられたし。わたしらの国の「サンショウウオ」は大きさ10㌢ほどしかない。だけどこいつ「黒光り」したやつは、まるで体長150㌢にもなる「オオサンショウウオ」のうちでも大形のたぐい、なんかでっかい妖怪みたいなのだ。

ここでふたたび井伏の山椒魚に登場ねがうとしよう。こちらはひたすら谷川の岩屋に自閉しきっていること。そしてぜったい永遠に脱出は不可能なるままなのだ。

まったくのこの不自由なることのきわみ。しかるにつげの山椒魚はちがうのである。

いったいそこには「方々に枝道があり」、「俺以外のだれもいない」、「すべて自分の棲家」というほどよろしさ。かくして下水こそ願ってもない住処と思いなし、ひとり誰にも邪魔されなく自由に暮らすと。

「もちろん退屈なんかするわけがない」、「毎日毎日 上流から見慣れないものが流れてくるので」。「俺はその一つ一つを点検してみるのだ」、「こいつはけっこう愉しくて没頭できるんだ」

そんなある日のこと、昼寝中、妙なものが頭にぶつかった。3日間考えても正体不明。いやほんとうにその異様なるものとはなんなの? 

「結局はどうしても分からないので 俺は腹を立てて頭突きを 二三発くらわせてやった」

いったいそいつは? なんだって堕胎児さんだって。いやはやびっくり!

「まあそれ以上奇妙なものはお目にかからないが……」

なんともまたといおうか。なんと人の世の凄まじき。かぎりなるかなであろう。

「明日はどんなものが流れてくるのか」、「それを思うと俺は愉しくてしょうがないんだ」

なんていうふうにおどけることしきり。そいつときたら地べたどころか、下は下水道の穴、そこをわがものにも泳ぎまわる。わけのわからないおかたなるのったら。

なんとおしまい最後のコマはどうだろう。光へ向って、ゆったりと泳いでゆくたくましく「黒光り」することいかにも満ちたりた、その後ろ姿。いやほんとなんとも悠々たるさまではないか。