【連載】つげ義春「ガロ」時代 第5回 text 正津勉

第五章 ほんやら洞のべんさん

 この世のはてへの道ゆき

 

本章は、「この世のはてへの道ゆき」、と副題する。ここからはいわゆる、旅物に属する作品、それをみてゆきたい。      

65年秋、おもえば房総大多喜は旅籠寿恵比楼における、短期滞在。はじめにつげの旅物ではあるが、ここでこのときに創案されたのだという、そのことを確認しておきたい。

またその年8月、相模原の酔狂人、Tこと立石慎太郎と東京の深部、檜原村は数馬へ遊山。それから各地へ繰りだし旅の自由にひたる。そのうちだんだんと旅に入れ込むようになっている。このように翌々年の年譜にみえる。

 

一九六七(昭和42)年 30歳
井伏文学に影響され、しきりと旅行するようになる。唯一の友人、立石氏と能登、飛騨、秩父、伊豆、千葉等へ遊ぶ。
秋に単独で東北へ大旅行する。旅の強烈な印象をもつと同時に湯治場に魅かれる。旅に関する本や柳田国男、宮本常一などを好んで読む」

このあたりからつげの旅狂いがはげしくなるのである。そうしてこれから多く旅物の傑作が生まれるにいたる。ざっとみてそういうような経緯となっているのである。

1968年、31歳。まずこの一年間の「ガロ」発表作をあげる。

長八の宿(1968・1)
二岐渓谷(1968・2)
オンドル小屋(1968・4)
ほんやら洞のべんさん(1968・6)
ねじ式(「ガロ増刊号 つげ義春特集」1968・6)
ゲンセンカン主人(1968・7)
もっきり屋の少女(1968・8)

いやこの年は豊かである。なんとつげ漫画の極北「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」両篇が並列するという。ほんとう凄い眺めである。

ところでそのあとの5篇これがすべて旅物とくるというわけだ。これらのうち67年の旅に題材を採る作が「長八の宿」以下3篇つづいてある。

「長八の宿」は、同年8月の立石氏との伊豆の旅。この作の主人公ジッさん。モデルは第一章であげた「私の祖父は一時泥棒をしていた」という、つげの義祖父である。このジッさんがまあ光り輝いていることったら。

「二岐渓谷」、「オンドル小屋」は、東北での産物。前者は、会津の二岐温泉。宿のじいさんとの猿談義がとてもよろしい。後者は、八幡平の蒸ノ湯温泉。宿の住み込みで働く少女への熱い思いが切ない。

いまふたたび頁を繰ってみた。そのどれもが読みでがあり捨てがたくある。だがそんなに紙の幅がないのだ。

ここでは残念だが、「ほんやら洞のべんさん」、「もっきり屋の少女」、この2篇にしぼる。

以下――。読んでいただければ、つげにとっての旅はというと、「この世のはてへの道ゆき」、をひたすら巡ることであると、感じてもらえるだろう。

 

ほんやら洞のべんさん

「越後魚沼郡一帯の部落には”鳥追い”という豊作を祈る行事がある 小正月に行われるものでこの日子供たちは ホンヤラ洞という雪のカマクラを作り楽しい一夜を過す」
1頁、1コマ目、そのような台詞ではじまる。そうして画ではホンヤラ洞の内で一夜を過ごす男の子と女の子の二人が憩っている。しんしんと雪が降りしきる。だが洞の内には、神棚が飾られ、火鉢も暖かげ、子供らは、餅を焼いたりまた、本を読んでいる。

2コマ目。大量の雪をどっさりとかむって「ホンヤラ洞」そっくりにのぞまれる宿の全景。「町はずれにある べんさんの宿は べんさんが横着をして屋根の雪おろしをしないので ホンヤラ洞のような恰好になっていた」。このとおりこちらのホンヤラ洞は火も点らず死んだものみたくのぞまれるのだ。
「商人定宿 べんぞうやど」の看板。「今晩は」。「もしもし 今晩は」。「今夜 泊めて下さいな」。青年は、おずおずと引き戸を開けている。
すると、どうだろう。紐で吊された電灯の下、メリヤスの下着に腹巻き、肩からどてらを掛け、頭には手拭い、顎と頬には無精髭の中年男。べんさんが、ござる。   

そうしてのたまうのである。囲炉裏端にひとり、頬杖をついて両目をつむり、面倒臭げなこと。こんなふうにぞんざいにも。お櫃の上の三本の徳利。囲炉裏に刺した三本の魚串。
「おれんところには もう半年近くも客が こねんでおれはくさってたとこなんだ」
その夜、囲炉裏の釜からもくもくと立ち上る湯気。湯気の行方をめずらしげに上目づかいに追うようにもして見詰める青年。べんさんと二人はそこで、ぽつり、ぽつりと言葉をかわすのだ。

「お前さまは どんな商売をしているのかね」。「ぼくは マンガを描いています」。「ふ~ん マンガって商売は 儲かるかね」。「あまり 儲かりません」。「すると お前さまは 不遇なんだね」

漫画を描く「不遇」な身の青年。というと読者はしぜんに、これをつげ自身とみよう。そこらを才といおうか、でなくて技とみようか。つげは、いうならばここで、旅物の仕立てを利用し私小説的な要素を目立たせず作中に、ひそませるのである。

ところでこのとき青年はというと夕食はまだだったのだ。しかし支度はない。しかたなく火で炙った串の魚を齧るほかない。「この赤いまだらは 金魚ではないですか」。「錦鯉だよ 隣村で養殖をしているのを盗んで来たのさ」。いやほんとなんと青年を襲う「不遇」なるさまだったら。

この第一夜。そこからおかしくも哀しい物語は始まってゆくのである。というほんのまだ初めもよろしいのだが、一旦、このところで止まってみることにしよう。

いまさっき旅物として本作をあげた。想を練り、旅に行き、材を得て、作を成す。それこそが旅物という範疇であろう。

だがそれとはこの作は少しちがうようだ。いったように「長八の宿」ほか3篇は実地ものなのだが。ちょっとばかり趣を異にするのである。

68年2月、つげは、たしかに本作の取材のために新潟へ旅行している。だがそのときの模様はどうだったか以下のようにおよぶ。

「これは旅行する前にストーリーは出来上がっていたんです。……。本来の目的は十日町辺りのほんやら洞の行事を見たかったんです。でも時期がちがって見ることはできなかった」「十日町ですけど、あまりにも雪が深くて動きがとれなくて、……。農村地帯を見たいと思ったけれど、ちっとも歩けなかったです」

「ストーリーは出来上がっていた」。そうするとこの旅行はストーリーの細部をつめるための補強のそれといおうか。万端ゆるぎなく、ちゃんと、裏打ちせんという。つげは、このときにはこんな凄い作をすでに、脚ではなく、頭でもって、すっかり描き終えていたというのだ。

これはほんともう、つげの才能のする、ところなのだろう。実見しなく、これほどの舞台設定、人物造型、物語構成をきっちり、仕組もうとは。ここからは、そこらがいかに細心に一貫されているものか、みてゆきたい。

囲炉裏の間に枕を並べて眠る2人。「お前さまは正月早々 こんな雪の中をなにしに来たのかね」、「ただ何となくです」。「お前さまは本当は さびしいのではないかね」

「カーン カーン」。そうして夜明けて翌朝のことだ。「せッ カーン」。場面は信濃川の河原。槌を振るうべんさんの遠い景。「何をしているのですか」と聞く。「赤魚(註、ハヤ)をとっているだよ」の答え。冬場、ハヤは岩の下で眠っている。それを槌音の響きで眠りを破って川面に浮かせる。そうしてそいつを網で掬い獲るというやりかた。

たぶんおそらく雪国人のほかこの漁獲法については御存知ないのではないか。だけどこれがわが郷里の九頭竜川上流域も同様でかわらなかった。そればかりか工事用のダイナマイトを爆破させるという無法者もおいでだ。

 

それはだがよくまあこの画を描くことができたものやら。それはいろいろと書籍や雑誌や写真や映像を博捜しただろうけど(つげはというと、ほんとメモ魔カメラ魔シリョウ魔だった、クソがつくほど)。いやしかしほんとつげの筆の冴えはといったらどうだろう。

つづき二日目の午後のこと。青年は、ここに長く泊まって漫画を仕上げたいが筆が進まない。そのうち2人の間でなんとなく漫画談義がおかしくも真剣に始まっている。これがまことに面白いったらない。

ここでその遣り取りをつぶさに引き写したくある。それはその一々がまことにつげ漫画論としてしごく納得できるから。しかしその紙の幅がなければ頁を繰ってもらおう。

だけどここに一点だけあげる。何かとそれはべんさんが、〈ピョンチャン〉なるウサギを飼っているふしぎをめぐり、論がおよぶところである。ここはほんと卓抜だといおう。

「あれは 子供がペットに付ける名前では ないでしょうか」。「それにこういう宿屋を おやじさま一人で営業しているのも 合点がいかないのです」。「そういう事情が マンガの材料になるのです」。「………… ………… ………… …………」。「ちえッ この頃のマンガはタチが悪いや」と、胡座を組んだそのまま転がり口をヘの字にして両目を閉じるべんさん。

というようにそうして二人してごろごろしている、そのうちにすっかり夕暮れになっているのである。「カッチ カッチ」。「おやじさま どこかでショウシ木の音がきこえるね(註、ヒョウシでなくショウシ、生粋の江戸っ子発音に注意)」。「今夜は鳥追い祭さ」。それから二人の不景気な会話がしばし。なにかと寝転がっていた、べんさんが固めた拳を振るようにし、びっくり突然おっしゃる。
「そうだ おれは今夜 鯉を盗み行こう」。「おれとしてはこんなユウウツな夜に 泰然としているわけにはいかないのさ」。「お前さまは そういう気分にならないのかね」、「それでは 見学をさせて下さい」

というところでこんな見方はどんなものであろう。ここで鯉盗み決行を企てるべんさんに、さきに「長八の宿」のジッさんのモデルとして名をあげた、つげの元泥棒の義祖父を重ねてみたいのだが。そんなにまでするのは深読みすぎるというものか。

それはさて2人はというと、隣村まで一里半もの雪道、いそいそと鯉を盗みに行くのである。べんさんの狙うのは1匹で10万円もする輸出用の金兜という種というのだ。そうしてその池の鯉をいただこうという、ときもときふいに背で声がするのでる。

「父ちゃん」、「ギヨッ」。誰か、となんと離婚した妻が連れて行って別居している、娘だ。「あたい 鳥追い 待ってるの」。「そうか そうか 今夜は祭りだっけのう」。

父に頭を撫でられ、鳥追い祭の行列に、駈け出してゆく娘。
「とりッ!」、「この鳥や」。「どこから 追って来た」、「信濃の国から 追って来た」。「なにをもって 追って来た」、「柴を抜いて カヤ抜いて来た」。「スズメ  スズメ」、「すはどり 立ちやかれ」。「ホンヤラ ホンヤラ ホーイ ホイ」

しかしなんとよく考慮された作品であるだろう。舞台設定。人物造型、物語構成。それぞれがかたみに渾然として一体となっている。

なかでもこちらが納得されるのはそうだ。それはべんさんの描き方のよろしさである。ここからそこらに留意してみてゆこう。

風土と、人間と。そこにある関わりについて、ひろくよく論じられている。十日町はというと、なにしおう、豪雪地なのである。そのことのつながりから、べんさんの人となり、いうならば性格乃至生活形成にあずかる、それは雪であるのでは、そのようにみられないか。

ついてはこの人に著しいものをあげる。いちばんのそれはその屈託のどうにもしがたさだ。離婚の経緯、旅籠の貧窮、深酒の習慣、子供の所在……。などなどさまざまな事情がそこにはあるだろうが。なんともその口の重さはといったら。

べんさんのむっつり。口を開くときもぽつりぽつり、またぽつりと間を置き気もなさそうに、目を伏せてしかしゃべらない。だるまのだまりぶり。

べんさんの類縁は雪国農業によくある錦鯉養殖を経営しておいでだ。だがこれを安定的に継続するとなると、まったくもって絶望的に生易しくはない。ほんとうに環境管理や人手やいろいろ事業経営も多難もいいという。

べんさんのいうところ。「一家ぐるみで つまんねえ 宗教なんかに凝りやがってよ」「おれとしては そんな奴のツラも見たくないのさ」。だけどそれだけのことか。

それもあるだろうがじつはご本人のほうでも何かおありなのではないか。けっして人が悪くはなさそうだから、酒癖だか、借金、女問題、競馬、博奕やら、ではなく怠け者のためなのだろうか。そこらのどうもわからない事情でもってこぼれ落ちてしまったたべんさん。

ここでまた私事におよべばわが田舎町のほうも十日町ほどでもないが雪深いところだ。雪国のおやじたちは、みなさんだいたい、無口ときまっていた。そのうちでも、べんさんみたく成員から外れたというか降りた問題のあるおかたは、だまりっきり。このことでは当方の病弱脱落のため早死にした父が緘黙囚人も同然だったものだ。いつなんのついでやら母がそんな「おまえのお父ったらのう」だなんて笑っていったものである。

「三年寝太郎ではのぉてのう、三年黙太郎やいわれたのう」

ここで思いだした。わたしらの地と縁の深い歌人に雪を詠う歌があったのを。ここに引いてみる。作者、岡部文夫(1908~90)は、石川県生まれ。仕事の関係で40年間、越後から越前へと転任する。

 

雪ぐにに住むもおのれの業としてきびしき冬を堪へつつ生きむ  歌集『雪天(せつてん)』
今日聞けば今日またひとり屋根雪のなだれに会ひて老の死にたる
ふぶきつつ雪のはげしきかかる夜に死ぬこの者もまた業ならむ

 

べんさんは、そうである。ここに引く歌のように、雪を「業」として堪え生きてきた、そんな口の重いやつだ。おわかりに、なられよう。
それはさて鳥追い祭りの夜も後段でのことだ。ずっとおやみなく雪は降りしきるのだった。

「ホーイ ホイ」、「ホーイ ホイ」。なんてそうして鯉を盗むこと、べんさんと青年と二人がいさんで、やっと宿に帰るとなんという。なんとあまりの寒さに鯉は凍って死んでしまっている。

「曲ったまま コチコチだよ」。べんさんは、しかたなく死んだ鯉をさばくこと、そいつを刺身にして大皿にもって、しんみりと杯を口にもってゆく。「ねえ おやじさま」

「ぼくたちは けっきょく この雪の中で何をしていたのだろう」。「グイ」とひといきに杯を干すべんさん。「景色の点景としてみたら さしずめどんな趣きなのかしら」 

 なんてなんというぼくちゃん。なんとまたこの東京ボーイのうがったよな、詮索好きなところにきて意味付けばかりしやまない、うすっぺらなる軽薄トークなること。ほんとよくしゃべるのったら。
「おやじさま 十万円の鯉の味はどんなものかね」。「ゴロン」とぼくちゃんに背を向け横になるべんさん。そうして壁に向っていう。
「お前さまは べらべらと よくしゃべるね」
 そして最後のコマ。ほんやら洞は雪にうまる。時計がいま、音響かせる。しんしんと雪は降りしきる。もって終幕である。


「ボーン ボーン ボーン」