【連載】つげ義春「ガロ」時代 第6回 text 正津勉

第六章 海辺の叙景

 眩く暗む海 

つげは、海の子である。ついては第一章でこちらは、このように書いている。「つげは、海浜と縁深く、幼時、伊豆大島に育った(参照、自伝的作品「海へ」1987)。4歳、母ますの郷里大原町の漁村小浜に転居し、2年過ごす。これからも海を背景にした秀作は多くみられる」と。そのあたりをいま少し詳しくみておきたい。

1937年、つげの出生時、父・柘植一郎は、腕のいい板前職人で、大島町元町の最も大きく格式も高かい千代屋旅館の板長を勤めていた。このときがいちばん家族みんなが仲睦まじくて経済的にもまた安定した日々であったようである。

前述の「海へ」は、のちの密航体験を題材にするが、大島の「三原山」「あんこ娘」「椿」「大島節」などを背景にし、幸せだった一家の情景が六カットも描かれている。なかでも若き母まきがアンコ椿の姿をして「はあー わたしや 大島 御神火育ちよ/胸に煙はよ たえやせぬ」と「大島節」を唄い舞い踊るよろしさ。

そうして扉画はどうだ。そこではあんこ椿の絣の着物姿の母と和装の板長の父をなかに、弟の忠男は父に抱かれ、その左側に父の着物の裾を右手でそっと摘んでいる義春と、兄の政治が立って、一家揃って伊豆大島の海を眺めている構図である。海には夕日が遠く沈みきらめき、空には三輪の椿が舞っている。つげは、エッセイでもこの同様のシーンを以下のように回想しているのである。

「岬の根もとから、ゆるやかなカーブでつづいている岸辺に三人の親子づれの人影が、太陽の沈んでしまった灰色の海を眺めている。これも岬と同じように真黒で、影だけが薄っぺらく立っている。その三人の人影は、四才くらいのぼくと、生れて間もない弟を抱いた父親である。
これがぼくの最も古い記憶である」(「断片的回想記」)

1941年、4歳、母の郷里である千葉県大原(現、いすみ市)の漁村小浜へ転居。父は、東京の旅館へ単身、板前として出稼ぎ。母は、自宅で夏は氷屋、冬はおでん屋で生計を立てる。生活にかなり余裕があった。

「ぼくはいまでも、海を眺め潮の香を嗅ぐと何となく胸がドキドキと騒ぎだすような気がするのは、子供の頃を伊豆の大島と、千葉県の漁村で過ごしたせいなのかと思っている。あるいは母親の方の血縁親類関係のほとんどが漁師と海女をしている遺伝なのかもしれないと考えている」(「密航」)

しかしこの年のいつか、父が病に倒れ東大病院へ入院(翌年、没)。以後、それはもう貧しい母子家庭で育つのである。

これをみるにつけどうだろう。このふたつの海浜はつげの波乱の多い生涯において、ほとんど唯一懐かしく思い出される故郷でこそあった。そのようにいえるのではないか。

大島と、大原と。そのどちらでも海にはいうならば、ごろごろと物語がいっぱい、あっちこっちに転がっているのだ。

「眩く暗む海」。まばゆくくらむうみ。本章ではそう、副題にしよう。なんでまたどうしてか。いやちょっと抽象的すぎになるがそう。つげの描く海におぼえる深い光のさま。そのなんとも悲劇性にみちたありよう。そこらをみたいからだ。

「海辺の叙景」(1967・9)」と、「やなぎ屋主人」(1970・2、3)と。これら2作を俎上にする。

 

海辺の叙景

舞台は、夏の海水浴場(モデルは、大原海岸)。物語は、2日間の出来事。はじめにあらかじめ確認しておくことにしよう。

以下、舞台の設定、地理の習熟、会話の内容……。などなどからおしはかって、ここでこの青年をほぼつげの分身とみなして間違いではない、そのようにみられることだ(それはむろん漫画を描くとは一言も洩らしてないが)。

 はたしてこの作で何を描かんとしたか。ここからコマを順に辿ってみてみたい。

一日目、快晴――。画面全体が反射白色。

ドドーッ」。寄せ来る大波の飛沫に立ち騒ぐ黒ベタの人影。「ザザーッ」。打ち寄せる波に腕を切り遊び興じる泳者。
貸しボートの屋台。色取り取りのビーチパラソルの花が開く。波打ち際で遊び憩う男女や家族連れら。それらの人群から距離をかなり置くようにして、ぽつんと青年がひとり、ズボン姿で上半身裸の背をまるめ砂浜に坐っている。
濃いサングラスを掛けっぱなし。ずっと背中を陽に焼くだけ。しきりと不機嫌そうに煙草をふかす。まったく泳ぐ気もなさそう。またその身を固くするような坐り方のぐあい。それからも周囲と容易には打ち解けない場違いな空気がただよう。

ときにそこになんと思いがけないことに。ふっとみると青年のかたわらに、セパレーツ水着で、おかっぱじゃない、ショートカットの似合う、センスよさげな女性がやってくる。そしてビーチマットに横たわるのである。

サングラスを手に取って向こうをうかがう青年。それとなく目が合うかという束の間。すぐにサングラスを掛けて眠る振りをする女性……。

ここでまず青年のだまりぶりに留意されたい。それはここまでずっと4頁のしまいのコマまでまったく台詞がないということである。もちろん一人なのだから無言といえるが。

みるところその内奥で声にならない声が渦巻いているだろうに。それがなんと呟きでも舌打ちでもいいが何ひとつ表記されていない。というここで画面を見るとつぎのような事態が起こっているのだ。

「そんなに焼くと痛くて眠れんぞ」、「平気よ」。やってきた連れが声をかける。連れにオイルを塗ってもらう女性。「痛そうだなァ 真赤じゃないか」。青年は、それをみて気が削がれてしまい、そっとその場を後にしてゆく。

このときの青年の苛立たしさったら。幼い日に遊んだ海。愛しくも懐かしい海。なんとそれがいまや都会の新有閑層の海水浴客に占領されているという。あまつさえ火遊びの猟場になっている……。


つづいて海浜のそれから、がらりと場面はかわるのだ。空に舞うカモメの禍々しいベタの黒い影。青年は、賑やかな浜辺から離れていま、誰もいない寂しくて恐ろしげな、黒々した岸壁を見上げている(モデルは、同海岸の八幡岬)。波が大きく打ちつけ、岩を這い上がる。

ドドーッ」。とふっと人の気配を感じて、振り返るとなに、目前の同じ岸壁を、さっきの女性が岩場に坐り見上げている。ときにその跳ね音がして、みると魚が躍りあがる。

バシヤッ」。「あッ 釣れた」と、女性。なんとその高い岸壁の上から釣り人がのぞき、ぐいーっと竿がしなって、いましも釣り糸を大きく揺らす大物を上げてゆく。

岸壁の上の釣り人。真っ黒な岩棚のそこに、細く小さく白抜きされた跳ねる魚、ピーンと張った釣り糸。魚影を見上げる二人。このシーンの縦長のコマが見事なること!(これはつげの才が創案するところで、八幡岬は実際には20~30㍍の高さがあり、もとより釣りは不可能だという)。

プツン」。糸が途中で切れてしまい、魚が海に落下してゆく。「アア…… おしいわね」。「なんて魚かしら」、「さあ ……」。はじめて口をきく二人。「一本 いただけますか」と、男から煙草を貰う女性。まだこの頃は煙草を吸う女性は珍しかった。
「ここ すごいところね」、「うん …………」。岸壁に腰かけて岩場に打ちつける大波をともに眺める二人。ここのコマの画のタッチも凄いものがある。黒くベタ塗りされた岩。それはまるで二人を襲う巨大な獣の足爪みたくはないか。いやどこかなんか不吉っぽいことこれが。

「つれの人は こなかったんですか」、「つれ?」。女性は、さっきの男は国民宿舎で客なだけで、こちらには一人できたという。

「あなたも 東京から?」、「母親にさそわれて しぶしぶ来たんです 日蔭のもやしみたいだから 黒くなれと言われてネ」

ここらからつげ分身はというと、おかしな言い方であるが、じょじょにつげ本人になってくる。「この海浜は母親の生まれたところでね 僕もちいさいとき一年ばかりいたんです」(ここなど年譜とまんま)。そして「二十年ぶり」とあるから、青年、いや、つげ本人の精神状態が最悪最低の24、5歳(参照、第三章「チーコ」の項転載の年譜)の設定とわかる。

さて、だんだんと陽が陰りはじめる。それから岩場を歩く二人のそのさき。「あら」。さっき釣り糸から海に落ちて死んだ魚が浮かぶ。それを目にすると突然、青年は、子供の頃、この岬で見た網に掛かった「土左衛門」の話をする。それは子供を抱いた女の人だった。以下、会話を端折る。
「港にあげられたのを見に行ったら 全身真っ白になっていた」。「鼻の穴や口の中に びっしり藻がつまっていてね……」、「漁師でも 溺れることがあるの?」。「いや 子供を抱いた 女の人なんだ」。「………… ………… …………」。「子供は 半分 骨になっていた……」、「怖かったなア……」。「あの岬の下は蛸の巣でね 無数の蛸に襲われたら たちまち骨にされてしまうんだ」。「蛸って可愛い感じなのに」、「本当はドウモウなんです あの鋭い嘴を見ればわかる」

ここでいう蛸の怖く「ドウモウ」なること。それは蛸が強靭な筋力で甲殻類の殻を砕き、「鋭い嘴」できつく閉じた二枚貝の殻をこじ開ける。ここらはやはり海の子つげらしくあるか。

それはさてここで一拍おいてみてみたい。青年は、なんでまた初見のしかも好意をおぼえる女性にこんな空恐ろしげな会話をするのか。それも微に入り細に入るよう。どういうか心底になにか外傷というか他人にあかせない秘匿すべき何事かがあるのか。いやなんとも執拗なぐあいでないか。
それはさて二人は港にでている。突堤に繋がれた、おそらく錆だらけの、小型のペンキの剥落のはげしい数隻、ばかりが揺れている、ベタの黒い船影。そうしてその別れの時間がきいている。
「あしたも くる?」、と女性。「うん」。「たぶんお昼過ぎに」と、男性。
「じゃあ…… …………」

二日目、降雨――。画面全体が曇天墨色。

ザー ザー」。雨脚にけむる海辺、海水浴客の姿はない誰も完全無人。海辺の貸しボート屋の軒先に坐って女性を待つ青年。待てども現れない女性。
青年は、番傘をさし、浜辺で餌を啄むカモメの群れに石を投げる。ここでまた空に舞うカモメの禍々しいベタの黒い影とはどうだ。「来てたの」。「ハァ…… しんど」。雨を衝いて走って来て荒い息を吐く女性。
「雨だから 来ないと思った」。「ちょっと仕事してたので おそくなったの」、「水着のデザイン?」。「水着はもうおそいわ………… 冬物の」

彼女は、これをみるにつけ高嶺の花なのである。なんともなんとときの「平凡パンチ」(「ガロ」と同じ1964年創刊)はアイビー・ルックの大学生ら憧れの人気ナンバーワン女性職業のファッション・デザイナー! 青年に、ほんとうにまったく無縁の人なのである。

「だあれも いないね」、「かえって 静かでいいわ」。貸しボート屋に並び腰かけた二人。青年が伯母の家から持ってきたミツマメを美味しそうにそっと唇に載せる女性。しばらく二人の会話がつづく。すると突然のこと、「少し 泳ごうかしら」と、女性。
「明日は 東京に帰るから 泳ぎおさめをしなくちゃ」、「あした …………」。このコマの青年の驚き落胆ぶりったら。これは決定的である。おそらくまったく女性と無縁なままきようまで無為な日々をすごしてきた。それがやっと親しく話せる美しい人がというのに。

「それに 私ものすごい勇気だして……」。「ビキニ 着てきたの」、「すごいや」。「これで一度 泳いでみたかったの」。「よく似合うよ」。「すごく きれいだよ」。「すごく」。コマを分け見詰め合う二人。ついでながらビキニが一般的になったのは1970年代になってから。それがこの時期にもう着用していると。ここらからもさすがにファッション・デザイナーらしくあるのでは。

「あなた いい人ね」と、女性。つげは、いや違った、青年は、いったいぜんたいどれほど幾度たりこの言葉をきかされたことか。「………… ………… …………」。ここでのこの長い沈黙が辛いことったら。だがこのときの一言が迷う羊の背中を押すことになったのだ。「よし つきあおう」と、二人で雨降る海原へ。

キャア キャア」。気味悪いカモメの大集団。「あなた 泳ぎ上手ね」。途中で一度、「だけど ……… いまは ……… 体力が ………」、「なくて ……… アア 苦しい」、息切れする青年。「あがりましょ」と、うながす女性。「いや 大丈夫」と、うつむく青年。「誉められたからね」、「もう一度 ちゃんと泳いでみせるよ」

「こう行って こう……」と、女性。リクエストに答え、懸命に、息継ぎ、クロールで泳ぐ、必死な、青年。

「あなた すてきよ」と、女性。そんなふうにまた最後通告をにおわせてくる。残酷なるビキニ姿に番傘を差しながめる女性。

そして最後の見開き2頁。その全体の巨大ゴマ。手前に黒い影で呟く女性。
「いい感じよ」

「あなた すてきよ」
暗い海の向こう、孤独に泳ぐ青年、その真っ黒い影。空いちめん、細い雨の線が、降りつのる。

風は吹きまくる、右へ煽るかと左へ縒れる。ながめやるはるか遠い沖、ずっともうずっと黒く渦を巻きつづけやまない、雲の速さといったらない。潮が蹴たてて押し寄せる、浜に身をなげだす。

陰惨になっている。あたりいちめんたれこめた曇天がめくれるばかりのすさまじさ。大荒れもひどい大波のありさま。ごうっごうっとずっともう攪拌はつづきやまないままという。症候をやっている。

――ドウイッタラ イイモノカ……。おもうに自分は平衡に欠けがち、というか神経の針がわけもなく一方に振れてしまう、そんな変な症候が以前よりあった。ソレモヒドク シツッコク……。

青年は、ぐいぐいと水を切りつづけるもなお、つぎつぎと頭に浮かんでくる、ことどもに足を引っぱられるようで、必死だ。

そういえば、あんなにまでも振り切れぎみだったのは、いつだったか。どういうか、まんなかあたりから折れてしまったような、どっかぽきんと。とかいってやたら堪え性なく転職に転職、どうせそのうち死ぬんだからって、借金に借金を繰り返すばかしのありさま。どんつきも、どうにもわからなく救いがなくなっていた、どんつまりに。ひどいざま、そのはてついに針が飛んでしまっている、みたくあった。

――ときどきよく かんしゃくをおこし ばくはつして……。

そんなときに急におかしいのったら。あれはいつだったろうか、たしか小学二年の女先生のなんという通信簿の担任所見だっけ、そこにそのようにあった。なんてことを思いだしたりしているか。

がりがり、ごろごろ……。雷が鳴りとよむ。でもうそんな歯の根が合わないようなのに、宙も割れよというかに恐ろしげに沖のあっちこっちで走る光、やけっぱちみたく遠く近く轟きやまない。雹の礫もまじる。ごろごろ、がりがり……。

わかっていて、なんでこんな無茶というも無慙すぎることを、しているのか。いやほんとに、まったくもう沢山というも仰山すぎるまで、やらかすのか。

青年は、水を切り、息を継ぐのも喘ぎ苦しげに、足を蹴る、必死だ。

「いい感じよ」