【連載】つげ義春「ガロ」時代 あとがき text 正津勉

 

あとがき

 

つげ義春―「ガロ」時代。ようやくのことその歩みを辿ってここまできた。つげの「ガロ」。それはそっくりわが60年代後半、京都時代、20代前半とかさなるのである。

いうならばこの年回りのつねなのであろう。ノイローゼの俘虜みたいになりがち。考えるなにもかもすべて、ただもうただ暗くとめどなく、面をあげられないしだい。しばしばひどく自閉しがちであった。そんなときつげ漫画がいつもそばにあった。

只今、70過ぎ。かえりみれば半世紀以上になんなんとだ。はるばる来つるものかなと思いしきり。コロナ禍のきょうずっとひとり巣ごもり。ひさびさにつげの「ガロ」作品を読み直しつづけてきた。おのずと若年の日の感受とちがう。

「つげ義春は、フォーク・ロアの世界へと参入することになった、と」。そのように本文の最初のほうで唐突に言挙げしておいた。

本書で俎上にしたつげの「ガロ」代表作の16篇。そのうち「チーコ」、「海辺の叙景」、「やなぎや主人」の3篇をのぞき、どれもみな「フォーク・ロアの世界」の産物であること。「ガロ」時代、つげはというとすでに、都市に背を向けかげん、ひとりひっそりと、民俗へ踏み込んでいた、というあかしになろう。

このことの繋がりから、ここでその柳田國男理解をめぐり、つぎのように述べておきたい。つげは、もっともよく柳田國男を汲み取り作品世界を切り拓いてきたのだ、と。それはどういうことか、実際にこちらが身近におぼえた範囲にかぎって、おしまいのおぼえに。

裏日本は狭隘な山間地。当方が産声を上げるも、やがてはやむなく見捨てることになった、いまや恩讐の彼方の地。つげは、むしろそのようにある辺境を探索せんという、ことをこそ創作の原点としてきたといえよう。

だからいわばなおさら一層のことなのであろう。このたびあらたに頁を繰るにつれ、いやもう胸に沁みてきてならない。なんともかんばしい読書になっているのだった。

しぜんとその作品群の一コマの光景がわが幼時のそれと二重写しに浮かんできている。これらは本文でも挙げたが、ここにいま一度しっかりと記憶にとどめたく、うちの幾つかを箇条にしたい。そこには人が生きて動く姿があった。

一つ、「紅い花」。ずっと昔の友はというと、あの愛すべきシンデンのマサジ、ならぬ、シンデンのヤスシと呼んだ、やつを想い出されたこと。ヤスシ、白子(アルビノ)だった。

一つ、「ほんやら洞のべんさん」。べんぞう、だるまの、だんまり。それがどこかで病弱で壮年のとば口で亡くなった当方の父親みたいだった。そんな「三年寝太郎」さんの。

一つ、「もっきり屋の少女」。ダム底深くに沈んで跡形ない僻村、上穴馬村はダム工事ラッシュ期。わが酒舗の配達先バラック・バー雇われ少女、チヨジ、ならぬ、ハルコ。

一つ、「ゲンセンカン主人」。宿の老婆の「前世」、ではないが、祖母の来世の噺。苦しい地獄に迷う亡者ら、「それはあすのわが身のことであれば」という耳蛸口説きぶり。

などなど、あれこれ……、泣きたいよな、笑いたよな、まだまだ、いっぱい……。とてもいいコロナ禍の日を愉しむことができた。かくしてあらためてつげ漫画の深さ広がりに時隔て感じ入ったというしだいである。つげ義春に感謝して。筆を擱く。

 

謝辞

読者各位。ここまでお付き合い下さって有難うございました。

最後に、当誌「neoneo」掲載にあたり、編集室若林良氏にたいへんお世話になった。拙稿を丁寧に読まれ適切な助言を戴いた。ここに氏の尽力に深く謝意を表したい。また、機会と気力があれば、「ガロ以後」に臨みたいと思います。

なお、本稿は、大幅に筆を入れ、今秋『つげ義春 ガロ時代』(作品社)より刊行されます。ご高覧下さい。

 

【執筆者プロフィール】

正津勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県大野市生まれ。詩人。詩誌「ポエム」編集に携わり同誌上、つげ義春と湯治場巡り「桃源行」(1976・10~77・5)連載。「特集つげ義春」(77・1)刊行。ほか対談・小論など。本稿は、はじめて積年のつげ漫画読解にいどむ論考である。