【連載】つげ義春「無能の人」考② text 正津勉

第一章

―「COMICばく

散歩の日々

83年正月、つげは、一通の年賀状をある旧知の編集者に送付。宛先は日本文芸社・夜久弘。夜久は、その四年前から「カスタムコミック」でつげを担当、寡作の彼から前章であげたほか7篇の多くの作品を受けとっていた。よほどつげと気性の合う間柄だったのやら。つげの『日記』では担当の編集者はあまり良く言われてない、かくいう当方もその一人であるが、この人は数少ない例外なのだろう。つげ担当として掲載した最後の作品は「近所の景色」(「カスタムコミック」81・10)。それから1年半たっている。夜久は、手にしたこの年賀状を「つげ義春の帰還と受けとった」という(参照、夜久弘『COMICばくとつげ義春』福武書店 1989)。

そうして半年後、同年夏やっとこ、つげの2年ぶりの新作「散歩の日々」を手にする。しかし同社ではすでに「カスタム……」は休刊していて、いわゆる青年コミック誌「週刊漫画ゴラク」しかない。そこにつげの新作をもってゆくには、なんとなしちょっと相応しくないのでは。

その問題に同誌編集長氏が提案する。つげの新作の発表を好機とみて、つげを中心とする個性の強い漫画家たちを結集する漫画誌を創刊したら、と。ここらの経緯であるが、さきに長井勝一が白土三平の「カムイ伝」連載のために創刊した「ガロ」、それを想起させよう。つげの存在はそれほどの価値がある。夜久は、新雑誌の編集長に任命される。そこで執筆の陣容として、つげ忠男、畑中純、花輪和一、杉浦日向子、近藤ようこ、やまだ紫、ほかの面々の快諾をえる。誌名「ばく」は、夢を食べるという伝説上の動物「獏」にあやかる。

84年4月末、季刊「COMICばく」(以下、『ばく』と略記)発売。創刊号「散歩の日々」(84・6)を掲載。これを皮切りに、「ある無名作家」(同・9)、「池袋百点会」(同・12)、「隣の女」(85・3)と4作を発表。この後、「無能の人」シリーズの第一作「石を売る」(85・6)以下、五連作とつづく。つげは、これ以後、「ばく」一誌にかぎり作品を発表するのだ。というところから本章では「散歩の日々」から順次みてゆくことにする。

「散歩の日々」。これがどんなものか。ひさかたぶりのこの24ページの新作をどういったらいい。はじめにあらすじから。

原稿依頼の絶えた漫画家。彼は、暇を持て余し、午前中、市民プール通い(註・つげは、ノイローゼの治療として水泳にいそしんだ)。帰宅して昼寝。「泳ぐと不思議と眠くなるのだ」。午後、ポケットに三百円の小遣いをしのばせ、野川に沿ってG寺(深大寺)までの散歩。日課といえばこれくらいがまあ日課。

その日、子供連れで出掛ける。途中、神社の境内で博奕をする労務者風の3人の男らに出くわす。でそのとき何を思ったものか。やつらに仲間入りしてはて、なけなしの三百円をすられると。

「三百円を失うと急に淋しい気持ちになった」。「魔がさしたのだ………」

というここで一拍おくことにする。それはどんな博奕であるのだろう。

「地面に線をひき、銭を投げ、その線に近い者が勝ちで、線を越えると失格のようだ」。これからも銭投げ博奕といおうか。だけどこれがその筋で名があった、おかたに見てもらうと、うーんと首を傾げてしまうのだ。それでどうやら、わたしらのガキ時分のビー玉のそれとおなじ玉を硬貨にしただけじゃ、ないのとのこと。

なるほどなっとく。それはさてとして。ジュースをほしがる子供に買ってやれず、馴染みの古本屋の親父へ金を借りにゆくと。親父さんから今夕、近所の団地の夜祭りがあり、焼きそば屋を出店するとの話を聞きつけ、手伝うことに。昼の散歩から、夜の盆踊りへ。ここからがらりと舞台もそして人間もかわるのである。

盆踊りの焼きそば作り。このときの彼のお手並みの鮮やかなこと。散歩のぼうっとした様子はどこやら、元気はつらつとした別人になっている。ほんといったいこの急な変化はどうしてなのか。そこらについては何も不明なままにしているが。

どういったらいいものであろう。ひょっとして盆踊りなるふつうでない、孤独癖の暇人間にとって非日常の浮遊感、みたいなものが心弾ませたのやら。へんないきおいがついたぐあい。

きているおしまい大浮かれのラストのことである。「そろた そろたよ 心も そろた」。なんてそんな妻と子それに親父さんも踊り興じあっている。「団地 一つに みなそろた」。いやなんともこのシーンが痛快きわまりないったら。

「団地音頭で こんばんは」。ぽつんと焼きそば売り場にひとり。二個の裸電球下と浴衣姿の影絵と煙草の煙。横目で覗く売上金を入れる竹籠。竹籠と横顔と。籠に伸びる手。握った拳。それこそそんな「魔がさしたのだ………」ということやら?

「自分は 売上げ金を 三百円」。右の手をポケットにしのばせた後ろ姿。「くすねた……」

まずこれは作者現在に近い〈私〉漫画とみていい。彼は、坊主頭の中年男。はじめて子供が登場している。前章であげた「夏の思いで」、「事件」、そこで描かれる彼も連れ合いもまだ若かった。だがここでは2人の間に4、5歳の男の子ができている。つげの回想録『つげ義春漫画術 下』で、この作品について「……この頃ノイローゼが辛かったものですから、……。片隅で静かに過ごしていきたいという願望があって、それで描いたんですよ」(以下、註無き回想録は同書)。というそこらをおさえて一点にしぼりおよぶことにしよう。ここにいう「片隅で静かに過ごしていきたいという願望」のささやかさ。そのことをしっかりと実感させてくれるのは特段どうということでない。

たったそう、三百円、なのである。いつもポケットにしのばせている。これこそこの人物にとって余裕、人格をたもつ護符がわりだろう。三百円あれば煙草一箱買えれば珈琲一杯飲めると(両方ともつげの嗜好なるなりだ)。「すると、わずか三百円が貴重なものに思えたりしてくる」

それでじゅうぶんに仕合わせというしだい。それ、以上でも以下でも、ない。いやほんとこの額こそ、その人となりを語ってあまさない。

いまこのあたりを処世の智恵といったらいいか。これぞ「きようまでずっと生まれてこのかた喰うためにあくせく、飢餓線上、ぎりぎりいつだって人さまにへりくだり長らえてきたのだ」(『前著』第三章)という。そのいやはてに体得した哲学であるのでは。

正価にして三百円なりの人品! これでじゅうぶんなのだ、じゅうぶんすぎるとも。ほんと、いうにいわれぬ後味を残す作品なのであるのだ、これが。つげは、このように語っている。

「この主人公は人生を静かに降りようとしている。たとえ意識的であっても、そういう気持ちを持つと、周囲が静かに見えてくるんですよ」

ある無名作家

「一九八四年(昭和五九)年 四七歳

季刊コミック誌「COMICばく」が創刊され、三年ぶりに作品発表。雑誌の主役にされたことに当惑しつつも、毎号執筆を続ける。……。慢性となったノイローゼのため気鬱の日が続き、仏教書をしきりに読む」

まずは「ばく」創刊時の年譜をみると相変わらずの症候群の記載がのぞく。ではあるが「散歩の日々」については、みてきたようにこの再々登場作は驚きのなか、おおむね好評裡に迎えられたものである。それではつづき、「気鬱の日」のなかペンを走らせた、2作目「ある無名作家」は、どうだったか。これがまあ「散歩……」とはガラリと色合いをかえる。つげにしてはかなり長尺となる36ページ。なんとも重苦しくもたれるような作品であった。これもあらすじからみたい。

若い漫画家の安井。五月の節句の日。鯉幟をあげていると、突然そこにふらりと、奥田が訪ねてくる。子供の伸一を伴い、酒瓶を提げて。ふたりは近くの河原へ出かけ、酒を酌み交わし、昔話をする。奥田は、かつて同じ漫画家Aさん(水木プロがモデル)のアシスタントだった。彼は、大学の英文科出で、自己表現としての漫画にこだわり、安井と入れ替わりに仕事を辞め、生活に窮している。

安井は、しかしながら生活のためと割り切って働きつづけている。「なによりも 生活が大切……」「たかが マンガなのに……」と。ここに安井でない、つげとおなじ水木プロで働いていた後輩の回想がある。

「その時期(註・1968年頃)、水木さんの作品の半分以上はつげさんが描いた。/十六ページから二十ページくらいは一日か二日で描き上げた。/つげさんは、自分の描く絵とは全然違う、水木さんのキャラクターをソックリ真似て描いた」(「あの頃の、つげ義春とぼく」山口芳則『スペクテイター41号 つげ義春』2018)

奥田は、まったく安井とは反対なること、あくまでも自己表現にこだわる。そんななにしろ「そういえばそのとき彼は小川国夫の小説を読むことをすすめてくれた」というのだから。安井は、このとき、だけど「その頃 小川国夫はまだ殆ど無名に近く私は無名作家に興味はなく 読まなかったので」「奥田さんの鑑賞眼の確かさが分からなかった」だって、おかしい(小川とつげとでは、およそまったく、天と地と、そのものもいい、境遇であればなり)。

そんなんで、いつか奥田を訪ねると、なんという。アパートの部屋の全部の畳を家主に無断で売り払っている。安井は、でそこで奥田に「私は見かねて仕事を手伝ってもらうようにした」と温情でもって、自作の画の背景を描く仕事を頼む。そのことがかえって彼を深く傷つけることになるとは。

それでまた、いつか安井が奥田を訪ねると、ひどいのだ。すっかり窮しきった彼はというと、「バシッ」と、蠅叩きでもって「蠅のいない季節でも蠅を打つ真似をしたりしていた」。いやこのコマの真っ暗な画が凄く迫ることったら。どこかまるでつぎの句をしのばせるぐあい。

人を憎み深夜も蠅を憎み打つ 三谷昭

どうにもこうにも辛いのったらない。安井は、それを見て思うのだ。「蠅よりもっと惨めな」「うじ虫と化してしまった」、自身が貸本マンガ家時代に困窮したあげく、下宿代を二年分滞納したため、便所を改造した部屋に移され呻吟した日々のことを。このときの「うじ虫」生活は見開き2ページ6コマにわたり克明に描出されている(ついては「義男の青春」の最終ページに同場面がでてくる。だけども本作の描写のほうがより狂的で陰惨さにまさる)。

いっぽう奥田のほうは、ただもう堕落するばかり。バーテンダーをやっていたとき、粗相をしでかし客に絡まれ殴られ蹴られはては放尿、ションベンをかけられるとか。そんなのでいま奥田奥方様は米軍の専門売春婦でおいでという。それでおっしゃることったら、「お前ね OMANKOは OMANKOで 通じるん ですよ」「国際語 ですからね」、なんていうようなはちゃめちゃ。米国の属国、敗戦国日本、真実の現実!

いやはやなんともどういう、「安井さん ぼくをモデルに 描きませんか」「女房に 売春やらせて いるかいしょなしの亭主」。「こんなの マンガにも ならんか ハハハ」、なんていうていたらく。

などなどとそんな貧窮問答のありようありったけ。それでもって、とうとう奥さんに連れ子の小学4年生の伸一を残して逃げられて、しまっている。そこまでもうひどく不景気話がやまないのったら……。

それがどこかでこんなフレーズがそうである。わけのわからない、やはりつげの偏愛の私小説作家さんの短篇の「狂詩人」の呪詛もどきみたい、だかなんだかえんえん。もうずっとやまなくエンドレスでつづくよう。

囚はれの醜鳥(しこどり)

罪の、凡胎の子

鎖は地をひく、闇をひく、

白日の、空しき呪ひ……  嘉村磯多「途上」

「おか しい」。そのときふっと気づかされるのである。なんでそんな、まだ酒のつまみに佃煮を買いにいった伸一が帰って、こないのだと。「何処へ 行ってん だ」

そんな迷子にだと? 「伸一」。ふたりは必死になる。「いませんね」。しばらくようやく淋しい道を行く後ろ姿を見つけだしている。「伸一!」と、奥田。そうしてしっかと伸一を抱きしめるようにする。「ぼく 道が わかんなく なっちゃった」。敗戦孤児みたく可哀想になる伸一少年。ほんとなんともその瘠せて貧相な姿に涙腺が潤んできて……。

無事一件落着。安井は、奥田親子を駅へ送る途中、八百屋の店先で菖蒲を買う。「今日は 子供の日 ですね」。「たまに 菖蒲湯は どうです ならないか」と、奥田へ差し出す。「ありが とう」

そうしてそれからそう。安井は、その夕に子供を抱いて旧い木製風呂桶の菖蒲湯に入り呟く。「ふと子供の頃義父に ひどい仕打ちをうけたことを思い出した」。とひそやかにおしまい。 

湯気でけむる最後の斜線のコマの素晴らしいこと! なんともちょっと言葉にしようにできっこない。うーん。ほんとこれはもう傑作なんていうものではない。