【連載】つげ義春「無能の人」考④ text 正津勉

第三章
「無能の人」

髪と、石と

「無能の人」。シリーズ表題作である。それでははじめに扉絵からみることにしよう。これをしかしなぜ表題作としようとしたか。そこらがわかろう図柄であるのだこれが。
ほんとおかしく滑稽で笑えてならない。のんべんだらり昼寝惰眠中、右肘をついてこっくりと横臥、開いた口からたらりと垂れる涎、半袖アンダーにステテコの隙間、中年らしく緩みぷっくりと膨らんだ下腹、鼻下髭氏図のだらしないざま。じつによくその内容を語っているであろう。
ここで前作「石を売る」扉絵をみる。よろしげなる滝石の滝の落ち口の岩に坐る男のシルエット。できるならばかくのごとき山水の飄客になりおおせたら……。それこそがつげの石にひめた思いでないかとみた。ところがどっこい本作ではこのざまとくる。これはどういう含意があってのことか。
それではこの扉絵のダメおやじを頭においてはじめたい。いったいどんな物語が展開されるのだろう。ここからできるだけ丁寧にコマごとに辿ってゆくとする。

1ページ1コマ目。硝子傘付きの白熱電球(参照・『前著』第五章、つげ偏愛なる昭和レトロ照明)。「ボソッ」、いましもその光の下で妻が鼻下髭氏の髪に挟みを入れている。はじめのコマからその顔は見えないこと、しまいまで面を隠したままというのだ(またその名もなぜか呼ばれない)。両手を後頭に怪訝そうに八の字に目をしかめ両親を見詰める子供。
無念無想、「散髪をしていて つくづく思うのは」、「無限に生えてくる 髪の毛を捨ててしまうのは じつに勿体ないことである」のではと頭をめぐらし「髪を食べると 癌や痔の特効薬に なるとか」「そんな 発見を したら 大金持ちに なれるの だが」なんてふうに考えめぐらす、鼻下髭氏。
つづく5コマ目の画をみよ。皿の髪をフォークで、なんかそんなまるでスパゲティでもいただくようにもして、掬い取っているでは?
いやなんとシュールであることか。なんだかあの有名なオブジェ、「毛皮のカップと皿のスプーン」(メレット・オッペンハイム シュールレアリズム展 1936)、そんなのを想起させるぐあい。なんやほんとビックリだったら。
そしてそれだけでなくもっとギョーッとさせられるのはそうだ。そのうえそいつを、ゴミ袋に入れて押入に取って置く入念ぶり、といったらどうだろう。こうなるともうほとんどビョーキとでもいうほかないのでは。

つづき「それと同じこと」として。髪から河原の石へ。それでそんな「この厖大な 石くれを 金にする ことが できたら ………」、「という一念で 型のよい石を 拾い集めるように なった」とおっしゃる。そうしてそのいつか手にしたそのての冊子で石が高値で売れることを知るにいたるのである。でもって「手足に べっとり汗が にじむほど 興奮した」とのこと。これをみるかぎり鼻下髭氏はというと、髪も金に、石も金に、なんだかへんてこな拝金主義みたくあるか。それはさて善は急げであれば、すぐにも近所の古書店へ出向いている。

「山井書店 古書」の看板。こんなことがありえるのか。外から丸見えの開け放しの店先の板間に布団を敷いて寝ている主。山井がほんとう、物凄いのである。顔付きたるや、まったく病人。わけても墨塗り両目が壮絶なること。ひどくよれよれの寝間着で柱に縋って立つ姿の山井(病?)風のよろよろたるさま。ときにその口から「ほら 石ブームの 頃は」と洩れるのである。
「いつ頃 ブームが あったの です」と、興奮高熱の鼻下髭氏。それはそうなのである。本作の時代背景から10年前ぐらい、昭和30年代後半からおよそ10年弱にわたる、全国河川渓谷がにわか探石熱でわいた。そのことをいうのである。そこにはどこかで、高度経済成長下で誕生した土建屋的成金趣味の影響、もあるのであろう。
石ブーム? それがどんなにも凄いことであったか。鼻下髭氏が手にする山井古書店で求めた一冊『全国探石ガイド』。開いたページにつぎのよう書かれているのをみられたし。
「石のマニヤ(ママ)は 全国いたる所へ 探石に出かける」。さして広くもない峡谷にわんさか密集するほどの石狂いさんらの群がりぶり。「採石場所は 主として 川原だ」
というところで私事におよんでみる。わたしらの故郷は九頭竜川上流域にも大勢がいらした。本流では九頭竜川絵画石とかいう独特の紋様石が見つかり、支流の真名川からは真黒石が出るとか(なんでまた当方にそんな知識があるのか。じつはこちらの長兄もこの頃にやはり石狂いだったからだ。熱しやすく冷めやすい兄はブームも半ばにして石をやめたが。いったいあれらのとんでも駄石コレクションはいずこへと霧散してしまったものなのだろう……)。

ついてはこのことでは鼻下髭氏はどんなぐあいなのやら。これとべつにどこへとも探石旅行はしておいでないようだ。
「自分は名石の 産地へ出かけ て行く金も ない」「もっぱら 近所の川で 採石する しかない」。それは夏期の一景だろう。水中メガネに海水パンツの採石スタイル。「この辺じゃ やっぱり 菊花石や滝石 みたいのは 出ないのかな」。呟く父親に拾った石を差し出す子供。これからも父子はいつも一緒だとわかる。でそのように茹だる夏もまた凍える冬もがんばって。雪の降る河原の寒い図。2年間の長きでかなりの数を集めて「石を売る」でみた小屋を開くことになった。
川風が吹きすさぶ小屋の外。「父ちゃん どうして 売れない の」。継のある、綿入れ半纏を羽織った、父ちゃん。「三助」(ここではじめて子供の名前がわかることに)。「ほら」と、三助の鼻をかんでやる良き父親。「チーン」。なんてそんな三助くんやっぱり、どこだか戦災孤児っぽいが、あのひどい喘息はなおったみたい。蔭ながら良かった。
鼻下髭氏、凝り性で、趣味執心。そのうち「愛石情報」なるコア・マニア雑誌を探してきて、なんと「愛石交換会」なるオークションの存在を知ることに。「誰でも 売買できる ようだ」。とそのことを妻の足を揉みつつ、奥さんはこのときまだチラシ配りをやっておいでになるのか、それと打ち明け答えをきくのだ。「じゃ 申し込んで みたら」。かくして会を主催する美石狂会を訪ねることに。