【連載】つげ義春「無能の人」考⑤ text 正津勉

第四章
「鳥師」

鳥屋と、石屋と

「鳥師」(「comicばく7」1985・12)、シリーズ〈無能の人〉第3作である。それでははじめに扉絵からみることにしよう。
そのまえにこれまでの扉絵の図柄をふりかえっておく。第1作「石を売る」扉絵は、よろしげなる滝石の滝の落ち口の岩に坐る男、いうならば山水の飄客のシルエットだった。2作目の「無能の人」は一転、のんべんだらり昼寝惰眠中、鼻下髭氏図のだらしないざま。それではあらたまって本作の扉絵それはどうだろう。
そのさきには川が流れている。水門のような上に坐っている人影。これがそう、本作の主人公たる鳥師の肖像画、というのだ。奇怪きわまりない大ワシをしのばせる背中。ゆっくりと鳥が飛んでいる。
さらにまた画の下方は風になびいている草花に目を向けられたい。ほかでもないこれこそ、薄紫色が美しい多摩川河原を主な群生地とする絶滅危惧種、カワラノギクなのだろう。おそらくこの小さく可憐な花びらの描き方からみて誤ってはいない。
さて、いったいこの扉絵を開くとこのさきどんな物語が待っているのか。くわえて前2作では〈石〉が主題となっていた、それがなぜ本作では〈鳥〉が主項目になるのか。ここからページを繰りそこらに焦点をしぼりコマを辿ってゆくとする。
いやそのまえにもう一点みておくことにする。これまでつげが〈鳥〉を描いた作といえばそうだ。まずもって文鳥が主人公(?)の「チーコ」(「ガロ」66・3)があげられる。くわえて鳥語を解するお方が登場の「李さん一家」(「ガロ」67・6)となるか。ともにそこには人と〈鳥〉の良き交わりがあった。それからときをへて本作ではどうなっているか。

時代は、昭和50年代末。ひるがえってなんとも四十年前にもなっているとはだ。舞台は、多摩川競輪場周辺。
1ページ1コマ目。みすぼらしげな未舗装路のそこに木造平屋がぽつんとある。店名からして「暗原小鳥店」などという看板。軒先にそれらしく吊るされている鳥籠。「その陰鬱な鳥屋は 競輪場の裏の方」「めったに人の通らぬ 路地裏にある」。まずもってこの「陰鬱」と滅入るようなぐあい。そのようにふって「裏」の「裏」とかさねつづける。そのはじめからのこの念の押しようをみられたし。
2コマ目。「今どきカスミ網(参照・前章)など 密売している 時代おくれの店 なんだ」。ガラス戸に臆せず「カスミアミ あります」の貼り紙ペタリ。2ページ上段コマ。「薄暗い店には いつも五六羽の 小鳥しかいない」。ここでも「時代おくれ」「薄暗い」とかさねる、この強調ぶり。閑散とした土間。奥の間にふて寝するかみさんのでかい尻ぺたと太い足。
「それも ウグイス ヒバリ メジロなど飼育に面倒な 和鳥ばかり」。「ついぞ客の姿を みかけたことが ない」

ここからしばし和鳥と外来種の比較や蘊蓄がつづくことに。あらかじめ断っておけば、これは蘊蓄漫画である、そういえる面があるのだ。
さて、和鳥とは、昔から日本に住む在来の野鳥を指すと。捕獲して飼い馴らすものであり、芸を仕込んで楽しむヤマガラを除くと、さえずりや鳴き声を楽しむためであり、オオルリ、ウソといったごく一部を除くと、どれも姿形は地味である。しかも和鳥は飼育が難しく(すり餌と呼ばれる保存の効かない特殊な飼料を用いる)、そのうえ保護規制が厳しく、ホオジロ、メジロ、ウグイス、ヒバリ、ヤマガラ、ウソ、マヒワ、法定七鳥と呼ばれる7種類しか売買されない。
「だから和鳥専門の その店がはやらない のは当然なんだ」。なんぞと鳥屋の店先に坐る、わけしり顔の石屋の助三。
助三に対する鳥屋の主。このいかにもな禿頭で丸めがねの主の容貌がよろしきこと。「この 目白 鳴き台に 乗せてみる からね」と、やおら主がメジロを鳴かせる。自慢げにも、真剣そうにも。その鳴かせ方が驚きだ。ソロバンを指で「コロ コロ」、「ザラ ザラ」と弾くふうに、それでもって妙なる声を引き出すようなぐあい。
「チイ チョリ チリリー」。「声に 艶が あるね」。「鳴合せ会 に出し たら 入賞まち がいなし だ」
そこから鳥屋と石屋がこもごも、おのれらの高尚な嗜好と文化をめぐって、あれこれと自負と蘊蓄をかたむけあう。だがここで一拍おいてみる。いったいそもそも両人の宝たるやはたして、いかにいずこで手中にできるものか。ぶっちゃけたはなし、鳥は山で獲り、石は川で拾う、そんだけのことだ。
そうしてその心はどうだろう。「鳴合せ会」とは、前章のセリ市と同様。「こいつは十万」「いや 二十万はいける」。なんてそんな金のことばかし。

するうちにいきおい現今の浮薄なカタカナ文化を批判におよんでいるしだい。となんと鳥屋が皮肉いっぱい「そういえば あんたのとこも 最近変な 看板だして いるね」なんぞと石屋の皮相さをあげる。それは図中の「いま最もナウい ストーンハンティング」の看板のこと。鳥屋のずばりの指摘に「あ あれは」「つまり」うーんと「カンラ カラカラ」なんて、それこそ一時代前のマンガチックな豪快笑いでごまかす石屋。
そこからなおいっそう失地を挽回するいきおい石屋の弁舌がつづいているのだ。エゴまるだしの西欧の風潮にかぶれるなかれ。だから「離婚も増えるん である」だとか。「ドン」と、拳で板間を叩く石屋。
「リコン!」。とびっくり一言に顔を曇らす鳥屋のおかしさ。つまるところ鳥屋にはつねにその危機にさらされている。いやもうビクビクしている! もちろん石屋もである。そうしてしばし瞑目するよう、おもむろに石屋がおっしゃるのだ。
「自我をへし折って こそ浮かぶ瀬も ある」。神妙な表情の鼻下髭氏のその背後の壮麗な大天体図。「甚深無量広大無辺なる 東洋の思想こそ 人類救済に……」

「ブッ」。突然、強烈に渦巻く、爆音。びっくりその論調を嘲弄し一発かますぐあい、このとき奥の間に横臥する夫人が放つ凄いおなら!
それがきっかけで今度はなんともしょうもない。ひそひそと鳥屋の主とかみさんの犬も食わないケンカの一幕に入ってゆく。これがとんでもない笑劇などたばただったら。ほんととっても面白いのだがここでは端折ることにしたい。しかしかみさんの面貌の物凄さったらどうだ!
まったく阿吽像そっくり。そのこととおまけに一つだけあげておこう。それは鳥屋が申す重い教訓である。これがおかしい。ズロースの替えがなくなったかみさんが主のサルマタを穿いて銭湯にいって恥をかいた。でそれに物凄い形相で激怒し家出したとか。
「ズロースの 一枚も買っ てくれぬ 亭主に 愛想が 尽きたん だろ」と、鳥屋。ここで第一作「石を売る」を思われよ。「私に スカート一枚 買ってくれた ことないじゃ ない」。なんて怒りをぶつける奥さんを。ズロース一枚の鳥屋と、スカート一枚の石屋と。
「働きのねえ男は 女からみればゴミか 虫けらみたいな もんだからな」「あんた だって気を つけなよ」。これには石屋、鼻下髭氏,絶句しばしだ。「ゴミか 虫けら」、いわれるこの言葉かそうなのである、「石を売る」、そこでのつぎの三助の台詞を思いだされたしだ。「母ちゃんがね 父ちゃんは 虫けらだって」
それはさて「ゴミ」と「虫けら」の馬鹿話はまだつづく。そこでふとこんな奇怪な御任が登場されるのである。