【連載】つげ義春「無能の人」考⑧ text 正津勉

第八章
「蒸発」

無用者

「蒸発」(「comicばく11」1986・12)、シリーズ〈無能の人〉第6作である。全36頁。
ここではまず『前著』第四章をみることに。わたしはそこで「蒸発。これこそ、つげの積年の憧憬という、よりもさらに、もっと生来の宿望である、といおう」とおよんだ。4歳、幼稚園に入園するも集団生活に馴染めず3日で止める。8歳、学童疎開先で赤面恐怖症になり「秋の運動会のとき、大勢の人の前で走るのが恐しくて自分の足の裏をカミソリで切ってしまった」。14歳、「密航を企て、横浜まで行く」。15歳、再度「横浜からニューヨーク行きの日産汽船にもぐり込む。野島崎沖で密航が発覚」。というもう闇雲な蒸発こそ、つげ生来の宿望なるしだい。
そこらをふまえ扉絵からみよう。どういったらいいか水墨画の一幅をしのばせるようか。断崖から斜めに突き出た、奇っ怪な松の樹の一本。いっぽうみようには盆栽の人工美のそれっぽくもある。これはなにを象徴するのであるか。

1ページ1コマ目、「山井書店 古書」の看板。外から丸見えの開け放しの店先の板間に布団を敷いて寝ている主。「山井書店の奴はいつも寝てばかりいる変りものだ」。山井のやっこさんはまことに病(やまい)?的。顔付きたるや、両目は墨塗り、ほとんど病人。
2ページ1、2コマ目。山井が珍しくよれよれの寝間着のまま杖をついて散歩。そのよろよろとしたさま。「グズグズヒョロヒョロまるで年寄りか病人のよう な真似して」。
ここでこの「真似」というところで想起されるのだ。第三章「無能の人」の終幕、細君が助三を痛罵。「カメラ屋だって 古物屋だって あんた本気でやんな かったじゃないの」。「わざとこんな 真似している だけじゃ ない」。「なんでなの なんでこんな 真似するのよ」。この「真似」とは、自覚した虚偽? 第四章で指摘した佯狂なる技巧的な存在の仕方?
いやほんとうわからないったらない。だがあえていえば扉絵のような、奇っ怪な松の樹の一本、そのような存在をいうことなのか。なんともむずかしいしだいのようだ。
3コマ目、路傍の板壁に寄り掛かり腰を下ろし休息する山井。その壁に貼られた札が笑える。そんな「私は真理である」だって。4コマ目。塀に手を掛けて杖を頼り歩く図。山井は、みるところほとんど病人であるけど、まったく病気をしてないのだとか。
3ページ1コマ目、「どうゆう 了見 なんです」。山井の背に問い掛ける助三。「あんたに 感化されたんで しょうな」。「あんただって いつも寝て ばかりいる じゃあり ませんか」と、山井。川原の石売り小屋で惰眠中の助三。「水石フェア」と横文字交じりの看板。いつの間にか小屋の天井に雑草が茂っている。石屋(真似?)をはじめてもうかれこれ時間がたっているのである。

ここからの両者のどういうか、やくたいもない無用者をめぐる遣り取りがどこか哲学的でおかしいが、ここでは端折ることにしよう。それよりもここにきて、よくわからない山井の素性がちょっとだけ、あかされたことである。
山井は、伊那の高遠出身で、古本の背取師(業者から掘り出し転売する)として通うちに、山井書店の死んだ亭主の後釜に座った。それでこれがおかしいのったら。山井二郎、というのも本名ではなく、元主人・山井一郎の表札に横棒を一本足し、でもって二郎にしたという。「いいかげんな奴だ」。
細君は、山井がひどく怠け者なのに失望する。だけど「性質は温厚」なうえ「自分を居候のような立場と心得」ること。ひかえめな立ち居振る舞いをする。ためにこれと大きな問題を起こしていない。継児(ままこ)に頭を叩かれる山井。食べ残しを食べる山井。これぞ佯狂なるか?
「ただちょっと気になるのは郷里の伊那にも世帯があるのではないかとの噂がある」。「おたくひょっと してこっちに 蒸発して来た んじゃないの」と、鎌をかける助三。「よくある 話ですね」と、答えてつづける山井。
「鴨長明の「発心集」とか」。「西行の偽作と伝えられる「撰集抄」など 蒸発譚だらけですよ」。というここで一拍おいてみたい。山井のおっしゃることが、はたして、正鵠をえているものなのか。

まずは鴨長明「発心集」について。鎌倉初期の仏教説話集。8巻。建保3(1215)年頃成立か。高僧や名僧との評判を厭い、突如失踪、渡し守に身をやつした玄賓僧都(げんひんそうず)、奇行に走り狂人との噂を自ら広めた僧賀上人(そうがしょうにん)など、おかしな仏僧さんたちの「蒸発譚だらけ」。
つぎに「撰集抄(せんじゅうしょう)」について、鎌倉中期の仏教説話集。9巻。著者未詳。古くから西行の述作とされきたが偽作。内容は、西行が諸国行脚の途上に見聞した遁世者たち。登場する人物は、玄賓、増賀をはじめ、有名無名の僧侶や官人、武士、遊女など、これまた種々の階層にわたる「蒸発譚だらけ」。

ついては「峠の犬」(「ガロ」1967・8)を思いだされたし。そこに「その乞食は西国の偉い坊さんだったそうですがなぜ仏門を捨て乞食になったのか わかりません」とある。厠にあって道心を発して、比叡山を離れ、そのまま「乞匈(乞食)ヲシテ年来過シツル也」(『今昔物語』)うんぬん。かくして誰にも知られぬまま蒸発したはてに土へと帰ってゆく。という長増(生没年不詳)、比叡山の高僧のことを。つげは、ことほどさよう蒸発譚にいれこんでいるのだ(参照・『前著』第四章)。
「そんな昔から 蒸発があった の」。「しかし自分の すべてを捨てて」「蒸発する ってのは なんだろう」と、神妙な表情の助三。
12ページ。おそらくこれは2ページ前の「はた目には なに不足なく 暮していた人が 突然蒸発して」。「何処か の温泉地 で三助 していた とか」というくだり。それからの連想というか流れで助三の脳裡に浮かんだ画とされよう。一コマ目、時代がかった旅館の窓際に立つ男のシルエット。二コマ目、不明瞭にも何故か畳上の裸女の下半身。三コマ目、松の並木に遠く霞む山景を仰ぐ男の背中。このコマで山井がのたまう。
蒸発とは、「自分を 「あってない」 と観想する ための具体的 方法でしょう」と。そうしてくわえる。「あんたの 韜晦無能 ぶりも似て ますな」。「自分を役立た ず無用の者 として社会 から捨てる」「蒸発して いるような ものじゃ ありませんか」。なんぞとくる山井の言、助三が返していうこと。
「だけど おたくの 場合は いずれ 帰るのでしょ」。「まあ私は ほんの 一時的に こっちに」「この世に 来ている だけです から……」。なんてなんとキザなやつったら! 助三、これにはおぼえず笑いを堪えるようにしている。

井月

14ページ。川原の小屋の前に佇む助三。どこにも人の影とてない。ひどく霧が濃くある。「クワーッ」「何処かでサギ が鳴いている」。ここから一転、漂泊の俳人井月の世界に、参入してゆく。ここでのサギの鳴き声は導入としてまことに要を得て見事とみられるのだ(後述)。
『漂泊俳人 井月全集』の背表紙。「山井がこんな本を 貸してくれた」。「郷里の誇りだから といって無理に押しつけ られた」。なんでまた山井がそんな無理強いしてまで読ませるのか。助三は、俳句に関心なければ、名前も存知ていない。
井月は、文政5年(1822)? ~明治20年(1887)、越後長岡の武士の出。天保期から明治初期にかけて信州伊那谷を漂泊、一所不住の数奇な生涯を終えた俳諧師だ。それでははじめにこの本についてみてみたい。
下島勲(俳号・空谷)、伊那谷出身の医師。この人が少時に井月を見知っていた繋がりで井月作品を収集、大正10年(1921)、『井月の句集』(空谷山房)を出版。下島が芥川龍之介の主治医であった縁から、跋文を芥川が執筆した。井月は、芭蕉の「幻住庵記」(約千三百字)を暗記しており、ある紺屋の店先で、酒を飲みながら唐紙四枚に手本もなく書き上げたとか。その筆跡を見た芥川は評した。「入神と称するをも妨げない」と。
それでいま助三が手にする『漂泊俳人 井月全集』であるが。これは昭和5年(1930)、前著を増補すること、井月が残した日記も収め、下島勲・高津才次郎編集で出版された一冊本全集(白帝書房)。
「井月はおろか 今ではこの本 すら埋もれて いると」「山井は 云っていた」。「そんな本を 何故オレに 読ませようと するのだ」と、大冊のページを繰ってゆく助三。

「井月は伊那の人ではない」。「安政五年(註・1858年)井月三十六、七歳(推定)忽然と伊那谷に現われた」。井月は、羽織袴をまとい、腰に木刀をさし痩せて長身、浪人風だったと。ところがじつは「浪人じみた凄味も実際の素顔は禿頭無髯眉も薄く切れ長のトロリとしたヤブニラミのきわめて間のぬけた印象であったという」からおかしい。性質も良さげで、茶目っ気ありだ。

それはさて、元来、伊那谷は好学の風があり、風流風雅を嗜む人士の多い土地であった。そこに現れた書が上手く俳諧の道に通じた井月さん。「田舎者から みれば超インテリであったところから先生先生と 歓迎された」
井月は、いつとなし伊那谷にあらわれ、そしてしぜんに居付くようになられた。このことからも伊那人は井月をして〈来訪神〉すなわち異人の一種〈まれびと〉として遇したのだろう。異人に対しては、畏敬の念をもち、歓待に務めたし。ついては伊那人が井月をよ温かく迎えいれた。まことに礼に叶ったことでその思いは美しくある。なにしろその即吟などは神技にちかいのだ。
「先生 花で一句」と、求められればすらすらと一句。

降るとまで人には見せて花曇り

「先生 栗で一句」と、薦められればしばらく一句。

落栗の座を定めるや窪溜り

「先生 私の自慢の 盆石です」と、見せられればひとひねり一句。

石菖やいつの世よりの石の肌

この「石菖(せきしょう)」とは、ショウブ科ショウブ属に属する多年生植物。名称の由来は岩場に生え、ショウブに似ていることから。古来、ひろく盆石で重宝された。
「先生 今日は 霧が濃い ですな」と、連れのうながしにこたえて一句。

何処やらに鶴の声きくかすみかな

いやこの句に添えられた画が宜しいこと。なんと濃霧の伊那谷に井月ならぬ。これが助三の川原の石売り小屋という。というここで断っておこう。あえていうならば本作はというと、かすみ霧で描かれた、そのような物語でこそあるのではと。『日記』にこんな記述がみえる。
「この辺の川の景色は、本流から枝のように分れたいく筋もの細い流れがいりくみ複雑な地形を見せている。夏は葦(あし)と雑草が生い繁り、冬は寂しい枯野の様相を見せる。とくに冬の川面の霞む茫漠とした眺(なが)めは心にしみる」(1977・2・1)

21ページ1コマ目、「クワ~~」と、サギの鳴き声。2コマ目、ついてはそんな「「鶴の声……」は 井月の辞世の句と されているが だいぶ前の作で あったとか」ということだが(後述)。これを「何処やらに サギの声きく …… なんちゃって」なんて。川原の霧に向かう助三。3コマ目、「井月さん 石も理解 していたんだ な」。石屋らしく、石を手に目を細め呟く、表情がいい。「「いつの世より の石の肌」 いいねぇ」。なんてときにその心はつぎの歌のごとくあったか。

手の内にあたたまりたる石ころは風雨にたえて来たる石なり  山崎方代『方代』

ここで「石の肌」の句の関わりで。ちょっと一拍おきたい。蕉門の奇特なる俳人の路通、じつはこの人につぎのような句があること(参照・拙著『乞食路通』作品社 2016)。

肌のよき石に眠らん花の山

路通と、井月と。いまこの両人を語るに「私は芭蕉や一茶のことはあまり考へない。いつも考へるのは路通や井月のことである」(種田山頭火)という言葉を引いておこう。路通は、井月からおよそ200年前、芭蕉「野ざらし紀行」の途次、湖南で拾われた乞食俳人。こちらは以前よりご両人のその風狂ぶりに関心があった。
井月、「それにしても超インテリが山間のヘキ地ともいえる伊那谷あたりに何故やって来たのだろう」。そしてそれから「そのまま居つくこと三十年に及んだ」のはどうしてか? 当方、そのあたりの事情をさきに「二人の風狂俳諧師―路通と井月」の題で講演した(伊那市主催・第5回「千両千両井月さんまつり」平成29・9・3)。
路通と、井月と。ともに風狂だった。だけど路通は乞食的に不幸だった。

いねいねと人にいはれつ年の暮

路通、年の暮れにもそんなふうに追い払われるばかりの目に遭うのはしょっちゅう。生没年、姓名、生没地、不詳。むろんもちろん墓もありえないと。そこがだが井月は士族的に幾分おちがいだ。ここに講演稿の冒頭と驥尾を引用しよう。
「今朝、井月さんのお墓に参り掌を合わせてきました。暖かい日が丸いお墓に柔らかく注いで、墓前には幾本かのお酒と、応分の小銭が、ひっそりと添えられてありました」「ときになんらかの地縁があったしましょう、でごくしぜんに足の向くまま吸い寄せられるようにも、ふらりとここ伊那においでになられた。伊那には俳諧が興隆していた。そうです、谷のあちこちに素晴らしく心地よろしい「座」、があったと。そういうようなしだいで井月さんは仕合わせな日々をここ伊那ですごされたとおぼしい。/井月さんは、ほんとうに伊那で仕合わせだった……」(「伊那路」平成30・1)

22ページ一コマ目、雨中を彷徨い歩く井月の背中の図。

今は世に拾う人なき落栗のくちはてよとや雨のふるらん

井月、またよく和歌も手練れだった。枝を離れ落ちる栗の一粒。「伊那谷を落栗の窪溜りと定めたか……」
「伊那には俳諧が興隆していた。そうです、谷のあちこちに素晴らしく心地よろしい「座」、があったと」。発句の手ほどきをしたり、連句の席をもったり、詩文を揮毫する見返りとして、酒食や宿、いくばくかの金銭などの接待を受けつつ、「狭い谷底をあっちにウロ〳〵こっちにウロ〳〵一所不在の風来坊」よろしく放浪しながら生活している。
この井月もそうだが、わが路通ももちろん、それこそ一碗の施しを求めて彷徨い歩いている。ここに両人の飢餓句を並列しよう。

はつ雪や菜食一釜たき出す  路通
粟粥でつなぐ命や雪の旅  井月 

路通句は、元禄元年(1688)師走17日、芭蕉庵にて、翁と江戸蕉門の曾良をはじめ八人で、杜甫の「貧交行」の詩にならい、「深川八貧(はつぴん)」と称し「貧」にちなんだ句席をもつ。この折、「めしたき」の題を振られ詠んだ句。冷たい雪の吹き込む土間の竈で、菜っ葉ご飯を炊き、鼻汁を啜り空き腹に掻き込む。それはもうずっとこんな喰い方をしてきたのでしょう。だけどまたなんと乞食らしいようす、むさくるしく貧寒なるざまでないでしょうか。
井月句は、深い雪をついて知り合いを訪ねて、粟粥(米に粟をまぜて炊いた粥)を頂き、ふうふういって空き腹に啜り込むようなぐあいか。家無しにとって雪はともすると危険ですらある。「つなぐ命や」は、大袈裟じゃない、即実感でしょう。
というところで話を変えることにする。飯から、酒へと。路通は下戸に近かったようだが、井月の淫酒は広くきこえている。井月には「千両千両」なる言葉がある。これは感謝の意を伝えたいときに使う口癖だった。酒を頂戴すれば相好を崩して「千両千両」。井月には酒にまつわる佳句が多い。たとえば新酒が出来たことを知らせる酒屋を指す「帘(さかばやし)(杉玉)」を詠んだ句はどうだ。

油断なく残暑見舞や帘
朝寒の馬を待たせた帘

なんとも新酒を寿ぐ句だけでその数は十九の多くもある(参照・『井月句集』岩波文庫。参考編として「略伝」「奇行逸話」ほかを付す)。井月、だけど年老いるにつれ酒品悪いのったら、すぐに泥酔すること寝小便をたれると。
「そのうちに シラミはたかり ヒゼンを病み」「次第に うとまれ もてあまされる ようになった」。そんなんで犬には吠えられるわ。悪童どもの標的になる。
「わ~い 乞食 井月」。「シラミ 井月」と、はやされ石を投げられる。「ガツン」。その一つが後頭に当たる。血が筋を引き流れる。「しかしついぞ怒りを見せたことないという」。ぼろぼろの継ぎだらけの着物もだらしなく杖一本よろよろと脚をひきずる。衰えさらばえた姿。こちらふうにいえば、すこし井月さんがわが路通っぽく、なってきたというか。
26ページ1コマ目、「井月はアル中であったが 動作はひどく緩慢でそれを形容すると」。腰を曲げて杖つき歩く画。2コマ目、「トボトボグヅグヅ」と。3コマ目、「ヒョロヒョロ」と。井月が、とみると入れ代わっている、山井と。
「山井 ……」。霧の小屋の中で呟く助三。 「まあ私は ほんの 一時的に こっちに」「この世に 来ている だけです から……」