『ドストエフスキーと愛に生きる』。ロシア文学のドイツ語翻訳者スヴェトラーナ・ガイヤーという人物を追ったドキュメンタリーだ。翻訳がテーマになった映画の字幕翻訳をするのは初めてである。まるで映画に自分の翻訳を試されているようで大変な緊張を伴う作業だったが、普段映画ではあまり意識されない言語をクローズアップした作品に関われたのは貴重な機会だった。だがやはり映画になると言葉は映像と音声に溶け込んで空気のようになり、字幕=言語はやはり注目されないものになる。映画は光と影、響きと沈黙の芸術であって、言葉そのものが主役になることは難しいと実感した。
この映画について書く前にまず字幕翻訳をめぐる一般的な事柄に少し触れておきたい。映画では幅広い観客層に分りやすくするために、プロの翻訳者の言葉を選ぶ苦労は並大抵のものではないだろう。特に娯楽映画では字幕を読めずに引っかかるのは最大のNGだ。だが私はパートタイム翻訳者として自身の研究分野に近い作品と関わることが多く、ときには非常に分りづらい台詞の作品を手掛けることもある。そこでおそらく一般的な商業映画で求められるものとは少し違った立場から、この字幕という不可思議な仕事について日々考えることになった。
映画字幕の役割はどちらかというと応急措置的なものではないだろうか。本来は台詞の意味が完全に伝達されるにはそれなりの時間を必要とするのは言うまでもない。だが字幕ではオリジナル音声の流れる間だけ、制限された文字数で意味が伝達される。日本の字幕翻訳業界での一応の基準は1秒間に4文字を上限としている。ただしそれより多くの文字数を詰め込んでも読めないことはない。とりわけテレビやパソコン上の文字を読み慣れていれば、1秒に倍の8文字くらいのペースでもさほど苦労なく読み通せるはずだ。だが画面上にあまりに多くの文字が並ぶと、それだけ映像が隠れてしまう。しかも文字を読むのに気を取られると映像を見る余裕が失われる。だからこそ字幕は映像の邪魔にならぬよう簡潔で分かり易い方がよい。無理に説明を増やすことが、必ずしも字幕としてよい結果をもたらすとは言えない。
字幕翻訳では発話のスピードにもよるが、だいたい半分から3分の1くらいの情報量しか訳出できない。DVD等で各国字幕入りバージョンが出ているもので外国語の字幕と比較すればよく分かる。欧米の字幕は文字数が多く、台詞を喋っていない部分でも字幕がずっと写されている。また短時間で複数の人物の台詞が交錯する箇所は、1枚の字幕に2人の台詞を並べて表記する。だが日本での慣例では、台詞の聞こえる間だけ一人の台詞を一枚の字幕で出す方法を貫徹するため、喋っている声とのシンクロ率が高く、誰の台詞が字幕になっているのかも特定しやすい。日本における字幕翻訳は世界的にも高度なシステムを発達させているのだ。
だがそれでも根本的な問いは残る。読みやすさ、分かり易さ、簡潔さを追求してきたために情報量が制限される映画字幕を、そもそも翻訳と呼ぶことはできるのか?字幕翻訳家の方々の著書でよく見る意見は、「映画字幕は翻訳ではない」というものだ。なるほど、その主張の意図はよく分かる。なにより観客にとってなじみの薄い外国映画を理解する助けとして、映画字幕には異文化間翻訳の責務がある。幅広い大衆向け娯楽映画において原典に忠実であることより日本の観客に受け入れやすくする事の方が重視される。観客になじみのない表現、とりわけギャグは字幕翻訳者が新たに笑いを取る工夫が必要だ。字幕はギャグの解説ではなくギャグそのものでなくてはならない。つまり字幕翻訳者は映画製作の最後のスタッフとして、日本版の台本作家的な役割を担うといっても過言でない。そのとき原典に忠実な訳を第一義にしない(またはできない)字幕は「翻訳ではない」とされることになる。おそらくはそれが翻訳者の矜持を持つ者としての葛藤を表す本音だったのではないか。
しかしそこで敢えて主張してみたい。「映画字幕はやはり翻訳だ」ということから始めようと。翻訳の抱える理不尽さは字幕特有の問題ではない。オリジナル言語独自の表現を異なる言語に変換する困難はどんなテクストでも本質的に同じだ。分かり易さのために原文の忠実な訳とはあまりにもかけ離れた翻訳をすることは小説や戯曲の場合でも起こりうる。そして原文に忠実に訳すことが、必ずしも≪良い≫翻訳と見なされるわけではない。そもそもある言葉を別の言語文化の中に移す行為において完璧な移し替えなどありえない。もちろん単純なミスとしての誤訳は存在するが、逐語訳のレベルを越えてしまうと何が正しい翻訳なのかを判断するのは途端に難しくなる。機械翻訳がうまく機能しないのはそのせいだろう。逐語訳でない方が実はシチュエーション全体の含意を忠実に伝えられる場合もある。つまり「翻訳」の概念は一見するよりずっと広いものなのだ。
映画字幕に話を戻そう。なぜ字幕は翻訳なのか? まず原典のテクストがある限り、それを無視して自由に訳語を選ぶことはできないからだ。その台詞は映画の映像と音声と密接に関連付けられている。映画全体に気を配りながら言葉を選ぶ必要がある。また字義的に逐語訳であったとしても、映像と齟齬をきたす場合は悪い翻訳になるし、逆もまたありうるだろう。極端な例では、読者の理解のためにオリジナルとは全く違った内容の字幕を付ける場合で、それでも映像に提示される事象とうまく噛みあっていれば機能する。これでも翻訳と言えるのかと疑念を持たれるかもしれないが、そもそも翻訳には創作としての側面がなくては成立しないことも確かなのだ。
そこで『ドストエフスキーと愛に生きる』という映画である。この映画の原題は„Die Frau mit den 5 Elefanten“という。2011年の山形ドキュメンタリー映画祭では『五頭の象と生きる女』という題で上映された。一見すると原題に忠実なタイトルだが、”mit” (と共に、を伴って)という言葉に「生きる」という訳語を当てるのはすでに一つの解釈だ。
そして今回の一般公開の題名は大きく変わり、『ドストエフスキーと愛に生きる』となった。これは翻訳と呼べるだろうか?逐語訳の観点では翻訳ではない。だが「象」がドストエフスキーの5冊の長編小説を含意していることを理解すれば大きく外れているわけではない。そして今回新たに加えられた「愛」という語が、おそらくはこの作品に対する解釈なのだ。題名は異文化翻訳として非常に興味深い考察を誘う。作品そのものに対しどのようにスポットを当てるかという問題を含んでおり、ここでも自由に言葉を選べるわけではないことが分かる。様々な制約や思惑はあるだろう。題名にも善し悪しがある。それもどの翻訳でも同じことだ。
さてこの映画の特徴は、一般向けの解説がほとんどないということにある。主人公スヴェトラーナ・ガイヤーがドストエフスキーのドイツ語翻訳者であることは自明の事柄として扱われており、しかも彼女の辿った運命は20世紀前半のドイツとソ連の歴史の激動を大きく反映しているが、そうした時代背景については簡潔なキーワードでしか説明されない。この前提を知らない観客は不親切に感じるかもしれないが、そもそも映画が入門編的な解説なしに作られているならば、そうした解説は本編においては余計であって、それは必要に応じて映画外で行うべきものだろう。これを字幕で観客に過剰に情報提供するのが良いことかどうか。原典にはない言葉を足して説明してしまう翻訳者のサービス精神は、ひょっとしたら原典に対する過剰な解釈として余計なお世話になりかねない。もちろんそこにも程度問題があり、もともと意味の通った原文テクストをただ逐語訳すると全くのナンセンスになってしまう場合、それを解説的に脚色することがストーリーの本質的な理解にとって不可避な場合もあるかもしれない。だが理想を言えばそもそも映画が余計な説明を排しているならば、余計な解説なしで観る方が視聴覚を研ぎ澄ませてよりよく映画に向き合えるはずだ。映画の中でタイトルにもなった「象=ドストエフスキーの小説」についても本編中で唐突に言及され、それ以上に話題が深められることはない。この映画の主たるテーマは彼女のドストエフスキー論を開陳することでも、翻訳の裏話や苦労話を聞くことでもない。重点はこの象になぞらえられた重い何かと共に生きるスヴェトラーナその人にある。
現在ドイツの書店では彼女の新訳によるドストエフスキーの小説が並んでいる。映画中でも言及されているが、スヴェトラーナはその一冊の題名『罪と罰』の訳語を変えた。旧訳では”Verbrechen und Strafe”(犯罪と罰)だったが、彼女のバージョンでは”Schuld und Sühne”(罪と贖罪)となっている。刑事罰や神罰など外的な力を想起させるStrafeではなく、自らの道徳心によるSühneを用いた。この変更にはおそらく彼女なりのドストエフスキー理解がある。意味だけでなく語感や音韻も含めた言葉の選択に違いない。だが現在ドイツで出版されている文庫サイズの『罪と罰』は旧題名に戻されていて、背表紙に訳者のつけた題とは違っていることが説明されていた。翻訳とは訳者1人で完結するものではないのかもしれない。ちなみに余談だが、ある翻訳が定着してしまうと変更するのが難しい例は、日本のドイツ文学翻訳にもある。カフカの小説Der Process(またはDer Prozess)は『審判』として知られているが、これは本来『訴訟』と訳すのが正しい。この小説は有罪で処刑されるという結果よりも、理由も不明のまま有罪とされた訴訟の過程が本来の内容ではある。だが日本語の語感を考えると旧訳も捨てがたい。はたしてこの「誤訳」を改めるべきなのだろうか。映画でもオリジナルに忠実ではない邦題は枚挙に暇がないが、題名でも翻訳である限り何度でも再考する余地はあるのではないかと思う。
さて、『ドストエフスキーと愛に生きる』という作品は、翻訳における「全体」へのまなざし、そしてそれに至るための細部のこだわり、そして何よりも形式の創出の重要さを映画全体で表現した見事な翻訳論となっている。詳細については予備知識なしに映画を見て、聴いて、(字幕を)読んで感じていただきたいので、この場で立ち入った解説をすることは控えたい。ただこの映画についての個人的な印象を述べるなら、スヴェトラーナという人の生き様がそのまま翻訳という生業に流れ込んで大河となっていることを実感させる。しかもその大河は、細かく見ると際限なく豊かで変化に富んだディテールを含んでいる。ときには全く別方面からの支流とぶつかって大きく流れを変え、また別の支流へと流れ出してゆく。だがその流れの変化は前もって予測できない。いや、厳密に言うと流れの予想はできるが、実際にその流れに乗って初めて舵をどう取るべきかが分かってくる。ついこのような比喩で語ってしまうのは、まさに彼女の生業である翻訳が予想不能な事件の連続でもあるからで、それを言葉で平易に解説してしまうと面白さが一気に失われてしまう。彼女はドイツ語母語話者ではないので、彼女がドイツ語で語るときその語彙を真剣に吟味して語っているのが分かる。日常的な言い回しがほぼ完全に排除された詩の言葉のようである。字幕は彼女の言葉をさらに新たな形式に移し変えようとしたものだ。数々の翻訳の過程を経て彼女の口から発せられる驚きと発見の言葉を、一体どれだけ日本語翻訳で伝えられるのだろうか。そんなことを翻訳の当事者がここでくどくど申し開きしても仕方ないので、結果は劇場で見て確かめていただければと思う。
むしろこの映画の予備知識として必要なのは、彼女の辿った歴史の背景かもしれない。ウクライナ出身、スターリン体制の下で父が政治犯となるが奇跡的に釈放されて帰ってくる。だが一家はいわば国家の裏切り者となる。そんな折にウクライナはドイツ軍に占領される。2つの独裁下で引き裂かれる生活。その中で彼女はドイツ語という外国語を使って生き延びることを選ぶ。やがてドイツ軍の敗色が濃くなると同伴してドイツに移住し、なんととナチドイツ体制下から戦後ドイツで生き延びることができる。その後スイスに移住する。亡命ロシア人は気候の似たスイスに滞在することを好んだ。こうした大きな社会の流れと張り合うように個人の激動の歴史も続いてゆく。だが彼女は多くを語らない。敢えて全く言及しない空所が多い。翻訳の言葉と同じく行間は行間のまま残す。その意味ではスヴェトラーナという人は孤高の文学の言葉のようにそこに屹立している。彼女の人生と思いを翻訳することなど誰にできようか。余計な解説はそれこそ下衆の勘ぐりに堕するだろう。でもその行間に想いを巡らせつつ何らかの形で彼女の全体像を残そうという努力がこの映画を生んだのであり、その苦難と葛藤に満ちそれでいてこの上なく刺激的な≪翻訳≫という行為の権化としての彼女を目の当たりにできることは何ものにも代えがたい喜びだった。
【映画情報】
『ドストエフスキーと愛に生きる』
Die Frau mit den 5 Elefanten/THE WOMAN WITH THE FIVE ELEPHANTS
(スイス、ドイツ/2009/ドイツ語、ロシア語/カラー、モノクロ/デジタル/93 分)
監督・脚本:ヴァディム・イェンドレイコ
撮影:ニールス・ボルブリンカー、ステファン・クティー
録音:パトリック・ベッカー
編集:ギーゼラ・カストロナリ・イェンシュ
出演: スヴェトラーナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット
製作:ミラ・フィルム
公式サイト http://www.uplink.co.jp/dostoevskii/
2月22日より渋谷アップリンク、六本木シネマートほか全国公開中
【執筆者プロフィール】
渋谷哲也(しぶたに・てつや)
1965年兵庫県生まれ。東京国際大学准教授。ドイツ映画研究や字幕翻訳とともにマイナーなドイツ映画の紹介を行う。2012年のトーマス・アルスランに続き、2014年3月にレナーテ・ザミを東京に招いて回顧上映。