【Review】「病み」はいまどこにあるか――『Given ~いま、ここ、にある しあわせ~』text堤拓哉

©2016Givenいま、ここ、にあるしあわせ

ドキュメンタリー映画『Given ~いま、ここ、にある しあわせ~』には、難病の子どもを持つ三組の家族が登場する。難病とは、何が「難しい」病気なのかといえば、第一義的には「治すことが難しい」病気である。では、難しいだけで、努力すれば治るのかといえば違う。まず、その病気の原因が分からない。故に、治療法が見つかっていない。だから、単に難しいというよりは、「現状では治らない」病気と言う方が正しい。それはもはや、「治らない」という点からすれば、病気というよりいわゆる「障害」に近い。しかし、≪いつか治療法が見つかり治る日が来る≫という可能性を考えると、「障害」のように割り切ることも難しい。そこで、難病とは第二義的に、「受け入れることが難しい病気」であると言える。スクリーンに映し出される三組の家族は、≪明るく笑顔で、時に涙も見せるが、いまここにある「幸せ」を実感して日々を過ごしている≫という印象を鑑賞者に与える。だが、それとパラレルに、≪いまここにある「病み」を、どうにかして「受け入れ」ようとして日々を過ごしている≫という側面もあるはずだ。

一組目の家族、「塩川ファミリー」には、「横紋筋肉種」が顔の奥にできたため、手術で眼球と顔の約半分を切除した9歳の長男、利音がいる。「自分のことを可哀そうだと思わない?」というインタビュアーの質問に対して利音は、「思うか」と答える。「思わないですよ」ではなく、「思うものか」という、意地を張っているニュアンス。一見ポジティブな印象を与える頼もしい台詞だが、どこか無理をしている。家族はそんな彼を支え、彼の難病を受け入れる日々を送る。32歳の母親、亜紗美は利音の小学校へ積極的にコミットし、全校生徒に『復学支援ブック』の配布を果たす。それには、顔の約半分が無い彼の病気が「だれのせいでもない」ということや、「移る病気ではない」、「みんなにもできることがある」ということが書かれている。これを≪「いじめ」への過度な警戒心≫と取るよりは、≪子どもたちにとっては説明されなければ解らないのだから、説明は教育者の最低限の義務≫と考える方が自然だ。8歳の次男、利珠はインタビュアーの、「(手術が成功し、利音の病気が)治って良かったんじゃない?」という問いかけに対して、「(毎日の)たたかいゴッコができるから良かった」と語る。スキンシップのある「たたかいゴッコ」は、身体的な欠損を抱える利音にとって、その身体を身体で受け止めてもらえる貴重な機会である。41歳の父、彰は毎朝リフォームの仕事へ行く途中で、地元の氏神様に手を合わせる。始めの頃は、「(腫瘍が)癌じゃありませんように」と祈っていたが裏切られ、次は「眼だけは」と祈るがまたも裏切られ、手術の前には「命だけは」と祈ったと語る。腕輪念珠をした彼の左手首が鑑賞者の目に焼き付く。利音の癌が再発する可能性があることは、誰も忘れていない。

二組目の家族、「志藤ファミリー」の12歳の一人娘、春萌は「ムコ多糖症Ⅲ型 サンフィリッポ症候群」を患っている。この難病は、「幼児期に多動・知的発達の遅れなどの症状が現れ、年齢とともに言語、歩行など様々な機能が退行する」進行性の病気だ。劇中では、退行が始まった年齢は明かされていないが、やっと「ママ」・「パパ」と喋るようになったかと思ったら、それすら発せなくなっていったのだと想像すると、このファミリーの両親の心の内は窺い知れない。気道狭窄を改善するため、「声」を失う手術を選択する直前の、43歳の母親は、次のような素直な気持ちを漏らしている。

「あるものが無くなるのは寂しい…」

もっとも、手術後の春萌は「声」を失うが、別のある機能を取り戻す。そのことを、この時点で彼女は知る由もない。一方の45歳の父親、智広は、春萌の小さい頃からのお風呂担当だが、最近は嫌われていると愚痴を漏らす。

「こんなに愛情そそいでるのに」

ネガティブ思考の発言にも聞こえるが、どこまでが本心か読めない。むしろ、適度な距離感を保っているニヒリズムの表出とも考えられる。彼は、娘に対して時に、「すみませんね」と卑下したような応答する。そこに、彼が難病の娘に対して保とうとする、独特の距離感を測ることもできよう。

三組目の家族、「米田ファミリー」には、「生後1年まで生存する確率は10%未満と言われる」「18トリソミー」という、先天性疾患を持つ四歳の二女、ももがいる。ももが生まれた日は、生まれて直ぐに亡くなった次男の、3度目の命日にあたるという。ももは奇跡的に生きているとはいえ、喋ることも歩くこともできず、呼吸器が欠かせない。そんなももに対して、37歳の母親、和美が

「ご神体やから歩けへん」

と言うと、14歳の長男、遥己はすかさず

「ご遺体ちゃうの」

とボケてみせる。ユーモアが溢れるファミリーだ。しかも、この辛辣なボケは、58歳の父親、立也がももを紹介する時に

「こいつ死んでるんですわ」

と表現することにも通じる。事実として、ももは凡そ一人で何もできないし、いつ死んでもおかしくない存在だということは否定できない。そのありのままの現実から目を逸らさず、最大限ももの存在を尊重しているが故の発言だと考えられる。その証拠に、立也が誤ってももの使用済みのオムツで顔を拭いてしまうシーンがあるのだが、間違いを指摘された彼は

「悪い子やなおまえ」

と言って笑うだけだ。

©2016Givenいま、ここ、にあるしあわせ

さて、ここまで三組の「ファミリー」の様子を俯瞰してきた。難病当事者とその家族が日々、難病という「受け入れることが難しい病気」と、それぞれのやり方で真摯に向き合ってきたことがわかっただろう。それにしても、何故これほどまでに本作は、鑑賞者の胸を打つのか。その理由は、人が誰しも経験する「病」という問題の本質を探ることで明らかになる。誰だって「病」を前にしたら、「治したい」と思うだろう。では、そもそも「病いが治る」という現象は、どのように起こりえるのか。哲学者・小泉義之は著書、『生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー』(青土社、2012年)の中で、次のように述べている。

痛みの緩和や消散とは、短時間に現われざるをえないはずの痛み感覚の量を、少し長めの時間と少し広めの空間へと散らしていることではないでしょうか。(p359

この文章を分かり易くするために、「主語」を補い、加筆・修正を加えると以下のようになる。

病を抱える人にとってその痛みの緩和や消散とは、短時間に現われるはずの痛みを、少し長めの時間と少し広めの空間へと散らすことだ。

まず、ここで言われている、「時間」という物差しの有効性は、一般的な病気であろう風邪を例にしても説明できる。例えば、39度の高熱が2日間続く場合と、37度の微熱が4日間続く場合を想像して頂きたい。39度の高熱では、寝たきりを強いられて漫画を読むことすら億劫になるかもしれない。しかし、37度であれば寝たきりにならず、漫画を読むどころか何とか通常通り学校や仕事場へ行きながらも、回復を待つことができるかもしれない。時間的な痛みの緩和や消散とは、病者にとってアクチュアルな問題なのだ。では次に、小泉が言わんとしている「空間」とは何だろうか。ここで指されている「空間」とは、「病者の身体」である。病みは病者の「身体」という「空間」に立脚している。それでは、この「病者の身体」よりも「少し広めの空間」とは、一体どこにあるというのか。それこそが、病者を支える「他者の身体」であり、最も近くにある「他者の身体」が、「家族の身体」であると言えよう。空間的な痛みの緩和や消散とは、いわば病者の病とは病者だけの問題ではないということを、小泉は上述の一文で端的に示しているのだ。

この「病が治るという現象の本質」を念頭に置いて、本作に登場する難病当事者とその家族の日々を、振り返ってみるとどうだろう。確かに、難病は「現状では治らない」病気だ。しかし、そこには、病んだ肉体が発している声を、絶えず聴いている家族の像が浮かび上がってくる。三組の「ファミリー」が、難病を「受け入れ」ようとする日々は、人が誰しも経験する「病み」という問題の本質的な「緩和や消散」を、最もリアルに体現していると言えるのではないだろうか。本作が描き出している、「いまここにある幸せ」がコインの表面だとしたら、「いまここにある病み」という裏面は切っても切り離せない関係には違いない。しかし、鑑賞者にとっては本作から「Given」、即ち、「与えられた」、≪難病当事者とその家族のまさに跛行的な日々を垣間見る機会≫こそが、「いま、ここ、にある しあわせ」なのかもしれない。

©2016Givenいま、ここ、にあるしあわせ

【映画情報】

『Given ~いま、ここ、にある しあわせ~』
(2016年/日本/日本語/90分/カラー)

監督:高橋夏子
エグゼクティブプロデューサー:大住力(Hope&Wish公益社団法人難病の子どもとその家族へ夢を 代表)
プロデューサー:近藤正典
アシスタントプロデューサー・宣伝:水戸川真由美
撮影:橋本和典
語り・主題歌:綾戸智恵(JAZZ SINGER)
ナレーター:熊谷麻衣子
音楽:KOTEZ(コテツ)
制作・配給:公益社団法人 難病の子どもとその家族へ夢を

公式サイト→http://given-imakoko.com/

2月6日(土)より渋谷アップリンク、3月26日(土)よりシネ・リーブル梅田にてロードショー公開!

【執筆者プロフィール】

堤拓哉(つつみ・たくや)
1989年東京都生まれ。早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系卒業。批評家・佐々木敦が主宰の、「映画美学校批評家養成ギブス第二期」修了生有志+αによる総合批評誌、『スピラレ』現・編集長。「障害学」を軸に、ジャンルを貫通する批評文を執筆中。

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