【Review】若き日の黒澤明の窮迫――堀川弘道著『評伝 黒澤明』 text 指田文夫

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『評伝 黒澤明』ちくま文庫

黒澤明が20歳前後の頃、プロレタリア美術運動に参加していたことは有名だろう。自伝『蝦蟇の油』でも、1929年19歳の時に「世の激動をよそに、静物や風景画を描いているのに、あきたらなくなってプロレタリア美術同盟へ」入ったと書かれているが、ここには本当の理由が隠されている。それは、黒澤勇家の経済的状況である。1914年、大正3年7月10日の読売新聞に次の記事が出ている。

警視庁の戸田警部曰く日本体育会会計主任黒澤勇氏が不渡手形を乱発して為に会計紊乱を来たし不正行為ありとの事発覚し 此程より警視庁戸田警部が主任となり関係者の取調を続行して 同会会長比志島中将、同 会総裁宮殿下家令松井式部官並びに丁酉銀行支配人小川貞一外関係銀行も取調を受け たりしが・・・

これは、現在の日本体育大学の母体日本体育会(以下体育会)の幹部(ナンバー2)だった黒澤明の実父黒澤勇氏が、不正経理を追及されたことで、総裁宮殿下とは、閑院宮、丁酉銀行は華族と関係の深い銀行だった。

この問題は、大正3年上野で開催された大正博覧会に、体育会も体育館を作って参加したが、博覧会が不人気で大赤字になり、不渡手形を乱発したというものである。この事件は「大山鳴動して」に終わり、個人的な使い込みはなかったと立件されなかった。だが、体育会創立以来、創立者日高藤吉郎の直属の部下として同会に勤めてきた黒澤勇は常勤幹事の職を解かれ、1918年には非常勤の常議員にされてしまう。ときに黒澤勇、52歳、黒澤明は8歳である。

黒澤明のチーフ助監督だった堀川弘通の著書『評伝・黒澤明』では、「勇は荏原中学理事を勤め上げ、退職して小石川に移転したのではあるまいか」と書いてるが、そうではない。定年退職が現在より早かった当時でも52歳の退職は異常で、一家は途方に暮れたに違いない(勇は1948年に83歳で死亡と長生きされた)。家も、大井立会川の日体大の職員宿舎から、小石川大曲に引越し、黒澤明も、上流姉弟の学校森村学園から黒田小学校に転校する。黒澤も、自伝で、小石川への移転、さらに目黒、恵比寿への引越しについて、その度に家が小さく貧弱なったと書いているが、実情は本当に急迫していたのである。ただ、1922年には、姉百代が母校森村学園小学校の教師に、1924年頃には兄丙午が須田貞明として映画説明者になり、黒澤家に金を入れたので、経済状態は小康を得たと思われるが。

では、1918年の解職から、1922年頃までは黒沢勇は、どのように生計を立てていたのだろうか。私の想像では、体育会の創立者日高と共に体育会から事業を受け、その度に手当を貰っていたのだろう。先の1918年の体育会の会則には、協議員が定められ、それには日高と黒澤が充てられ、職務は「理事会の諮問に応じ会務を翼賛せしむ」となっている。

具体的には体育会の本趣である「体育思想普及のための事業」、各種のイベント事業を担当していたと推測される。理由は、日高は、兵士予備教育としての体操学校(日体大)と体育会との創立共に、その普及のために「通俗教育」の実施を掲げていたからだ。通俗教育とは聞きなれないが、今の生涯学習のことで、発足時から体育会は東京で、映画(活動写真)、スライド(幻燈)、音楽(軍歌)、演劇(軍人の素人芝居)等のイベントをしばしば開催し、その延長線上に大正博覧会への出店もあった。映画の活用は、黒澤明が、父のことを「軍人としては映画に理解があった」と特別のことのように書いているが、それは勇の職務上の必要から来たもので、勇の開明性故ではない。

また、体育会は明治時代には出版も行い、大部の本『体育論集』を出しているが、そこには吉沢商会の広告も掲載されており、同商会は言うまでもなく日活の母体の一つである。すなわち、1918年から22年頃までの期間、黒澤勇は、臨時の事業を受け、その金で生計を立てていたと推測される。 このように突然に一家が貧困になってしまう現実を直面し、社会の根本的な矛盾に青年黒澤明が憤ったのも当然で、プロレタリア美術同盟に参加したのだろう。また、彼は、1927年に京華中学を卒業し、美術学校(芸大)受験に失敗した時、他の私立美大や一般の大学に行かなかった理由も経済問題だったに違いない。

黒澤の甥・島敏光が『影武者』の準備の頃、黒澤のスケッチを見て驚嘆し、黒澤久雄に「おじさんは、なぜ画家にならなかったの」と聞いたとき、久雄は「貧乏だったか らだろう」と答えた。山本嘉次郎も、PCL受 験の時の黒澤の服装がボロだったと書いているが、本当に貧乏だったのだろう。

この若き日の貧困体験とそこから這い上が るための奮励努力は、PCL助監督時代はもと より、映画『姿三四郎』で監督になった後も 、『羅生門』で大監督になるまでの間、他者への脚本を精力的に書き、脚本料を稼いでいたことでも明らかである。それは、1961年の 『天国と地獄』で一工員から重役になった製 靴会社の三船敏郎の、貧しい境遇に「甘えて 」誘拐事件を起こす苦学生山崎努への怒りに反映している。こうした二宮金次郎の黒澤明 と遊び人の勝新太郎では、『影武者』で決裂 したのも当然だろう。

また、1961年の黒澤プロダクション創立後 最初の作品が、上司の不正行為の責任を取ら されて自殺した中間官吏の父親の仇討ちに取 りつかれた息子という、かなり理解に苦しむ主題なのも、勇の「罪」が、あるいは宮家の 責任を被ってのものだったとすれば、あの三船敏郎の怒りの異様さも理解できるのではあるまいか。黒澤は晩年「是非作りたい題材があるが、作ると自分のみならず子にも累が及ぶのでできない」と言っていたというが、それは勇の「冤罪」だったのではあるまいか。

9784773813043-B-1-L

『黒澤明の十字架』指田文夫著

【参考文献】
堀川弘通『評伝・黒澤明』(2003,ちくま文庫)368P 定価882円(税込)ISBN:4-480-03882-5
指田文夫『黒澤明の十字架』(2013,現代企画室)216P 定価1900円+税 
ISBN978-4-7738-1304-3 C0074

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【執筆者プロフィール】

指田文夫 さしだ・ふみお
1948年東京大田区生まれ。大衆文化評論家。演劇評論家として1982年から、音楽雑誌『ミュージック・マガジン』に劇評を執筆中。著書に『いじわる批評、これでもかっ!―美空ひばりからユッスーまで、第7病棟からTPTまで ポピュラー・カルチャーの現在』など。