【Review】『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』 text 吉田未和

『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』より ©宍戸大裕

この映画の特徴のひとつは、何よりもまず目線の低さにある。この視界が与えるイメージは、愛犬や愛猫とともに暮らしている人には、もしかしたらすでに見慣れた風景かもしれない。だが、わたしたちの多くにとっては初めて見るか、少なくともこれまで知らなかった世界を提示するものだ。犬や猫が対象だから彼らの目の高さに合わせたショットが多く撮れたということなのだろうか。もちろん結果的にそういった側面もないわけではない。動物を中心に作品を作ろうと思えば、彼らの位置から人間を見上げているような絵はどうしても多くなるだろうし、そこから人間の傲慢さや身勝手さがよく見えてくるといったとらえ方もできないわけではない。だが、冒頭の導入部分の語りを聞いていると、もう少し別のことを言ってみたいような気がする。

語り手でもある監督は、被災した土地にも人にもうまく距離をつかめないままに、瓦礫の中をたどたどしいナレーションとともに歩いている。何とか気を奮って出会う人に声をかけてみるものの、相手の虚ろな反応に気勢を削がれたようになっている。心機一転していったんは顔を上げて風景を追うが、ふと足元をみると犬の後ろ姿が見える。被災者と真正面から向き合えないまま、その中で人間ではない生き物の姿があることに気づき、それから次第に動物というものに焦点を合わせていく。その緩やかな過程で、監督は被災者を撮らなくてはならないという一種の強迫観念のようなものから解放され、これまで思い込んできたものとは明らかに違う、もうひとつのいのちの存在にのめりこんでいったように思われる。それは端的に言えば人間よりも小さくてか細いいのちであり、保護や養育といった人間の手による介入がなければ生きていけない、自然の一部でありながらもはや野生種としては生き延びることができない、それでいて人間とまったくの同等に扱われているとも言いがたい、この社会の中ではいまだ弱者としてしか位置づけられていなかった動物の、現在の姿であった。その意味では、犬や猫が人間を見上げている構図には、動物とわたしたちの関係の本質がさりげなく投影されていると言うことくらいはできるのかもしれない。

©宍戸大裕

はじめにこの作品に期待したことは、監督もスタッフも大の動物好きで、出演者も日頃から動物に深く接している人たちばかりのこの映画を見れば、少しは動物の気持ちというものがわかるのではないかということだった。地震や津波は動物たちにはどのように感じられたのか、原発事故を経験したときに何を思ったのか、災害という一大事を経験して人間とは違う位置から何が見えたのか、そんな空想めいたことすら明らかにできるのではないか。動物たちが口を利けないからこそ、飼い主や愛好家、そして監督たちの代弁によってそれを伝えようとしている映画なのではないかと。

だが、予想に反して画面に映っているのは、無表情の、と言うべきなのだろうか。明るくも暗くもない、表情の指し示す意味がよくわからない動物たちの目であり、飼い主に置き去りにされてからは容易にこちらに近づいて来ない野良犬・野良猫の背中であり、あるいはいったん警戒心を解いたらあとは与えられた餌にがつがつと食らいつくだけの、可憐とか可哀想という表現では言い尽くせない生き物の姿であり、汚い牛舎の片隅で、飢えて力なくうずくまっている痩せこけた牛の無惨な様相であった。

もうひとつ強烈なイメージとして与えられるのが、道端に放置されたままの犬の死骸や、牛舎で餓死し、積み重なるように置かれたままの牛の身体である。中には白骨化したり全身に蛆が湧いたりしている遺骸もあって、スクリーンの向こうではさぞ強烈な臭いを放っているだろうことが、見ている者の感覚を刺激してくる。当然のことながら静止したまま決して動かないこれらの姿を、人が脳裡に記憶を刻むようにカメラは時おりじっと佇んで凝視している。たしかに衝撃ではあるが、一方でこれらの映像はわたしたちに不快感とともに一種の場違いな感じをもたらす。この違和感の正体はいったい何なのだろう?

監督は語り手として被災地を歩き、風景や人、そして犬や猫の姿を追いかけながら、時に思いのままを口にする。そのつぶやきは被災地に外から入った多くの表現者たちのものと同じく、現場に足を踏み入れた時の戸惑いであったり、カメラを向けることのためらいであったりする。あるいは動物たちの現状を目の当たりにしたときの怒りの場合もある。だが、たとえば「被災した人たちにカメラを向けることができない」などという述懐は、口にしてしまえば割に平凡で、おのずと出てくる心からの誠実な声かもしれないが、強いて今ここで聞きたいものでもない。そんな素直な独白をしてしまう心優しい監督に、被災地のあちこちで観察される動物の遺骸に正面から向き合うだけの覚悟が果たしてあるのだろうか。映像から受ける居心地の悪さを説明すれば、こんなふうになるかと思う。

©宍戸大裕

しかしながら、そんな先入観を取りあえず抑えてしばらく見続けていると、この宍戸監督はなかなかのタフな青年のようで、いったん動物を取ると決めたら方々を精力的に取材し、石巻の動物愛護団体アニマルハウスに足しげく通い(実際にボランティアとして働く時間も惜しまなかったようだ)、福島県ではボランティアに同行しながら立ち入りを制限されている警戒区域で撮影を続けている。体を張り、時間をかけて人との信頼関係を築きながら撮りためられたその映像は、被災地で地に足をつけて無心に活動を行う多くの人たちと、彼らに守られ生き延びようとしている動物たちの現実を、かなりのところまで等身大でとらえていると言って間違いはないと思う。

映画を見たところで犬や猫の気持ちはわからない、と先に述べた。だが、そんな中でも希望をもたらしてくれる瞬間がまったくないわけではない。それはたとえば原発事故による避難のため、シェルターに飼い犬のチビタを預けている今野さんが面会に行ったときに、チビタが大はしゃぎでしっぽを振ってまとわりついている場面だ。これが久しぶりに飼い主に会えた喜びの表現であることはほぼ確実だ。飼い主の笑顔や言葉もその裏付けをしてくれていて、ああ、チビタは心底嬉しいのだとストレートに感じることができる。あるいは冒頭で、野良猫のみーちゃんを普段から可愛がってきたという小暮さんが、みーちゃんが道路の片隅で体を固くしてうずくまっている様子を(地震の恐さで)怯えているのだと言うとき、それが本当に地震の恐怖の記憶のために人になつかなくなっているのか、実際のところはよくわからない。だが、みーちゃんをいちばんよく知っている小暮さんがそう言うならそうに違いない、見ているわたしたちはまず小暮さんの気持ちを理解し、その上で猫たちの心を察することができる。

人は犬や猫の気持ちをどうやって理解するのかと考えると、動物に普段から接している人たち、対象を愛おしいと思っている人たち、つまりは飼い主や愛好家や保護団体の人々や医者などということになるかと思うが、まずは彼らの言葉を介して解釈している。それならば飼い主たちがどうやって動物の心を知ることができるのかと言えば、いつもそばにいることで、常に彼らの生態に密着していることで、すなわち共生という次元で生活を共にすることで、対話も可能になればお互いの心を知るということも、かなりの度合いまでできるようになっているのではないかと思われる。

©宍戸大裕

今回の震災で多くの動物たちが置き去りにされた。家が流されたり、原発の避難のためにやむなく元の家があった場所から離れざるを得なくなったとき、物理的な意味でも精神的な構えという意味でも、ペットを飼う余裕がじぶん自身にも家族や縁者にもなかったという場合がほとんどであろうかと思う。あるいは、飼い主自身が命を落として結果的に置き去りになったということもあろう。とにかくみな追いつめられるようにして別れを経験しているのだ。中には意図的に捨てたということもあるかもしれないが、今回はそれが問題なのではない。そしてここのところが、この映画に先立つ『犬と猫と人間と』(飯田基晴監督、 2009)で取り上げられた、人間の欲望と消費社会の煽りを受けて捨てられ殺処分されているペットの問題とは大きく異なるところだ。

飼い主と離ればなれになった犬や猫たちは、文字通り言葉を失った。彼らの鳴き声や表情は、それを理解する人がそばにいなければもはや自然の中の一部でしかない。そしていきなり何の前触れも訓練もなく自然に帰された犬や猫たちは、食糧を探すことも居場所を見つけることもできずに、厳しい条件の中で生きる可能性を次第に減らしてゆく。たとえ震災前は家族の一員だと信じて互いに生きてきたとしても、震災によってそんな関係を続けることが不可能になった。それは、ペットは家族の一員と飼い主が言い切るほどには社会全体が同じ意識を共有していなかったことが露呈されたという意味に他ならない。時にはそう信じていた当の家族が自分たちの本音を知ったということもあるかもしれないが、それもまた倫理の咎ともあながち言い切れず、社会の不寛容さや道徳の欠如というよりはむしろペットや動物愛護という点に関して少なくとも日本はまだ未成熟の域にあることの裏付けというほうが真実に近いような気がする。冒頭で監督が「人間だけでなく動物たちも被災していたことに気がついた」と語る。この作品の流れを作る重要な一言だが、たぶん監督が思っている以上に、この台詞はわたしたちの社会にも、そして人の心にも動物たちの魂にも重くのしかかっている事実であるように思われる。

しばしば散見される、道端の犬や牛舎の中の牛の死骸は、わたしたちにさながら地獄絵図を思い出させる。たとえば自力で生きていけない人間の子供や体の自由がきかないお年寄りを空っぽの家に置き去りにしたらいずれは命絶えてしまうように、犬や猫をそのまま野生に帰そうなどと思ったら、それこそ人間の無知か都合のいい思い込みであり、そのほとんどは野生化などできずに早い段階で死を迎えるはずである。これまでそんなことすら考えてもみなかった日本の社会が、あの死骸の映像を受け入れるのはまだもう少し先のことかもしれない。この点については浪江町で希望の牧場を運営している吉沢さんが別の言葉で的確に表現している。「各自がそれぞれ判断して取った行動はどれも正しい。餓死させたことも、殺処分させたことも、意地張って生かしてるのも正しい」。今はまだ、だれも方向性を持たず、どんな理念が必要なのかもわかっていない状態だ。そして、わからないままに各自が自分の信念に従って、正しいと思っていることをやっている(吉沢さんは「宗教」という言い方をしていたはずだ)。だが、人間相手になら絶対行わないようなことは動物にもしてはならないという考えが当たり前のように共有されるまで、わたしたちの社会は何度も苦い思いを経験しながら進んでいかなくてはならないだろう。

数多くの遺骸のシーンがどういう思いを込めて撮影され編集の段階で採用されたのか、その辺の作り手たちの意図は詳しくはわからない。だが、おそらく半分は無意識のこれらの映像は、傍らで自分たちに語りかけ、また自分たちの声を伝えてくれる人間の存在を失った、孤独を強いられた動物たちの最後の姿である。この遺骸こそが被災者としての彼らの究極の姿であるということ、そして「人間だけでなく動物たちも被災していた」ことの本当の意味だということを、この映画を観た者が、多くの人たちの意識よりもほんのわずかだけ先駆けて知ることになるだろう。

©宍戸大裕

【作品情報】

『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』
(2013年/104分/HD/16:9/日本)

監督・撮影・ナレーション:宍戸大祐
構成・編集・プロデューサー:飯田基晴
音楽:末森 樹 整音:米山 靖
宣伝イラスト:うさ 宣伝写真:浅岡恵 宣伝デザイン:成瀬慧
製作:映像グループローポジション 配給:東風

【上映情報】
6月1日(土)より 渋谷・ユーロスペースにてロードショー ほか、全国順次公開 
公式サイト:http://www.inunekoningen2.com/


【執筆者プロフィール】

吉田未和 よしだ・みわ
1973年、山形県生まれ。お茶の水女子大学卒業、東京大学大学院修士課程修了(専門は日本近代文学)。現在、オンライン古書店「桜桃社」を運営。山形市在住。