『モバイルハウスのつくりかた』
本題に入る前に、前章から書き起こしてみたい。
前作『船、山にのぼる』の上映が一段落し、映像祭のディレクターの仕事を終えた2009年春、私はやっと次作の準備を始めた。前2作が、岡山県、広島県で撮影した作品だったため、次回作は自分の住む東京で撮影したい、と漠然と考えていた。単純に地方での撮影が大変なこともあるが、今、自分が住む東京という街について考えてみたい、とも思っていたからだ。そこで、ふと周りを見渡してみれば、自宅から10分ほどの場所にスカイツリーが建とうとしていた。何度も建設予定地に足を運ぶと、商店街の一画が立ち退き、更地になることが分かった。私はあるお店が無くなるまでを撮りたいと思い、その旨を店主に告げ撮影をお願いしたが、はかばかしい返事は貰えなかった。夏ころまで粘ったのだが、この店主とはうまく関係が結べなかった。2009年夏のある日、私はこの企画を諦めた。さすがの私も落ち込んでいた。
それから3日後、気分転換の気持ちもあって、書店の建築関係のコーナーを覗いていたら、「TOKYO一坪遺産」(春秋社)という本のタイトルが目に飛び込んできた。パラパラめくって見るととても面白そうだったので購入した。この本の著作者が『モバイルハウスのつくりかた』の主人公、建築家の坂口恭平さんだったのだ。どこかで聞いたことがある人だな、と思っていたら、2008年に川俣正さんと東京都現代美術館で対談していたのを聞いていたのだった。その時は、よく喋る人だな、というぐらいであまり関心を持っていなかったように思う。
本がとても面白かったので、インターネットで検索してみると、坂口恭平さんのホームページを見つけた。そこでは、日々の活動が克明に記されていて、遡ってずっと読んでいたらこれまた面白い話を見つけた。坂口さんが書くところによると、銀座4丁目に所有者不明の土地があるらしい、とのこと。そして、坂口さんはそこに家を建てたい、と書かれていた。それを読んだ瞬間、私の中で封印していたあることが解凍された。
『モバイルハウスのつくりかた』
またまた話は遡るのだが、私は2003年に『ニュータウン物語』というドキュメンタリー映画を作っている。この映画は、自分が育った岡山県のニュータウンを描いた作品なのだが、その映画を作る前に、日本の住宅政策がどうなっていたのか、かなり調べた。大ざっぱに言って、日本は戦後、アメリカをモデルに家は自己責任で建てる・購入することを前提に住宅が考えられていた。だから私の両親や近所の人たちも何十年というローンを背負って家を建てていた。『ニュータウン物語』では父を始め、そのことを懐かしそうに語る人たちが登場する。私は高度経済成長を背景とした、このような戦後の「物語」をそのまま提示した。しかし、本当にそれで良かったのか、という疑問は自分の中でくすぶり続けていたのだった。
折しも、近年、若年層は約半数が非正規雇用となり、上記のようなモデルではもはや住宅が持てない社会になってしまった。ひどい場合には、賃貸であってもアパートを追い出され、路上生活を強いられるケースも増加していることに対して、私も危機感を持っていた。憲法25条で保障された生存権の最も大切な家というものに対して、まともな対策が考えられていないと思っていた。
誰のものか分からない土地に家を建てる、という坂口さんの考えは、一見過激なようだけど、誰もが自由にどこにでも家を建てることが出来ない、この社会の方が異常だ、とも言える。坂口さんの発想の根幹には、長年、路上生活者の家をフィールドワークしてきた蓄積がちゃんとある。俄然、興味を覚えた私は、ぜひ、話を聞かせてほしい、と坂口さんにメールを出した。
今までの自分の活動について一通り説明し、ぜひ、このプロジェクトを撮影させて欲しいとお願いした。この時に、つくづくドキュメンタリー映画を自主製作で作ることの危うさをあらためて感じた。ドキュメンタリー映画といえども、製作会社が製作する場合や、製作カンパを集めて製作する場合、あるいは何がしかのスポンサーがつくこともないわけではない。それに比べて、自主製作では、製作費の目途はないし、公開だって本当に出来るかどうか分からない。坂口さんからこうした点を鋭く指摘された私は、今までの経験を踏まえて、なんとか出来ると思う、という曖昧な言い方しかできなかった。さぞかし、坂口さんには不安を与えたことだろう。
その後、諸般の事情があって、銀座4丁目のプロジェクトはストップした。だが、私は坂口さんの活動に興味を持ち続けていた。しばらくして、モバイルハウスを作る、というプロジェクトが始動し始めた。だが、この時の企画も諸般の事情でストップしてしまった。
その間、私は自作の製作に向けて、ある悩みを持っていた。世の趨勢は今やハイビジョンである。僕自身は「鮮明な画質」にそれほどこだわりはなかったものの、映画が完成した時点でハイビジョンではない、というだけで劣っているように見られることも避けたい。だからハイビジョンで撮影しようとは思ったが、そのためには新たにカメラを買わなくてはならない。当然、個人のレベルでは放送用の高価なカメラを買うわけにもいかず、民生機、業務機などを調べていた。ちょうど、2010年前後、民生機、業務機ではテープへ記録する方式からカードへ記録する方式へ急激に変化しつつあった。私がカメラを買おうとした時には、家電量販店の民生機はほぼ全てカード記録式に移行していた。同時に、プロジェクト自体が進むかどうか先行き不透明な状態でもあったので、民生機よりは高額になる業務機を買うことにもためらいがあった。だから、私はカード記録式に不安を感じていたこともあって、わずかに残っていたテープ記録式ハイビジョン(HDV)カメラ、SONY-HC9を買った。いわゆる、ハンディカムというやつで、とても本格的な撮影には向かないが、とりあえず最低限度のことには備えておこうというレベルだ。
『モバイルハウスのつくりかた』
一方、2010年頃には、やっとハイビジョン用の編集ソフトが出そろい始めた頃だった。それまではパソコンでハイビジョン編集をするにはまだまだストレスを感じる状況だったようで、私が製作を始める頃、ちょうど環境が整ってきたのはいいタイミングだったのかもしれない。パソコンのスペックも上げなければならなかったので、しばらくしてパソコン一式も買い換えた。こうして、ハイビジョンでの製作に向けて、一から機材を揃えていった。
2010年3月22日、「BO菜 ボートと野菜が東京を救う」という、防災とアートを絡めたイベントの中で、坂口さんが“災害時に役立つ0円ハウスのつくり方”というワークショップを行うことになった。私は急遽、このワークショップを撮影させてもらうことにし、この撮影が実質的にクランクインとなった。多摩川で集めた廃材を、隅田川沿いに長年暮らす路上生活者、鈴木正三さんと一緒に一軒の家を建てる。今にして思えば、この1年後、東日本大震災が起こり、私たちにとってもとても切実な問題となってしまった。
2010年8月、坂口さんは「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」(太田出版)を出版。その前後、おびただしい数のトークショーを行っている。その一部を本編でも使っている。
2010年11月、紆余曲折はあったが、坂口さんはいよいよモバイルハウスの製作に取り掛かった。ここから私はその時、新しく発売された、SONYのNEX-VG10というカメラに切り替えた。結局、カード式の撮影になり、それはそれで慣れないことが多く、様々な苦労があったが割愛する。おおざっぱに書くと、今回の経験では、カード式の記録はドキュメンタリー映画には向かない、ということだ。だが、世は今やカード式一辺倒なので、やりやすい方法を模索していくしかないだろう。
モバイルハウスの製作に関しては、ぜひ、本編を見ていただきたい。
2011年3月11日、東日本大震災が起き、福島第一原発が爆発事故を起こす。一時、東京のドキュメンタリー映画作家がみんな被災地に行った、と言われるぐらい、多くの作家が被災地に入るなか、私は何をしていたか。震災当日、翌日のドタバタはそれはそれで大変ではあったのだが、ここではそれ以後の事を書いておこう。2011年3月13日、それまで多摩川の河川敷で作っていたモバイルハウスは吉祥寺の駐車場に移動され、無事、「駐車」することが出来た。翌日から、坂口さんは、本人の著作を原作とした劇映画『MY HOUSE』(監督:堤幸彦)が撮影されていた名古屋に向かった。そしてさらにその後、妹がいる大阪にしばらく滞在した後、最終的に実家がある熊本に妻子とともに移住した。ドキュメンタリー映画の場合、撮れなかったシーンを語ることはあまりいいことではないと思うが、あえてここでは書いておきたい。当初、モバイルハウスは吉祥寺に置かれた後は、坂口さんが始めていた私塾「0塾」の拠点になる予定だった。だから私は、この0塾の活動を少し撮って映画を終わりにしよう、と考えていた。だが、坂口さんがモバイルハウスを吉祥寺に置いたまま熊本に移住してしまったことでラストシーンが全く見えなくなってしまった。
ドキュメンタリー映画は、よく目の前の現実の変化に柔軟に対処していく能力が求められる、と言われる。結論を先に書けば、僕は坂口さんの変化についていくことが出来なかった。坂口さんは仕事の関係もあり、4月以後も、何度か東京に来ている。だから、吉祥寺のモバイルハウスでの何がしかのシーンを撮りたいと粘っていたのだが、うまくいかなかった。その頃、坂口さんは熊本で本格的に活動を開始し、ゼロセンターの開設、避難計画、そしてついには“新政府”の樹立を宣言するまでに至る。ある意味、坂口さんが目まぐるしく変化していく時期であったが、僕はモバイルハウスの行く末に固執し、変化出来なかったのだ。では何をしていたかと言うと、ラストシーンも決まらぬまま、編集を始めていたのだ。どういう形で終わればいいか、その道筋を見つけるためにも。だが、その道筋もなかなか見つけられなかった。
悶々とした日々が続く中、2011年6月末、最終的にモバイルハウスは熊本に移されることになった。映画としては破たんしているかもしれないけれども、とにかく、モバイルハウスの行く末を示して映画を終えようと決めた。
2011年3月11日以後、多くの人がそれまでの暮らしを見つめ直し、いかに生きるべきかの模索を始めているように思える。本作は家という視点からそうした疑問に答える、いくつものヒントが詰まっているのではないか、と思っている。
【執筆者プロフィール】 本田孝義 映画監督。1968年岡山県生まれ。法政大学卒。大学在学中から映画の製作・上映を始める。5本の長編ドキュメンタリー映画を製作するのと並行して、多数の現代美術展で映像作品を発表している。主な作品に『科学者として』(1999)、『ニュータウン物語』(2003)、『船、山にのぼる』(2007)がある。