【自作を語る】新作『いなべ』製作記——地域と映画を考える text 深田晃司(監督)

縁無き土地で突如、動き始めた1本の映画
「地域」の固有性からどこまで飛べるか?
『ほとりの朔子』の監督・深田晃司が 撮りながら考えたこと


その、怒濤の3ヶ月は、一本の電話から始まった。

2013年の1月、まだ正月気分も抜けない新年早々、半年間取り組んでいた『ほとりの朔子』という長編映画がピクチャーロック(映像の構成が決定すること)した。その仕上がったばかりの映像を音響監督Jo Keita氏へ受け渡し、一息ついた絶妙のタイミングに、プロデューサーの戸山剛氏から電話が入った。

 「あのさ、三重県で短編映画を作らない?」。

戦い疲れたインターバル中に不意をつかれたボクサーのように、私は考える間もなく脊髄反射に近い速度でその話を引き受けた。この、蜂のように刺すタイミングの妙こそがプロデューサーの直感的なクレバーさなのだろうと感心しつつ、電話を置いた数日後には私は車に積みこまれ三重県いなべ市へと運ばれていた。

その一ヶ月後には撮影は開始され、さらにもう一ヶ月後の3月には編集を終え沖縄国際映画祭で上映されたのだ。今から思うと、随分無茶なスケジュールをこなしたものだと思う。


 「地域映画」について考える

「地域映画」、俗に「ご当地映画」と呼ばれる、地方自治体を巻き込みながら作られる映画は、ざっくりと二つに分けられのでは、と考えている。
ひとつは、「地産地消型」である。地元を地域ぐるみで「お祭り」たる映画撮影に巻き込み、映画に参加することそれ自体が楽しいイベントとして成立し、できあがった作品はその地元で上映され、完結する。そこでは、主として映画が撮られるその工程への参加、体験そのものが重要視される。

もうひとつは、「地域発信型」で、地元らしさを活かしながらも、基本的にはその地域外の人に届けることを大前提においた作り方である。「地産地消型」の映画は、映画作りに参加する一般市民の満足度に重きを置く分、ときに表現としての先鋭さを欠いたり、外部の映画ファンの視線に耐えれるほどの「他者性」を有していないことも少なくない。それに比べ「地域発信型」は、ある地域を舞台にしながらも、より多くの観客を求める分、結局は一般的な映画作りの姿勢に近いと言えるかも知れないが、「地域発信型」の体で内実は「地産地消型」でしかない、という地域映画も多くある。

だから「地産地消型」はダメだ、と言いたいわけではない。

例えば、レモスコープという取り組みがある。いわゆる「リュミエール・ルール」と呼ばれる、映画の黎明期にリュミエール兄弟が使用したカメラに近い撮影条件で映像を制作する活動は、世界各国大小様々なかたちで行なわれているが、それを大阪にあるremoというNPOがワークショップとしてより形式化・意識化したものが、レモスコープである。ここでは、「無加工・無編集・最長1分・固定カメラ・無音・ズームなし」というルールのもとに、一般市民が撮影から鑑賞まで体験することになる。

重要なのは、レモスコープの求めるゴールが、その映像の芸術的・技術的な完成度にはないということだ。カメラを通じてひとりひとりが世界を観察し、普段見慣れた景色が再発見されていくような、そんな視点の変容を体験することこそがここでは重要であると私は解釈している。これは、ごくミクロな個人レベルでの「映像制作」の話であるが、これがマクロなもっと仰々しい「映画製作」になっても、本質的には変わらないのではないだろうか。

ある一本の地域映画の製作がそこに関わる人々やコミュニティにもたらすものは、なんだろう。そのゴールを、芸術的、あるいは経済的な成果のみに求めるのは、無意味とまでは言わないまでも映像というメディアが本来備える豊かさから実は遠いのではないか。ある人がカメラを覗いて世界を見る、ある土地がカメラを通過して映画として再構築される、それはただそれだけでも何かしらの変容を伴う、価値ある体験であるはずだ。

映画がその土地から何をもらえるのか、と同時に、映画がその土地に何をもたらすことができるか、という発想をもたない限り、映画はその土地から富をただ収奪する傲慢な装置と化すのである。

で、さて、大層なことを書いてしまったなと後悔しつつ、では『いなべ』はどうであったか自分なりに反芻してみたい。

今回私は、プロジェクトのだいぶ早い段階で、この映画を「地産地消型」ではなくあくまで「地域発信型」として舵を切ることに決めた。そもそも今回の企画を推進する沖縄国際映画祭が「地域発信」を謳っている以上、当然と言えば当然の帰結ではあるのだが、本当のところを言えば「地産地消」と「地域発信」が等分にハイブリッドされているのが「地域映画」の理想なのだろうと思う。

しかし、今回は時間がなかった。つまり「地産地消」を丁寧に進めるための時間、じっくり手間ひまを掛けて地元の方とコミュニケーションを取りながら、お互いにとっての「映画」の完成形を育んでいくに十分な時間はとてもなかったので、監督として「地産地消」が3割、「地域発信」が7割ぐらいの案配で臨むことにした。

そうと決まったら、監督として私が成すべき仕事はひとつしかない。「いなべ市」のことをまったく知らないヨソの土地の人々にちゃんと届くだけの、高い普遍性を持った作品を作ることである。そもそも、映画を見る人にとってそれが「地域映画」であるかどうかなど、関係はないのだ。

その前提に立って、まず私がしたことは、地元いなべ市の皆さんとの初めての打ち合わせの席で「地元の名産品の宣伝や名所の紹介は一切やりません。私はただ面白い映画を作るためにここに来ました」と、鼻息荒く宣言することだった。幸い、そんな私の気負いが恥ずかしくなるぐらい、いなべ市の皆さんは最初から「面白い映画を作ろう」という一点で結束していて、私たちは幸運にもスタート地点から同じゴールを目指すことができたのである。

 

「故郷」について考える

さて、結束できたのは良いものの、では脚本はどうしようか。ない知恵を絞っているうちに、故郷に久方ぶりに帰ってくるヒロインのイメージがまず浮かんだ。それはなぜか、と問われても、もう思い出せない。まあ特別に珍しい設定でもなく、平凡な発想である。

そこで、そもそも「故郷」とはなんだろう、と考えた。私は、東京生まれ東京育ちの人間の典型で、故郷への思い入れが薄い。東京を、便利だ、と思っても、ふるさとだ、と感じたことはあまりない。

だから、最初から歪んだフィルターが入っているのだが、故郷を愛する人よりも故郷を愛せない人、帰ってくる人よりも帰れない人に、私はより関心が強いことが分かってきた。そうえいば、当初は、この映画の主題歌に富岡多恵子が作詞し唄声まで披露している『物語のようにふるさとは遠い』を使おうかと企んでいた。「物語のようにふるさとは遠い 想い出すのは死んだヒトばかり(中略)物語のようにふるさとは遠い みんな死んだら一人で帰る」という歌詞が、映画の世界観と通底していると感じたからだ。呪詛のような作家富岡多恵子の低音も好きだったが、さすがに空気を読んでやめた。代わりに、音楽の小野川浩幸さんが素晴らしい音色を響かせてくれたので、満足している。

話は逸れたが、さらに野暮なことを言えば「ふるさとを愛する」という言葉は「国を愛する」という言葉は繋がっていないか、郷土愛と愛国心はどこが違うんだろう、とかそんなつまらないことをぐじぐじと考えてしまうのだ。

それから、「地域映画」の陥る固有性をからより遠くに飛べる、普遍的なテーマとはなんだろう、と考えた。そこで自分にとって最も普遍的で、身近で、逃れられない2つのモチーフ、「死を想う」ことと「人の孤独」をストレートにぶつけることにした。

そういったことをもやもや考えているうちに、連想ゲーム的になんとか物語がカタチになり始め、映画の原型ともいうべき半練り状のアイディアのスープに、地元の方の的確な導きで見聞した、いなべの景観や古いわらべ歌などが次々投下され、脚本『いなべ』が完成した。

いや、正確には、書き始めた当初は『姉と歩く』というタイトルだったのだ。これはこれで気に入っていたのだが、撮影稿が上がったときに、私から戸山プロデューサーに申し出て、『いなべ』に変更させてもらった。

その理由はいくつかあった。ひとつは、ごく単純に、足繁くいなべ市に通ううちに、愛着が湧いてしまったこと。もうひとつは、あくまで「いなべ」という地域固有性からスタートし普遍を目指したかったこと。最後のひとつは、このタイトルを冠することで、この映画が完成後どこかで上映されたり話題に上がるたびに「いなべ」の名前が何度でもいつまでもオモテに出てくること、それによってこの作品の「地域発信」性が補強され、完結する、というオモワクがあったからだ。今でも、この判断は悪くなかったと思っている。どうでしょう?

 

「短編映画」について考える

21歳のとき、生まれて初めて作った自主映画は、2時間の長編だった。映画を作った経験がないとピンとこないかも知れないが、短編映画すら作ったことのない人間がいきなり長編を、それも自主でひとりで作るというのは、天声人語も読み通したことがないまま『失われた時を求めて』に挑戦するようなもので、正気の沙汰ではない。結果、知人・友人・家族を巻き込みあらゆる迷惑を周辺に掛けまくることとなったのだった。

別に若さに任せて無茶をしたかった訳ではない。ただ、映画というと長編しか思い浮かばなかったのだ。それは、最も映画漬けになっていた10代のとき、見る映画の九割九分は当然のように長編映画だったことと、特に映画サークルとか愛好会が身近になかったので、経験的に短編映画を発想する習慣が根付かなかったからだと思うが、とにかく映画というと自動的に長編のイメージとなった。だから、いまだに短編映画の作り方が(長編映画のそれ以上に)分からない。

短編映画と聞くとむしろ、ユーリー・ノルシュテインやイジィ・トルンカといった、アートアニメーションの印象が強かった。それでも、いくつか鮮烈に脳裏に刻み込まれている実写の短編映画は、ある。ひとつは、ロベール・アンリコ監督の『ふくろうの河』、もうひとつがクリス・マルケル監督の『ラ・ジュテ』である。それは学生の短編映画などでよく見かけるような、あるひとつのオチへの帰結に映画の旨味がすべて消費されてしまうような、いかにも大味で退屈なものではなく、結末は鮮烈でありながら、稲妻のあとに響く残音のような余韻が素晴らしく、猛烈に憧れたのを覚えている。

今回、おおっぴらに(?)短編映画が作れることになって、普段はやらないようなくっきりとした「オチ」のある話にしようと思ったのも、そういった短編原体験があるからだろうと思う。

とりとめもなく、書いてきましたが、ここいらでこの駄文を締めさせてもらいます。こうして無駄に話が長くなるのも唐突に話が終わるのも、私の悪い癖です。最後になりましたが、映画『いなべ』を作るために共に尽力してくれた、いなべ市文化協会の皆様にこの場を借りて何度でも御礼を述べさせて頂きます。ありがとうございました。いなべ、また遊びに行きます。

 ※三重県いなべ市
2003年(平成15年)12月1日 員弁郡北勢町・員弁町・大安町・藤原町の4町が合併し誕生。三重県最北端に位置し、岐阜県、滋賀県に接する。人口約4万5000人。

【作品情報】

『いなべ』(38分/カラー/HD/2013年)


氷見絆国際映画祭2013 最優秀地域映画賞・最優秀主演男優賞(松田洋昌)・最優秀主演女優賞(倉田あみ)

第6回沖縄国際映画祭 クリエイターズファクトリー 最優秀賞

出演:松田洋昌(ハイキングウォーキング) 倉田あみ 伊藤優衣 井上みなみ 望月皇希 康光岐
   鈴木Q太郎(ハイキングウォーキング) 西田幸治(笑い飯) 哲夫(笑い飯) 桂三輝 ほんこん

脚本・監督:深田晃司

●5月31日〜6月13日21:15より渋谷シアター・イメージフォーラムにてレイトショー公開。
●7月19日より、大阪シネ・ヌーヴォにてレイトショー!

併映:『ざくろ屋敷 バルザック「人間喜劇」より』

 【執筆者紹介】

深田晃司(ふかだ・こうじ)
1980年生まれ。大学在学中に映画美学校3期フィクション科に入学。2001年、初めての自主制作映画『椅子』を監督、2004年アップリンクファクトリーにて公開される。その後2本の自主制作を経て、2006年『ざくろ屋敷』を発表。パリKINOTAYO映画祭にて新人賞受賞。2008年長編『東京人間喜劇』を発表。同作はローマ国際映画祭、パリシネマ国際映画祭に選出、シネドライヴ2010大賞受賞。2010年、監督・脚本・プロデュースを務めた『歓待』で東京国際映画祭「ある視点」部門作品賞受賞。2013年には三重県いなべ市にて地域発信映画『いなべ』を監督。同年、最新作『ほとりの朔子』でナント三大陸映画祭グランプリ、タリンブラックナイト映画祭で最優秀監督賞を受賞する。

2005年より現代口語演劇を掲げる劇団青年団の演出部に所属しながら、映画制作を継続している。