【Review】なにがなんでも人生を生き抜くこと――アレハンドロ・ホドロフスキー監督『リアリティのダンス』レビュー text UMMMI.

©photos Pascale Montandon-Jodorowsky

鬼才・ホドロフスキーが自らの家族をキャストに迎え家族の再生を描く新作
様々なイメージで生み出される映画の世界に筆者が感じた喜びとは?

これからの人生、なにがあっても生きることに決めた。なにがあっても、死ぬまで生きる、絶対に、と涙を飲みこみアタシは堅く決心をした。すべては絶望と愛と奇跡、そして芸術についての話だった。「サンタ・サングレ/聖なる血」にも出演していた息子のテオを1995年に失くしてから人の心を癒すためにアートを生み出すようになったと語るホドロフスキー監督による、痛々しい生の人生の提示を目に焼きつけ、魂をふるわすような涙を流させ、鑑賞者になにがあっても人生を生きぬけと訴える100パーセントの救済。文学も音楽も映画も助けてなどはくれないけれど、時折アルコールだけは助けてくれるのかもしれない、と考えていた自分がまるきり馬鹿馬鹿しく感じでしまうほどの、生へしがみつくホドロフスキー監督の圧倒的な熱量。映画は全てだったし、映画を愛しているからこそ私はホドロフスキー監督の映画と出会うことができたのだったという芸術の根源的な喜びに、この23年ぶりの新作「リアリティのダンス」を観ることで改めて気づかされるのだった。

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どう考えても個性的という表現では物足りない登場人物たちの極端な言動に笑いを誘われつつも、気付くとそれはどんなに辛くても、どんなに苦しくても、なにがなんでも人生を生き抜くこと、という主題に基づく事件にすら見えてくる。この映画では劇中においてこれでもかというほどの死を目にすることになる。それはほとんど無意味に、そしてほとんど意味ありげに。クラスメートが死に、共産党の団員が死に、馬の世話係が死に、馬が死に、小人の女が死に。そして「倒れた人をずっと倒れたままにはしません」という言葉とともに、ボロボロに打ち破れたアレハンドロ・ホドロフスキーの父ことハイネに食べ物と仕事を与え、絶望のなかの一縷の光のようであった椅子職人も唐突に死に。こうした死の連続の中で人々ははかなく叫ぶことしかできない。神はいるのか、もしいたとするならば、なぜこうした苦しい思いにあわせるのか、なぜ人はいとも簡単に死んでしまうのか。神などいないのかもしれない。いやしかしほんの時折、まるで嘘みたいな、神の仕業としか思えないような美しい奇跡が起こるということも事実なのだ、それだけを信じて這いつくばってでも生きる価値がある世界なのだ、とこの映画は語る。絶望の中で本当に数少ない奇跡や愛といったもので溢れだし高揚させる数分のごく短いシーンは、絶望だけのように見える世界で生きていてよかったと思える出来事が稀に存在することを現している。それは例えば、こうしてホドロフスキー監督の映画を観ることのできる世界に生きているということでもあり、そしていまこの瞬間、呼吸をして生を全うしているということでもあるのかもしれない。

 
「自分がよそ者に感じる現実の世界では、苦しみと喜びの横糸ですべてがつながっている」と冒頭のシーンでホドロフスキー監督の独白が入る。この映画はまさしく苦しみと喜びの映画であり、生と死の映画であり、そしてそれは国境や人種、貧困、差別、政治、宗教といった様々な境界の上を、チリ生まれのロシア系ユダヤ人として歩いてきたホドロフスキー監督自身の壮大な人生の物語でもある。現実と虚構のなかでシュールレアリスティックに揺れている完全なる映画という宇宙を描いてきた監督ならではの、ストレートでパーソナルな人生と、そしてなによりも圧倒的な映画愛にたいする重みを感じる。できることならば傷つかずに生きていきたいし、喜びに溢れた人生でありたいと思う。しかしこの映画を観ることで強く思ったことは、繊細な人を軽蔑することなどできないし、そして同時に図太くならざるおえなかった人生を歩んできた人を馬鹿にすることなどもできないということだった。

©photos Pascale Montandon-Jodorowsky

ホドロフスキー監督は自伝である書籍「リアリティのダンス」のなかで報われなかった彼自身の幼少期について克明に語っている。無関心と言葉の虐待による両親との関係、そしてユダヤ人としてチリに生きる彼には友人も出来ずクラスメートから馬鹿にされ、彼は心の中で声にならない叫び声をあげる。人から拒絶される前に、みずから孤立して人を拒否するほうがよかった!と。そして多くの芸術を愛する者がそうであるように、自分の呪われた人生をやっと生に繋いでいたものはただひとつ、想像することの喜びだったとこの書物の中でホドロフスキーは明かす。なぜ映画を作るのか、なぜ文章を書くのか、そもそも、なぜ時間とお金をかけてまで、誰が気にしてくれるともわからないものを表現しようとしてしまうのか。それらはすべて、自分の呪われた人生をなんとか生につなぎ止める手段、このドラマチックなまでの悲しみが芸術によって報復される瞬間を待つも同然のように感じている者にとって、ホドロフスキーの苦悩と絶望と幻滅と、ほんのひとかけらの自信に満ちた幼少期の物語は力強い励みと救済となる。それはまるで、誰だってみんな辛い人生を歩んできているのだからそうやって落ち込まずに元気を出してね、という言葉を発せてしまうほど能天気な人生を歩めてきたひとの言葉がまったく意味を持たないのと同様に。だって苦悩と孤独は比較されるべきものではないのだから。


愛されたことがないせいで、私は自分自身を愛することができず、まさにそのために、他人を愛することができなかった。私は復讐するような残忍さを込めて他人を見ていた。と青年期の自分自身をホドロフスキーはこう形容した。しかし長い年月の中で、映画をはじめとするあらゆる芸術、詩や演劇、そしてサイコセラピストとして自分を信じてなんとか生きてきたホドロフスキーは成長の過程で愛の喜びを知ることになる。書籍「リアリティのダンス」の終わりには彼の詩によって結ばれている。「愛とはなにか知らない。そして、私は君の存在に打ち震える。衝撃を避けることはできない。だが、どうやって耐えるかは知っている。(中略)なにをしているのかわからない。だが、私の行為が私を創る。自分が何か、私は知らない。だが、自分がなにも知らないなどとは、私は言わない。」それらはすべて彼が歩んできた現実と虚構の入り交じったかのようなシュールレアリスティック的である人生、めまぐるしく起こる事件のなかで、違いを認め、多様性こそが美しいと思える心を持つことがいかに生きるうえで重要な考え方であるかと示唆をする。そしてホドロフスキー監督は23年ぶりの傑作「リアリティのダンス」のなかで私たちの魂に、興奮気味にそして静かに訴えるのだ、何があっても生きることにしがみつけ、始めたことを最後までやり抜くことが大事なのだ、といたずらっぽいウインクをしながら。

©photos Pascale Montandon-Jodorowsky

【映画情報】

『リアリティのダンス』

監督・脚本:アレハンドロ・ホドロフスキー
出演:ブロンティス・ホドロフスキー(『エル・トポ』)、パメラ・フローレス、クリストバル・ホドロフスキー、アダン・ホドロフスキー
音楽:アダン・ホドロフスキー
原作:アレハンドロ・ホドロフスキー『リアリティのダンス』(文遊社)
原題:La Danza de la Realidad(The Dance Of Reality)
(2013年/チリ・フランス/130分/スペイン語/カラー/1:1.85/DCP)
配給:アップリンク/パルコ
公式サイト:http://www.uplink.co.jp/dance/

2014年7月12日(土)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷アップリンク、キネカ大森ほか、全国順次公開


【執筆者プロフィール】

UMMMI.(ウミ) 

ライター/映像作家。 主にQUOTATION MAGAZINE WEBで映画レビュー、展覧会レビューを執筆。ジェンダーや個人史、境界線をテーマに映像と文章をメディアとして作品制作をしている。過去にイメージフォーラムフェスティバルヤングパースペクティブ部門入選、オールピスト東京入選など ( http://www.ummmi.net )