【ゲスト連載】Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論 #06「Neighbors(2) / Nightmare/悪所と復讐」 image/text 佐々木友輔

 

Camera-Eye Myth : Episode. 6 Neighbors(2) / Nightmare

朗読:菊地裕貴
音楽:田中文久

主題歌『さよならのうた』
作詞・作曲:田中文久
歌:植田裕子
ヴァイオリン:秋山利奈

郊外映画の風景論(6)
悪所と復讐

1. 悪所の遍在

『ファスト風土化する日本』において三浦展は、郊外化に伴う交通メディアの発展・拡大によって人びとは地元の親密な共同体や限られた行動範囲から解放され、誰もが高速かつ広範囲に移動することが可能になったと指摘する。そして、90年代に普及した携帯電話とインターネットは、よりいっそう時間・空間の制約からの解放を促した。今ではわたしたちは、車に乗って遠くの商業施設や娯楽施設に遊びに出かけたり、誰にも知られずに遠くの人間と出会ったり、ラブホテルに入ったりすることができる。「時間や空間に制約されず、かつパーソナルなコミュニケーションが激増し、人は誰にも知られずに、いつでもどこでも誰とでも出会うことが可能になった」のだ(p.30)。

続けて三浦は、こうした人びとの流動化・匿名化によって「これまでは都市部に集中していた匿名的な空間が地方にも容易に生まれるようになった」と言う。匿名的な空間は、地域共同体の目が届かず、犯罪を誘発させやすい。そうした「悪所」は、従来は大量の人びとが集う都市の繁華街や飲屋街などの場所性に縛られていたのだが、郊外化・情報社会化によって物理的な制約が失われることで、今では「悪所」が遍在化しているのだと三浦は警句を発する。「道路の横にも、田圃の真ん中にも、家の中にも、いつでもどこでも匿名空間が出現するというのが、情報化が進んだ現代社会の特徴だ。悪所と悪人が一致しないのである。」(p.30)

こうした三浦の問題提起の是非については、すでに数多くの肯定的・否定的見解が出そろっているが、ここでは、彼のファスト風土論を原作とする映画化作品なのではないかと思えるほど共通する問題意識に貫かれたフィルム、『悪人』(吉田修一原作、李相日監督、2010年)を取り上げたい。

第一に、物語の発端となる女性殺害・遺棄事件は、福岡と佐賀の県境にある山間部の旧道(三瀬峠)で起こる。あらかじめ計画されたものではない突発的な犯行でありながら、その場に居たのが加害者と被害者の二人だけであったことから、遺体の発見は遅れ、誤認逮捕者を出してしまうなど警察の調査も難航することになる。まさにこの殺人は、地域共同体の目が届かない匿名的な空間で行われたのだ。

そしてさらに、この事件の加害者と被害者が知り合ったのは携帯電話でアクセスのできる出会い系サイトである。彼らは家族も知らないところでこっそりと出会い、第三者には決して覗き見ることのできない「パーソナルなコミュニケーション」を重ね、その結果、悲劇が起こったのだ。このように『悪人』の物語には、そのタイトルを『悪所』と改めても良いのではないかと思うほど、三浦の言う「悪所」の問題が深く刻み込まれている。

2. 場所への責任転嫁

「あのひとは悪人やったんですよね? ねえ、そうなんですよね?」

終盤に発せられるこの台詞が象徴するように、『悪人』は全編を通じて、殺人を犯してしまった男・祐一が「ほんとうに悪人であるのか」、そして彼が悪人でないならば「悪人とは一体誰なのか」を観客に問い続ける。祐一の細やかな感情の揺れを描くことで冷酷一辺倒ではない二面性――すなわち「人間味」を付与し、祐一に自らと似たものを感じ、殺人犯であることを知りながらも彼に肩入れする女・光代の孤独に焦点をあてて観客の共感を誘う一方で、被害者の佳乃が生前に祐一に対して見せた横暴な振る舞いや、彼女が想いを寄せていた圭吾の死者を冒涜する態度、誤認逮捕された時の小心者ぶりを露悪的に描写する。このようにして「悪人」の位置はひたすらスライドし続けるのだが、やがてその位置はゆるやかに、一カ所に固定され始める。

「なんか考えてみたらあたしって、あの国道から全然離れんやったとね。あの国道を行ったり来たりしよっただけで。」
「俺も似たようなもん。」
「でも、海の近くに住んどっとやろ? 海の近くとか羨ましかあ。」
「目の前に海あったら、もうそん先どこも行かれんような気になるよ。」

光代と祐一のこの会話は、同じような毎日・同じような風景が繰り返される均質な場所のあり方への不満の表れであり、そこには、光代も祐一も共にその場所の犠牲になったのだとでも言いたげな被害者意識が含まれている。この映画は、あくまでも犯罪は犯罪だという前提は守りながらも、完全な「悪人」など存在しない、みな様々な事情や多面性を抱え持っているのだと気づかせるような仕掛けを随所に施して、登場人物たちに救いを与えようとする。そしてその代わりに、光代が孤独に陥り祐一が殺人へと至ったその原因や責任を、彼らの生きる場所(「悪所」としての地方郊外)へと転嫁していくのだ。

そして、こうした言葉を裏付けるように、『悪人』は地方郊外を徹底した紋切り型の風景として描き出していく。たとえばロードサイドを淡い色調で現実感の希薄な風景として描き、事件現場の山道を闇の深いおどろおどろしい風景として描く、というように。また、ちょっとしたことで理性を失って激昂し、暴力性を露にする祐一の姿は、やはり『略称・連続射殺魔』制作のきっかけをつくった永山則夫や、『サウダーヂ』の終盤に起きる通り魔殺人事件を連想させる。松田政男の言葉を借りるならば、本作は、「祐一は目の前の均質な風景を切り裂くために弾丸を発射したのだ」と告発するフィルムであり、その意味で、典型的な日本の郊外映画の伝統に即していると言うこともできるだろう。

3. 場所が人間に復讐する

『悪人』のように、病理の場所や危険な場所として郊外を捉える映画は非常に数が多い。しかし中には、一見そうしたフィルムのひとつに数えることができそうでありながら、実は郊外的な風景を異なる眼差しで見つめる作品も存在する。その具体的な例として、2006年に黒沢清が制作した映画『叫』を見てみよう。

『叫』において、ある殺人事件の現場となった東京郊外の湾岸地帯は、たび重なる地震のために土地の液状化が進み、都市計画も失敗に終わり、いまでは誰からも忘れられている廃墟のような場所である。刑事の吉岡はその殺人の捜査を進める中で、赤い服を着た女の幽霊に執拗につきまとわれることになる。彼女に恨まれるようなことをした覚えのない吉岡は、やがて幽霊自身になぜ付きまとうのかと問いかける。するとその幽霊は、かつて彼女が監禁されていた療養所の窓から、船に乗る吉岡と一瞬のすれ違い様に視線を交わしたことを仄めかすのだ。そして彼女は、そのようにして出会っていたにも関わらず、自分のことを忘れ去ってしまった人間たちに復讐をしていたのである。

批評家の杉田俊介は、『呪怨』で描かれる理不尽な呪いにはまだ「「呪いのかかった家」という場所(トポス)的な根拠」があったのに対して、『叫』の呪いには、『呪怨』のような場所的根拠すらないと指摘している(ブログ「無事の記」http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070804/。『叫』の幽霊に呪われることになった人びとは、一瞬のすれ違いざまに彼女の姿を——ほとんど無意識のうちに——見ただけであり、そこに何らかの責任があるわけでもなければ、避けることができたわけでもない。女のほうが一方的に記憶しているだけなのであり、そこには「視線の意味の絶対的な非対称性=すれ違い」があるのだ。杉田と同様に、映画評論家の北小路隆志もまた、この幽霊の非・場所性を強調する(「東京、その解体と建設」http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/765/。北小路によれば、彼女は「確かな場所に住みつく地霊(?)ではなく、むしろ場所が場所であることをやめて液状化に苛まれつつある「非・場所」の形象」なのだ。

ここで重要なことは、本論で「均質な風景」や「何もない郊外」といった言葉を通して見てきたのと同様に、非・場所もまた場所であるということである。場所的な根拠を失い、忘却しているのはあくまで呪われる側の人間であり、呪う側である幽霊はいまだにその場所(あるいはその場所の記憶)に縛られている。その意味で、彼女は「非・場所の呪い」と言うよりも「非・場所的な場所の呪い」を抱いた、立場なき場所の擬人化としての幽霊なのだと言えるだろう。杉田俊介は、この幽霊から、「このわたしが、わたしがこのわたしであることそれ自体が全部なかったことにされていくなら、「なかったことにされたこと」すらなかったことにされていくなら、お前らの言葉も存在も全部平等になかったことにしてやる」(前掲ブログ)という苛烈なメッセージを受け取っているが、この言葉は、紋切り型の郊外論を繰り返して満足してきた人びとへの痛烈な批判としても響いてくるように思う。

けれども最後に、もうひとつ疑問を差し挟んでおきたい。わたしはここまで、『叫』に登場する幽霊と、忘却されつつある「立場なき場所」とを積極的にイコールで結びつけて論じてきたが、そもそも場所は、ひとを恨み、復讐しようとするものなのだろうか。ここで復讐や怨念を持ち出すのは、あまりにも場所を「人間的」に解釈し過ぎているのではないか。また、このような解釈は、病理の場所としての郊外観を覆すのではなく、別の病理のレッテルを持ち込んで貼り付けているだけではないか——。場所が人間に対して何かしらの恨みや悪意を抱いているという発想そのものが、「立場なき場所」の立場のなさをさらに深めることに加担してしまっているかもしれないということ。そんな可能性にも意識を向けておくべきだろう。

|参考文献/関連資料

三浦展 著『ファスト風土化する日本——郊外化とその病理』、洋泉社、2004年
杉田俊介 著「黒沢清『叫』は冗談抜きで「Jホラー史上最恐」をねらったものなんじゃないか」、 ブログ「無事の記」、2007年
北小路隆志 著「東京、その解体と建設」、『10+1』No.47所収、2007年
松田政男 著『風景の死滅』、田畑書店、1971年
藤原新也 著『東京漂流』、情報センター出版局、1983年
黒沢清 監督『叫』、2009年
李相日 監督『悪人』、2010年

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|プロフィール

佐々木友輔 Yusuke Sasaki (制作・撮影・編集)
1985年神戸生まれの映像作家・企画者。映画制作を中心に、展覧会企画や執筆など様々な領域を横断して活動している。イメージフォーラム・フェスティバル2003一般公募部門大賞。主な上映に「夢ばかり、眠りはない」UPLINK FACTORY、「新景カサネガフチ」イメージフォーラム・シネマテーク、「アトモスフィア」新宿眼科画廊、「土瀝青 asphalt」KINEATTIC、主な著作に『floating view “郊外”からうまれるアート』(編著、トポフィル)がある。
Blog http://qspds996.hatenablog.jp/

菊地裕貴 Yuki Kikuchi (テクスト朗読)
1989年生まれ、福島県郡山市出身。文字を声に、声を文字に、といった言葉による表現活動をおこなう。おもに朗読、ストーリーテリング中心のパフォーマンスを媒体とする。メッセージの読解に重きを置き、言葉を用いたアウトプットの繊細さを追究。故郷福島県の方言を取りあげた作品も多く発表。おもな作品に「うがい朗読」「福島さすけねProject」「あどけない話、たくさんの智恵子たちへ」がある。
HP http://www.yukikikuchi.com/

田中文久 Fumihisa Tanaka (主題歌・音楽)
作曲家・サウンドアーティスト。1986生まれ、長野県出身。音楽に関する様々な技術やテクノロジーを駆使し、楽曲制作だけでなく空間へのアプローチや研究用途等、音楽の新しい在り方を模索・提示するなどしている。主な作品に、『GYRE 3rd anniversary 』『スカイプラネタリウム ~一千光年の宇宙の旅~』『スカイプラネタリウムⅡ ~星に、願いを~』CDブック『みみなぞ』など。また、初期作品及び一部の短編を除くほぼ全ての佐々木友輔監督作品で音楽と主題歌の作曲を担当している。
HP http://www.fumihisatanaka.net/