【Review】大林宣彦監督『野のなななのか』 生と死の絵画「シネマ・ゲルニカ」という映画作品 text小川学

©芦別映画製作委員会/PSC


本作は大林宣彦監督が「映画」という手法を用いて描いた「シネマ・ゲルニカ」という作品である。「ゲルニカ」とはスペインの画家、パブロ・ピカソ(1881~1973)が、1937年の4月にスペイン内戦で無差別空爆を受けた街「ゲルニカ」を主題にし、同年の6月に制作された、縦3.5m、横7.8mに及ぶ巨大な絵画である。白黒で表現された画面には、空爆の犠牲になった子供を抱えて泣き叫ぶ母親、狂った様相を呈した馬、天を仰ぎ救いを求める人間など、逃げ惑い、苦しみ叫ぶ人々や動物の様子が描かれている。ピカソが戦争体験をリアリズムの技法を用いる事無く、子供のようなタッチを使い、対象をデフォルメした手法をあえて取り入れ、作品を製作した事で、より一層、凄惨な体験を後世に伝える作品となった。大林監督は「僕は3・11以降、芸術は風化しないジャーナリズムだと決めましてね、それでこの作品を作った。名付けて『シネマ・ゲルニカ』ピカソのゲルニカが人々の心を揺さぶり続ける様に、想像力で僕らは(戦争体験を)伝える」と語っている。日本が再び誤った方向へ進まない様にする為に、という強固な願いを持ち、撮影された映画作品が、本作『野のなななのか』である。

大林監督は1938年に広島県尾道市に生まれた。1945年、敗戦の年の8月15日には7歳だった。軍医大尉として戦地へ赴いていた父の代わりに、家を守っていた母は、長い髪を切り、父のスーツを着た。戦時下であるにも関わらず、当時の大林監督に、継ぎ当ての全く無い服を着せ、隣に短刀を置き「朝まで起きていましょう」と言った。大林監督は当時の事を「国が負けた後、男は撲殺され、女は強姦され、子供は虐殺される。そんな張り詰めた空気がありました。母は僕を殺し、死のうとしていると、子供心に覚悟しました」と詳言されている。7歳という幼さで壮絶な体験をされた大林監督だからこそ、本作『野のなななのか』は監督の手によって、いつしか作られなければならなかった作品だったのだ。

大林監督は幼い時分から、戦時下に人間の死を目の当たりにし、父が営んでいた先祖六代続く病院に於いて、人間の生と死と隣り合わせに育った。やがて成長し、映画を撮影する様になり、人の生き死にをテーマとした映画作品を作り続けた。そして2010年、自らも心臓の病によって生死の淵を彷徨った。「僕自身も、いっぺん死んで、もう一度生かされる体験をした」と語る大林監督は、この時期に本作のテーマへと繋がる¨生と死の境界線が曖昧になる¨体験をされていたのだ。更に、その後に発生した東北大震災で被災された方々の心情を想い測りながら、遂に大林監督は、本作を完成させた。「結局のところ、すべては人の生と死なんですよね」と大林監督は振り返る。劇中に「人の死は、誰かに繋っている」と何度も繰り返し語られる台詞がある。仏教用語での輪廻転生であり、それは命が何度も生まれ変わる事を意味する言葉である。それでは、本作『野のなななのか』に込められた大林宣彦監督のメッセージを考察してみる。

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「パスカルズ」という14人編成の大所帯バンドが、本作の始めから終わりを通して、1つのテーマ曲を繰り返し演奏し、物語と共に、劇中を演奏しながら練り歩く。広大な北海道芦別の大地を背景に、その光景はまるで古いイタリア映画に出てくるような、楽隊による葬送曲の様相である。なんとも荘厳で神々しく美しい。パスカルズが芦別の野を歩き回る姿、これこそは正に「人は死んでから49日の間、魂が彷徨い歩く」とされている「死者の魂の様相」であり、大林監督が映画の冒頭で哀悼の意を示していた鈴木評司さんの魂であり、震災で被災された方々、そして恐らくは大林監督が想う、全ての死者達への浄化の儀式であるのだ。遠くオレンジ色に沈む落陽を背に、野に咲き渡る花の中を、楽隊はひたすら練り歩く。それは死者を追悼する、聖者の行進なのである。劇中で繰り返される台詞「人はなななのかに生きている」と言う意味こそが、それにあたると言えよう。

「人は誰かの代わりに生まれ、誰かの代わりに死んで行く」というテーマが、本作の原作者である長谷川考治さんのナレーションにより、物語は幕を開ける。2013年3月11日14時46分、北海道芦別市の病院で鈴木光男(品川徹)が92歳で他界する。告別式、葬儀のため、方々で生活していた鈴木家の親族一同が芦別に帰ってくる。光男の孫、カンナ(寺島咲)が主軸となり、物語が進んで行く中、鈴木家の前に謎の女、清水信子(常磐貴子)が不意に現れる。信子の登場により、光男の過去が焙り出され、光男以下の鈴木家一族が「如何にして光男の葬儀に至るまで生きてくる事が出来たか」が次第に解ってくる。本作は光男から続く、鈴木家四代を巡る年代記である。「なななのか」とは四十九日を意味する。その期間は「生者も死者も彷徨い人となる」とされる。劇中では死した光男も、過去に死んだ綾野(安達祐実)、信子、光男の同級生だった大野(伊藤考雄)、が登場し、生と死の境界線が無い「なななのか」の世界が繰り広げられる物語である。

映画の開始早々に「鈴木評司(ひょうじ)君に捧げられる」という文章が出てくる。鈴木評司君とは北海道芦別市の観光係だった職員の事である。鈴木さんは、大林監督の「さびしんぼう」(1985年作品)など大林監督の熱狂的なファンだった。多くの大林監督ファンがそうであった様に、1976年、まだ15歳だった鈴木さんも広島県尾道市へロケ地巡りを敢行した。後年、自らが暮らす芦別市を尾道市と同じ様に「映画の町にしたい」と考えた。大林監督に映画の感想や、自らの「映画のまち」構想を何度も提案した。そして1993年に芦別市で映画製作を行うという趣旨を掲げた「星の降る里芦別映画学校」の開校に至った。校長は大林宣彦監督が勤めてきた。生徒の中には後に、映画『そこのみにて光輝く』など数々の映画を制作される事になる呉美保監督などが参加していた。開校後は鈴木さん自ら、大林監督が芦別を訪れる度に、市職員としてロケ地になりそうな名所を案内した。映画製作に協力してくれる地元の人を紹介し、一方、大林監督は鈴木さんを東京の自宅に招くなど交流が続いた。ところが、1997年、鈴木さんは膵臓(すいぞう)ガンのため、36歳の若さで死去した。その後の2009年、大林監督は、かねてから懇願してきた「芦別で映画を撮る」という思いを表明した。本作が公開される事、それは、故、鈴木評司さんにとって最大の供養になった。映画のエンドロール後に映し出された、鈴木さんの一人娘、日苗さんが描いた作品が忘れられない。父の評司さんが亡くなった時、日苗さんは2歳だったそうだ。父の記憶は無い。日苗さんは成長し、高校へ進学され美術部へ入部した「死ねば何も残らなくなるから、絵に描いたら残ると思った」とされた、その絵画作品は、生々しいタッチで描かれた白い骸骨をモティーフにした絵だった。それにも関わらず、暗闇から、ぼうっと「魂のようなもの」が浮かび上がっている様に思える一枚の絵画は、私の胸に温かく、そして強く深く響いた。志半ばで亡くなった父を絵画の中へと、筆を持つ血の通った日苗さん自らの手を通して、大切に記録し、又、描く事の行為そのものによって、捉え難い死を受け入れ、乗り越えたのだろう。

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