【News】全国公開中★『パリよ、永遠に』ドイツ映画の巨匠フォルカー・シュレンドルフ監督が語るパリ解放70年

© 2014 Film Oblige – Gaumont – Blueprint Film – Arte France Cinema

もしも「パリ」が消えていたら―――世界は、どうなっていただろう。
第二次世界大戦末期、ヒトラーによる「パリ」壊滅作戦が、今まさに実行されようとしていた。
この美しき街を救ったのは、一人の男の一世一代の「駆け引き」だった。

1944年8月25日未明。パリの中心部に位置するホテル ル・ムーリスにコルティッツ将軍率いるドイツ軍が駐留していた。ヒトラーからの命を受け、コルティッツはパリ壊滅作戦を進めている。それは、セーヌ川に架かる橋の数々、ノートルダム大聖堂、ルーヴル美術館、オペラ座、エッフェル塔…パリの象徴でもあり、世界に誇る美しき建造物すべてを爆破するというものだった。そこへ、パリ生まれパリ育ちのスウェーデン総領事ノルドリンクが、パリの破壊を食い止めようと説得にやってくる。将軍の考えを変え、何としてでもパリの街を守りたい総領事。一方、妻子を人質に取られ作戦を実行せざるを得ない将軍。長い一夜の駆け引きが始まる――。

映画『パリは燃えているか』でも知られるエピソードを一夜の出来事に凝縮した原作は、フランスで大ヒットしたシリル・ジェリー作の舞台“Diplomatie”。ドイツ人でありながらフランスで映画監督として研鑽を積んだ名匠フォルカー・シュレンドルフ監督が、ジェリーとともに共同脚本を手がけ映像化した。シュレンドルフの前作『シャトーブリアンからの手紙』と同様、今作も「仏独の和解」が隠れたテーマになっている。主演は、総領事ノルドリンクに故アラン・レネ監督の常連俳優でもあるアンドレ・デュソリエ、司令官コルティッツには近年ますますいぶし銀の魅力を放つニエル・アレストリュプという二人の名優。舞台から続く名コンビで、物語もキャラクターも熟知した二人だからこその掛け合いはまさに必見。シュレンドルフは、時にスリリング、時にウィットに富んだ駆け引きを、緩急自在、緊張感みなぎる見事な演出で紡いだ。さらに、エンドロールでパリに愛されたレビューの女王ジョセフィン・ベーカーの「二つの愛(J’ai deux amours)」が流れる時、この史実こそが歴史に刻まれた最も感動的なパリへのラブレターなのだと気づくだろう。

日本公開にあたって、シュレンドルフ監督が本作と「パリ解放70年」について語った。

フォルカー・シュレンドルフ監督

 

――『パリよ、永遠に』を監督することになったきっかけは?

長い長い話があるんだ。本当に長いんだよ。1955年まで遡る。つまり、戦後10年だね。やっとドイツから外国に旅行できるようになったその年、医者だった父親に連れられて兄二人と4人で一緒にカブトムシ車に乗ってフランスに行ったんだ。そこで初めてパリを訪れた。パリは今と同じように美しかったね。美しさに余計に感動したのは、戦争で徹底的に破壊された都市しか見たことがなかったこともあるだろうね。私が生まれたフランクフルトもウィスバーデンも瓦礫だらけだったから。それで余計に印象深かったんだと思う。その時、絶対にパリを再訪問しようと心に決めたんだ。それから1年後にチャンスが巡ってきた。3ヶ月の交換留学生としてフランスに行った。寄宿舎に入り、フランス語を習った。パリに魅せられて、毎日のようにセーヌ河畔を散策したものだ。その時にフランス人の同級生から、この美しいパリが残されたのはあるドイツの将軍のおかげなんだと聞いた。だから、この話は50年以上前から知っていることになる。

3年前にプロデューサーからこの映画の話が持ち込まれた。「やってみないか」と聞かれて、すぐ承諾したよ。芝居公演は評判がよく、成功していた。写真を見せられたが、実際の舞台は見なかった。その数年前にすでに上演が終わっていたからだ。ビデオ映像もなかった。あったのは、写真と舞台装置のモデルだけだった。装置はうまく作られていて、舞台の壁が素通しのガラスで、舞台を取り囲むようにしてパリの街が背景に見えるようになっていた。もちろん写真で見ただけだが。劇作家が言うには、背景に見えるパリは3人目の主人公として非常に重要なのだとね。その意味で二人の男の主人公の後ろに3人目の主人公として女のパリが存在していた。皮肉な見方をすれば、この劇では二人の男が一人の女をめぐって争う物語とも言えるね。

映画でもパリを背景にしようとして、窓からパリの有名な場所がパノラマ風に見えるようにいろいろ工夫し、デジタルで組み込んだんだ。第1の窓からはルーブル、第2の窓からはエッフェル塔、第3からは凱旋門とね。実際にはその3つの風景が窓から見える建物はパリに存在しないのだが。パリを背景にすることにこだわって人工的なパノラマをつくった。

――原作は舞台劇ですが、映像化するにあたって気を使った点は?

 舞台劇を映画化するのは難しいものだ。私は何回もやった経験があるから、よく知っている。私の作品で一番知られているのは『セールスマンの死」(85)だが。こうしたらうまくいくという王道はない。一作一作に、良いアイディアが必要だ。大事なのは“開く”こと。外に出て行くことだ。そうしないと劇場での芝居になってしまう。反面、外に出すぎても、元々の力を失ってしまう。閉所恐怖症的な要素が大事なんだ。具体的にいうと、領事は秘密のドアから入ってきて、将軍の捕われ人になる訳だ。少しずつ、あるいは時々外に出るのが肝心だ。だから、映画では冒頭にホテル全体を取り入れることにした。陥落前のホテルは沈没するタイタニックみたいなものだからね。混乱の最中にある。逃げ出そうとする人もいるし、飛び込んで来る人もいる。従業員の中にはドイツ側から勝利者の方に鞍替えしようとするのもいるとかね。ちなみに、コルティッツ将軍の後にあのスイートに陣取ったのは、米軍のパットン将軍だったそうだ。

――あの秘密の扉は実際にあったのですか。

いや、あれは芝居の中のフィクションだ。実際にはなかった。これは史実に基づいたドキュメンタリーではなく、演劇だから、あのような嘘も許される。ナポレオン3世が愛人との密会のために作らせた階段と秘密の扉なんて面白いじゃないか。原作にあったフィクションだが、私は絶対採用しようと思い、映画でも使った。部屋の中が見える素通しの鏡は、私が考え出したもので、映画だけにある設定だ。これによって我々観客は領事と同一化する。我々は領事の主観を通して語られる側に立つのだ。領事がパリの街を歩きながら,廃墟と化したワルシャワの街並を思い浮かべ、もうすぐパリもこうなるのだと想像する。そして、彼は何かしなければと意を強くして鏡の間に現れる。それ以降、我々は領事と一体化する。誰が物語を語るのかという語り手の視点は映画にとって大変重要で、この作品では領事だ。我々は領事に親近感を感じるのだ。

この映画の外交交渉は、現在のメルケル首相とプーチン大統領とのやり取りにも言えるだろう。メルケル首相になりかわって、どんな議論でプーチンを説得できるかと考えるのは、興味深いことだ。

――パリ解放から70年を経て本作を手がけた意義、また、この史実を自分で演出するにあたってどういうことを考えましたか。

70年ということはまったく考えていなかった。どちらかというと偶然重なったと言える。この企画が私のところに来る前に、2、3人のフランス人の監督にも打診があったようだね。30年後、50年後、70年後の世代はそれぞれ受け止め方が違うと思う。私にとって重要なのは、仏独の関係が現在どうあるかだ。

もし将軍がヒトラーの命令を実行していたら、フランスとドイツの和解はあり得なかっただろう。フランスとドイツだけでなく、現在のヨーロッパもまったく違っていただろう。私自身もまったく違った人生を歩んだことだろう。例えば、1955年にパリを訪問しなかっただろう。フランス語も習わなかっただろうし、映画監督にもなっていなかっただろう。映画の道に進む上でフランスの影響は大きかったからね。3か月間の交換留学の後10年間もフランスに滞在したんだ。パリの大学にも通ったし、映画の助監督を始めたのもパリだった。それから私はドイツ語とフランス語のバイリンガルになったし、両国の文化にどっぷり浸って育ったのだ。その意味でこの作品を通じて、私の存在の根源に立ち戻ることができて、非常に幸せだと言える。

――ということは、もしパリが破壊されていたら、あなたの人生は全く違うものになっていたと言えますね。

まったくその通りだ。だから、映画の終わりに救われたパリを祝うためにカメラの目で美しい街を辿ったのだ。幸福の瞬間を祝う儀式のようにね。その意味で、この映画は私にとって戦争映画ではないのだ。現在から見るパリの歴史についての瞑想と言ってもいい。

――本作の中で「パリ」という街は作品にとっての「ヒロイン」だと思ったのですが、監督にとってこの作品の中での「パリ」はどういう位置づけですか。

齢を取るに従って自分の過去を振り返り、自分が何によって影響を受けてきたかを考えるようになる。もちろん、たくさんの人から私は影響受けた。例えばルイ・マル監督だ。彼とは長い間一緒に仕事をして、たくさん影響を受けた。場所でいえば、パリから最も影響を受けた。若い頃には、そういうことを忘れてしまうものだが、ある年齢に達すると、また思い返すのだ。私はパリで生まれ、大きく育ったと言える。もちろん肉体的にはドイツで母親から生まれたのだが、ドイツでの誕生はまったく思い出せないんだ。

現在の私のアイデンティティを形成した場所は明らかにパリだ。パリに到着したのは15歳の時で、離れたのは25歳の時だ。この年代の10年間は一人の人間にとってもっとも大事な時間と言える。この多感な時期に将来が形成され、あるいはうまくいかず、挫折すると言える。自分の人生について考えると、このパリの時代が決定的に重要だ。今でもよくパリに行く。小さなアパートも持っているし、友だちもたくさんいる。パリは私にとって運命の場所と言ってもいい。最初の訪問は一日だけだった。父が何か目的を持って我々をパリに連れて行ったとは思えない。パリは途中の通過する場所に過ぎなかった。テントを張って寝ただけなんだ。それもセーヌ河畔ではなかったし。翌朝はもう次の目的地に向かっていたんだ。

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――今から70年前に行われた外交は、「人間対人間」の駆け引きと対話でした。いま世界は大きな困難を生きていますが、現代の外交に、70年前の人間性は存在できると思いますか?

自分でも言うのもなんだが、私は雄弁な方だと思う。外交というものにずっと前から興味があった。言葉によって何が達せられるか。楽観的に聞こえるかもしれないが、言葉によってある目的に達することができる。傲慢に聞こえるかもしれないが、私は外交術に長けていると思う。話というか、相手と言葉を交わすことによって、自分の主張を通す事はやはりフランスで学んだんだ。言葉、あるいは議論によって相手の考えを変えていこうと私が考えるのはフランスの影響だと思う。外交というものに興味があるし、面白いと思う。

例えば、米国の外交官のリチャード・ホルブルックの書いた面白い本がある。本のタイトルは“To End a War“ だ。この映画と同じように戦争を終わらせることについての本で、それはボスニアの戦争だ。彼がボスニアで相手のミロシェヴィッチをいかに説得し、デイトン合意に至ったかというプロセスが非常によく書かれている。この話は一度映画化しようとしたことがある。結局うまくいかなかったが。ホルブルックとは友人で、ベルリンでもニューヨークでも何度も会った。だから、この映画は、彼を偲び、彼に捧げた。戦争を終わらせた男に捧げると、最後に一言加えた。

現在のメルケル首相とプーチン大統領も似たような状況にある。シリア、ウクライナ問題がね。ヨーロッパでも外交はとても大事だ。ドイツはヨーロッパの中で強国になった。強くなりすぎたかもしれない。ビスマルクの時代もそうだった。19世紀に彼は外交術を発揮して大国になりつつあるドイツを警戒するフランス、英国などを安心させたのだ。ロシアもね。ところが、ドイツは強いことを誇示するようになり、若い皇帝が彼を罷免してしまうのだ。そして皇帝自身が外交をし始め、結局第一次世界大戦の悲劇に至った。

本当に外交は重要だ。現在我々の宰相のメルケルがビスマルクを思い出しているかどうかは分からないが、彼女はその点でうまくやっていると思う。ドイツは現在ヨーロッパの中で他の国々を凌駕するようになったが、その力を示すのは危険だ。ドイツ人は自分たちの力を示したいだろうが、そのためにドイツは20世紀に二度も大悲劇を引き起こしているのだ。現在非常に危険な時期に差しかかっている。経済の分野で力があっても、政治の世界では控えめに振る舞うべきだ。ウクライナ問題でもギリシャ問題でも。他の国々を安心させなければいけない。ヨーロッパでは全員が平等に付き合ってこそうまくいくのだ。親分ザルが出てきて、回りを従えようとすればうまくいかなくなる。

その意味で『パリよ、永遠に』は現在にも通じるものがあると思う。過去の戦争だけに関係すると思って作った訳ではない。個人の責任、国と国との関係における個人の責任を意識している。私にとって、とても現在に通じる話だ。製作の時、カメラマンや俳優たちと仕事している最中も、我々は過去の時代を生きているのではなく、2014年を生きながら、一緒に仕事をしているのだと思っている。朝早く現場で顔を合わせる時には新聞を読んできているし、撮影が終われば、家に帰りテレビのニュースを見たりする訳だ。現在の時間を背負って仕事に来るんだ。この映画は非常に現在を扱っている。日本で公開されれば、ヨーロッパとはまた違う解釈も可能になるだろう。日本の歴史の中でも外交が重要な役割を果たす時期や事件があっただろう。特に、軍事と社会の関係で。一人の将軍が軍という絆の強いグループの中で個人の決断をどう発揮できるかは興味深い。

――その点に関しては、日本の軍人の立場は難しかったかもしれません。そこでは言葉による態度は尊重されず、実行あるのみという価値観が強い集団でしたから。

プロイセンの軍人にも同じ価値観があったよ。映画の中でも話す方はもっぱら領事だ。将軍は最初彼の話に乗ろうとしないで、とにかく出ていけ、話す余地はないと言って、追い出そうとする。将軍は対話をしようとはしない。言葉を交わすことは弱みに通じる。彼は根っからの軍人だ。何代にもわたって軍人だった。領事は言葉を受け付けようとしない将軍の鎧の隙間を狙って、様々な言葉を投げかける。そして、彼が家族を思う人間であることが分かり、そこが突破口になる。家族を心配する一人の人間として対話が始まる。将軍は領事に自分はどうしたらいいんだと問いかける。この瞬間に将軍の敗北が決まる。軍人の規範は崩れ、良心が心の中を占めるのだ。

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――2人の主演俳優、デュソリエとアレストリュプとは、どういう話をして撮影に臨んだのですか。

たしかに舞台で成功したものを映画化するのは難しい。その上同じ俳優を使うのはもっと危険だ。慣れは良くないことだから。カメラの前で俳優はその台詞を初めて口にするように、それもその一回だけという風に演じなければならない。カメラはレントゲン装置のように俳優の中まで覗けるように写してしまうからね。慣れが入るとその演技は二番煎じになってしまう。反語的に聞こえるだろうが、その慣れを消し去るためには、稽古をたくさん繰り返すのだ。疲れるまで繰り返すことによって、舞台で演じた役を忘れ去るのだよ。あの二人は素晴らしい役者だし、しっかりと熱意をもって映画に取り組んだ。素晴らしいガッツを持っていると言ってもいい。

反面、あの二人は舞台ですでに300回も演じて、あの芝居を私よりよく知り、慣れがあった。台本のどこに句点があって、どこに読点があるかさえ諳んじているからね。私は、彼らの経験を否定しないで上手く使いながら、慣れを消すことに挑戦し、結局、彼らの慣れを消し去ることに成功した。稽古の最中に私がある台詞を削除すると、彼らは「じゃあ、言葉なしで表現しなければ」と言ったり、あるいは「この台詞が無くなるとうまくつながらない」と言ってきたりしたこともあった。こうした俳優の意見は時には重要で、一度削除した台詞を戻したこともある。その意味で本当に俳優との共同作業が成立した。彼らとは1週間に亘って稽古したんだ。もちろんカメラも置かずに、他のスタッフもいない状況で。ただし、あの部屋で。全体の雰囲気を出すために、調度類はすべて揃えてね。

一つ問題があった。というのは、将軍を演じる役者(ニエル・アレストリュプ)はフランス人なんだ。彼はデンマーク人の名前だが、父親がデンマーク人というだけで、生粋のフランス人なんだ。それでも私は彼が適役だと思った。製作側はドイツとの共同製作ということもあり、ドイツ人の俳優をと考えたが、私は彼を使いたかった。彼は並みの俳優ではないからね。素晴らしい俳優だ。だから、彼で大丈夫だと言ったんだ。彼は少しドイツ語もできたし、撮影にのためにさらにドイツ語をしっかりと習得した。私は、舞台の二人の役者をどちらも使いたかった。二人は互いを“友だち”というほどには仲がいい訳ではない。二人は舞台で役をしっかりと演じた後、それぞれ家に帰っていく仲だった。つまり、二人で飲みに行くことはしない。どちらかといえば、二人の間には一種の競争意識が働いていたんだ。

――芸術家は大きなエゴを持っていますからね。

そうだ。つい最近、将軍を演じたニエル・アレストリュプがセザール賞の主演男優賞にノミネートされたんだが、領事役のアンドレ・デュソリエはノミネートされなかった。デュソリエは随分傷ついていたよ。我々は二人が主演で、同じレベルの俳優なんだとね。多少でも俳優を知っている監督はこのような葛藤について、わきまえていなければいけない。それはオペラの演出にも言える。大きなオペラではテノールとソプラノの歌手がいる。二人の間にはいつも戦いがある。恋人同士を演じても、どちらがよりたくさんの拍手を受けるかとかね。だが、この葛藤が舞台を生き生きとさせるのだよ。私は大好きだね。

――対話による外交によって守られたパリの街で、1月、風刺週刊紙シャルリー・エブド本社が襲撃されるという事件がありました。この事件をどう感じましたか? 

「シャルリー・エブド」の事件はフランス人に大きな衝撃を与えた。偶然だが、私はあの日パリにいたんだ。ジョン・クロード・カリエールとある脚本について打ち合わせをしていた。 部屋に籠っていたので、その時は気づかず、午後になって初めて知った。フランス全体が打ちのめされて、ショックを受けていた。テロに対するフランス人の反応は素晴らしかった。あのテロの後、世界中でデモがあったが、フランスでは200万人が街に出て、犠牲者への連帯表明及び言論の自由のために意思表示をした。ドイツだったら、あそこまで多くの人が意思表示をしなかったと思う。ドイツでは「シャルリー・エブド」に匹敵する風刺雑誌もない。あったとしてもすぐ発禁になるだろう。ドイツで200万人もが意思表示をするような出来事があるとは想像できない。組織されたデモではなくて、一人一人が自由意志であれほど表現するのは考えられない。フランスでは共和主義の伝統があり、国民の意志表示がはっきりしている。とても感銘を受けた。そしてパリに誇りを感じた。

[2015年2月12日 ベルリンのグランド・ハイアットホテルにて]

|プロフィール

フォルカー・シュレンドルフ[監督・脚本]

1939年3月31日、独・ウィスバーデン生まれ。
56年、フランスのブルターニュのイエズス会寄宿学校に入り、卒業後、パリで政治学を学ぶ傍ら、映画学校にも通い、ヌーヴェルヴァーグの重要な監督たちと親しくなり、ルイ・マル、ジャン=ピエール・メルヴィル、アラン・レネの助監督を務める。
60年に短編“Wen kümmert’s?”で監督デビュー、66年に『テルレスの青春』で長編監督デビューを果たしカンヌ国際映画祭で国際批評家賞を受賞する。71年に、自身の作品に女優として出演していたマルガレーテ・フォン・トロッタ(『ハンナ・アーレント』監督)と結婚し、75年にはハインリッヒ・ベルの同名原作の映画化『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』を共同監督で発表した。79年、ギュンター・グラス原作の『ブリキの太鼓』でドイツ人監督として初のカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞、同時にアカデミー外国語映画賞にも輝いた。その他の主な監督作品にドイツ・フランス合作となったマルセル・プルースト原作の『スワンの恋』(83)、アーサー・ミラーの原作をダスティン・ホフマン主演で映画化した『セールスマンの死』(84)、ジョン・マルコビッチを主演に迎えた『魔王』(96)などがある。14年に日本公開された『シャトーブリアンからの手紙』は1941年のナチ占領下フランスで起きたヒトラーの報復を描き高い評価を得ている。

|公開情報

パリよ、永遠に

監督:フォルカー・シュレンドルフ
脚本:シリル・ジェリー、フォルカー・シュレンドルフ
出演:アンドレ・デュソリエ、ニエル・アレストリュプ
原題:Diplomatie
2014年/仏・独/83分/5.1ch/シネマスコープ/カラー/デジタル/字幕翻訳:丸山垂穂
提供:日活 配給:東京テアトル
http://paris-eien.com/

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