福間恵子さんの『ポルトガル、西の果てまで』を知ったのは、吉祥寺の書店「百年」を通してだった。売り場を訪れた彼女と店主が雑談をしていた際、案外“ポルトガル好き”は多いという話題になり、学生時代から「ポルトガル文化センター」に通っていた私の名前が出たらしい。そのような偶然からこの本を手にすることになったのだが、予備知識もなくページをめくりはじめたこちらは、冒頭からまず引き込まれた。
<そうしていま、自分に問うてみる。どうしてポルトガルなのか>
あえて補足をすれば、なぜ私は世界に数多ある国のなかでポルトガルに惹かれるのか、という意味になるだろうか。ただし、この問いかけは、福間さんだけではなく、私を含め、ポルトガルに魅了された多くの日本人にとって――いや、国籍を問わず、万国共通のものなのかもしれない――少しやっかいな、それでいて無視することもできない設問だという気がする。
海外への渡航にあたって、多くの制限や物々しい注意が喚起される昨今の状況は別としても、以前はこれと似たようなことを誰かに訊かれたり、自分でも意識したりすることは多かった。同じヨーロッパのなかでも、これがフランスやイタリアであったなら、そのような疑問自体、存在しないのかもしれない。あるいはスペインやイギリスだったとしても、多くの言葉を費やす必要はないのだろう。けれども、目的地がポルトガルとなると、どうも勝手が違うらしい。
端的に言えば、ポルトガルという国がそれだけ日本人に馴染みのない場所だということを示しているのだが、同時にまた、万人受けするような、わかりやすい特徴がないことも事実であるに違いない。旅行の前後のちょっとした会話のなかでも、「どうして」や「なぜ」といった疑問詞がたびたび登場し、後ろめたいことなどひとつもないのに、思わずこちらも言い訳をしてしまう。そして、ふと気づかされるのだ。どうして私はポルトガルに惹かれる理由を説明できないのだろう? もしかしたら、自分自身よくわかっていないのではないか、と。
イベリア半島の南西に位置し、長い歴史のなかでイスラム文化と密接に交わってきた地域の、一見、素朴だけれど、実は豊かな食生活について――。あるいは詩の伝統を重んじる国で、静かに育まれてきた小説や映画について――。この本のなかで、福間さんは常にアンテナを張りながら、全身を使って受け止めようとしている。
たとえば、リスボンの旧市街で混み合った食堂に入ったときのこと。店を切り盛りする中年の兄弟と地元客たちが醸し出す雰囲気、そして下町ならではの安価で、けれども絶妙な味つけの料理――茹でたジャガイモを添えた小イカのグリルやハタの煮つけ、そしてポルトガルの国民的な食材である塩干ししたタラ=バカリャウのオーブン焼きといった品々に魅了された著者は、それから何度も、いや、十年以上もそこに通いつづける。そして、ひとたび旅行を終えて日本に帰国すれば、自分の舌とポルトガル語で書かれたレシピ集を頼りに、現地の味の再現を試みる。そうすることで、“彼女のポルトガル料理”は――本のなかには現地で食べるべきリストのようなものが挙げられていて、その味や作り方を読んでいると、読者は生唾を呑むことになる――徐々に、しかし確実に幅を広げていく。
また、本の後半で紹介される、ポルトガル映画に対してもその姿勢は変わらない。
マノエル・ド・オリヴェイラの映画の舞台となることも多かったドウロ川沿いの街や村を訪れ、彼女はその風景とスクリーンで目にした映像を重ね合わせる。短期間とはいえ、撮影地に選ばれた場所にみずからの足で立つことで、作中で交わされた会話やシーンの背景にあるものを、より深いところで理解しようとする。
あるいはまた、ペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』の舞台となった地区フォンタイーニャスを特定するため、ときにはひとりで、別のときには夫である福間健二氏とともに、移民街まで足を運ぶ。一般の旅行者であればまず近寄らない区画で、彼女は息をつめ、膝を震わせながら、画面を観ているだけでは伝わらないものを吸収しようとする。それがすでに実在しない空間であったとしても、より物語に近い場所に身をさらすことで、そこに流れていたはずの空気をじかに感じ取ろうとする。
そうやって未知なる文化に接しているとき、もしくは虚構と現実のあいだに個人的な橋渡しをしているとき、たぶん彼女は生き生きしている。実際には苦労も多いはずなのだが、文章には興奮や喜びが滲み出ている。
ただ、この本を軽やかな印象にしているのは、何より書き手の気持ちがはやりすぎていない点にあるように思う。著者は、自分の体験を語るとき、決して急がない。それがどんなに自分にとって重要な事物で、多くの人に伝えたい事柄だったとしても、常に読み手を置き去りにすることはない。さりげなく目配せをして、こちらが追いつくまで待ってくれる。そんな気遣いが、福間さんの文章には感じられる。
その一方で、ここに描かれているのはあくまでプライベートなもので、ポルトガルの内実に迫っていないという指摘もできるかもしれない。事実、著者は街の隅々まで、あるいは通りの端から端まで調べ尽くして、そこに住む人たちの慣習を見定めたり、複数の歴史から現代を考察したりするようなことはしていない。けれども、移動のさなかに作者が味わった驚きや感動を、読み手も追体験することが紀行文の醍醐味だとしたら、この本のなかには確かにそれがある気がする。料理を食べることも、詩や小説を読むことも、映画を観ることも、彼女の旅程を通してひとつに繋がっているように感じられる。
最後のページまで読みすすんだとき、臆病で、面倒くさがり屋の私は、嫉妬にも近い、なんとも不思議な気持ちにさせられた。“私のポルトガル”と“彼女のポルトガル”は明らかに別物であるにもかかわらず、これまで自分ができなかったこと、言い得なかったことが書かれている気がして、心のどこかでうらやましさを感じていたのだ。
どうしてポルトガルなのか? それを言い表すために、彼女は何度も現地に通い、長い時間をかけてこの文章を書き綴った。明確な理由は答えられなくとも、そうさせるだけの魅力がポルトガルという国にはあるのかもしれない。
【書誌情報】
『ポルトガル、西の果てまで』
福間恵子著
共和国 2021年9月発行 2640円 四六変型判 248p
ISBN 978-4-907986-83-4
【執筆者プロフィール】
上村 渉(かみむら・わたる)
1978年生まれ。静岡県御殿場市出身。
著書『うつくしい羽』(書肆侃侃房 2020)。