2022年の東京国際映画祭と東京フィルメックスでは、コロナ禍のなか、久しぶりに海外から審査員や監督たちを迎えることになった。その社会の流れを見越したかのように、両映画祭では異例の「ツァイ・ミンリャン監督デビュー30周年」をふたつの映画祭で同時開催。東京国際映画祭では『青春神話』(92)、『楽日』(03)、『ツァイ・ミンリャン短編集』が、東京フィルメックスでは『ふたつの時、ふたりの時間』(01)、『西瓜』(05)、『ヴィサージュ』(09)が上映された。特集上映のために来日したツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督と、俳優のリー・カンション(李康生)氏にインタビューをした。(通訳=樋口裕子)
『青春神話』の頃
――まずは30年前に発表した『青春神話』からお話をうかがいたいと思います。台湾のテレビ・ディレクターとして経験を積んだうえで、これが最初の長編映画になりました。当時を振り返っていただけないでしょうか。
ツァイ・ミンリャン そうですね。当時は連続テレビドラマのディレクターをしていて、長い長い脚本を書く作業に飽き飽きしていました。単発の企画をやりたいと思っていて、ドラマを単発で何本か撮ってから、初めて映画を撮るに至ったという流れでした。ですから、テレビ業界ではそれなりの経験を積んでいました。わたしが映画『青春神話』でやりたいと思っていたのは、テレビドラマとちがって、台湾で暮らすふつうの人々の暮らしを、ごくごく写実的に撮りたいということでした。そして、はじめてリー・カンションと出会い、彼の実際の家庭環境を反映した物語にすることを思いついたのです。当時の彼は予備校生で、大学受験を目指していたが、うまくいっていなかった。そんな彼が実際におかれた状況を映画のなかに盛りこみました。そうやって、台北に生きる若い人たちの実態を描こうとしたのです。
この映画に関しては、中央電影公社が製作資金をだしてくれました。その会社は国民党に属する会社だったので、毎年の製作本数が大変少なかった。たまたま電影資料館の館長が友人で、彼がわたしのテレビ作品を見て「映画を撮りたいのだったらサポートしたい」といって、プロデュースをしてくれました。製作費自体は少なかったですが、国からの助成金がおりて、ようやく撮れることになったことをおぼえています。
――リー・カンションさんは『青春神話』ではじめて映画にでて、それから30年ずっとツァイ・ミンリャン映画に出演しつづけていますね。
リー・カンション はい。当時のぼくはまったくの素人で、映画に出演するなんて経験はなかったんです。ですから撮影現場では、なんとか監督の指示のもとに動こうとしていました。映画の撮影がはじまって2日目だったでしょうか。単に首を動かして振り向くだけのショットでしたが、監督がぼくの演技に我慢がならなくて、こんなふうにいいました。「それしかできないの? まばたきもごく自然にやってみてほしいんだ」。ぼくは監督に答えました。「ぼくは首をいつもこんなふうに動かしているし、まぶたの動かし方もいつも通りに自然にやってます。これがぼくの日常な姿なんです」と。ぼくは昔からずっとそうなんですけど、動作ものろいし話すのもゆっくりな人間なんです。そうしたら、ぼくの普段どおりの生活のリズムが映画の撮影をとおして、段々と監督に影響するようになっていったのです。
ツァイ・ミンリャン そうなんです。そのような経緯があって、わたしは反省しました。リーさんはカメラの前でも、彼にとっては、ごく自然に振る舞っている。もしかしたら、わたしたち撮影クルーのほうに「演技とはこうあるべきだ」という固定観念があり、それをリーさんに押しつけているのではないかと思えてきた。彼の演技を見て気づいたのは、普段の生活なら、ひとり一人の人間がどのように首を動かすかがちがっていた当たり前だ、ということでした。それで、固定観念を取りのぞいた自然な動きを映像によって掴まえなくてはならない、と思うようになったんです。
――時代は移りまして、『楽日』のお話をきかせてください。台北の古い映画館を舞台にして一本の長編映画を撮りたいと思ったのは、どうしてでしょうか。
ツァイ・ミンリャン わたしがマレーシアのクチンという街で暮らしていた幼い頃、母方の祖父や祖母がよく映画館に連れていってくれました。ふたりとも映画がとても好きでした。ふたりは別々に、順番にわたしと映画にいくんです。祖父母は麺類を売る店をやっていました。まず19時になると、祖母のほうがわたしを連れて映画を観にいく。そして、映画から帰ってきて店番を交代し、今度は21時の回に祖父がわたしと一緒にいくという感じで。そのような少年時代を過ごした。幼少のころに通ったクチンの映画館は、本当に思い出深い場所です。その後、マレーシアをはなれて台湾の大学に入り、2年目くらいに帰郷したときには、その映画館が取り壊されてなくなってしまった。ちょうど庶民の娯楽が映画からテレビへと移行した時代だったんですね。ですから、次々と古くて大きな映画館が閉館していったという時代でした。
あるとき、『楽日』の舞台になった台北の映画館で、自分が監督した『ふたりの時、ふたりの時間』を上映してもらいました。この作品でお客さんが大入りになって、劇場支配人がわたしに「一緒に映画館経営をやらないか」と持ちかけてきた。わたしは経営には興味がなかったんですが、支配人は「経営がきびしくて、このままでは閉館するしかない」といいました。そこで、わたしはこの映画館が閉まる前に、劇場自体を主役にして一本映画を撮っておきたいと思うようになったんですね。
――この作品では、スクリーンでキン・フーが監督した『血斗竜門の宿』が上映されていて、リー・カンションが映写室で映写機をまわし、おばあさんが劇場内を片づけたり掃除をしたりする。はっきりした物語はありませんが、なつかしくて心地良い時間が流れています。どのように撮影していったのでしょうか。
ツァイ・ミンリャン 『楽日』の撮影期間はとても短くて、2週間で撮り終えました。脚本らしい脚本は書かず、A4の簡単なプロットを書いただけでした。わたしの感覚としては、わたしがこの閉まりゆく映画館をじっと見ている、そんな映像世界にしたいと思いました。ですから、実際の主役は人物たちというよりも、映画館という場所そのものなんです。映画館の最後の一日を、わたしがじっと見つめているという雰囲気です。そのなかでひとりの人物、チェン・シャンチーが演じる足の悪い女性が、ゆっくりとしたリズムでいろいろな作業をしている。観客がほとんどいない映画館、スクリーンにはキン・フーの映画が流れていて、老いた女性がゆっくりしたリズムで片づけをしている。そして外では雨が降っている。そのようなさまざまな要素が混ぜ合わさって、あのような時間が流れる映画になったんだと思います。
『楽日』という映画が表現しているのは、わたしの心情そのものです。撮影現場では、毎日4シーンくらいしか撮っていなかった。あとの時間を何に使っていたかというと、照明をいかにつくるかに費やしました。この映画館をどうやって存分に撮りあげるかにおいて、ライティングの力が大きいと思ったので、そこに時間を割いたわけです。そのことがとても重要だったんですね。毎日照明にたっぷりと時間をかけて、ほんの少しのシーンしか撮影しないということは、ゆっくりと絵を描くようなリズムで撮影することを可能にしてくれました。
――『黒い眼のオペラ』という映画はマレーシアで撮影されました。先ほど幼少期のお話もありましたが、マレーシアであなたが生まれ育ったという事実が、この映画の製作に関係しているのでしょうか。
ツァイ・ミンリャン わたしは大学に入る前の高校時代までを、マレーシアのクチンという街で過ごしました。そのクチンという場所と、首都のクアラルンプールでは雰囲気がまったくちがいます。クチンはもっと小さくて、落ち着いた街ですね。1998年に『Hole』を完成したあと、わたしは台湾の映画界にあまり良い印象を持てなくなり、2年ほどクアラルンプールに住んでいました。ちょうどその時期に、アジアの経済状況が一挙に悪化したんです。『黒い眼のオペラ』にもでてくるように、建築の途中でとまってしまったビルがたくさんあった。その建築労働者だったのが、よその国からきた労働者たちだったんです。
なぜかはわからないですが、外国人労働者に興味をもったんです。彼らはマレーシアの経済状況が悪化しても、自分の国に帰れず、クアラルンプールに残っていた。彼らはインド、ネパール、ミャンマー、インドネシアといった国々からきていた人たちでした。わたし自身、台湾において外国人労働者のような存在でしたから、彼らの存在に惹きつけられたのかもしれません。映画を製作する前段階として、クアラルンプールの外国人労働者の人たちに会い、いろいろなことを話すという取材を進めました。その後、台湾に帰ることになりました。その頃、ウィーンの芸術祭から新作の製作費をだしてもらえることになり、再びマレーシアにもどって、クアラルンプールの外国人労働者たちを主人公にした『黒い眼のオペラ』を撮ることになったのです。
――リー・カンションさんは、この映画で二役を演じていますね。ひとりは賭博場で殴られて、外国人労働者たちから看病をされる男。もうひとりは、最初から寝たきりの植物人間になってしまった男性の役です。
リー・カンション やはり大変な役柄でした。植物人間の役のほうでは、目を動かすことができなかったので。チェン・シャンチーが介護する女性の役でしたが、彼女が近くで何か動作をしていても、それに反応して目を動かすことができないのです。さらに、カメラがまわっている間はまばたきをすることも許されず、監督が「カット」というと、やっと瞼を閉じることができるといった状態でした。ぼくはツァイ・ミンリャン監督の映画では、ケガをしたり病気になったりした人物を演じる場合が多いのです。『黒い眼のオペラ』はその最たるものでした。しかも二役。演技をするときは、ぼくが人生のなかで積んできた経験をだすのが3分の1くらいで、あとの3分の2は監督の考えに従って演じるということをしたと記憶しています。
ツァイ・ミンリャン わたしは常日頃からリー・カンションさんの身近にいるので、彼がいまどのような身体の状態にあるのか、よくわかっています。彼という実際の人物自体が、病気をしたりケガをしたりという経験をしてきた。その彼の身体の状況を見きわめて、それをキャッチして、自分の映画のなかに取りこむということをしています。わたしは30年という長い期間にわたり、ずっとリー・カンションさんを撮りつづけています。なぜなら、彼が変わらずに持ち続けているものに惹かれているからです。それは彼がとても純粋な人間で、純朴であるということ。カメラの前でオーバーな演技をすることなく、いつも自然に演じてくれるところです。それが、リー・カンションさんに対して、わたしが強く敬意をもっている理由なんですね。
(於:東京ミッドタウン日比谷内、東京国際映画祭事務局)
KAKEN 基盤研究(B)課題番号20H012012「東南アジア映画の物語と表現を読み解く―地域研究と映画史研究の連携」