【Review】「ダルデンヌ・スタイル」以前の初期作品 text 吉田悠樹彦∔井河澤智子

neoneo編集室では2023年4月、『ダルデンヌ兄弟 社会をまなざす映画作家』を刊行した。本書ではさまざまなバックグラウンドを持つ執筆者の方々に、これも多種多様な切り口から論考やエッセイの執筆をいただいたものの、全体的なバランスへの配慮、また編者の力不足から、一部の原稿はより短い形に編集し、掲載をすることとなった。
本記事は、『ダルデンヌ兄弟』に掲載された吉田悠樹彦氏の同タイトルの原稿に、もともと氏に提出をいただいたバージョンの一部を加え、WEB用に再編集したものである。また、本記事においては、井河澤智子氏に作成をいただき、同様に紙面では掲載をできなかった兄弟の年譜の一部から文章を加えている。両氏にお詫びするとともに、今回掲載の許可をくださったことをあらためて感謝したい。
なお、本記事はもともとは8月の休止以前の掲載を予定していたもので、現状の記事更新はこれが最後となる。
(neoneo編集室 若林良)

 ダルデンヌ兄弟(ジャン゠ピエール&リュック・ダルデンヌ)の『イゴールの約束』(一九九六)以降の長編劇映画は、すべて日本で公開され、それぞれ高い評価を受けている。ただ逆に言えば、それ以前に製作された作品――長編劇映画二作品(『ファルシュ』[一九八六]と『あなたを想う』[一九九二])、またフィクションに進出する前に制作された初期ドキュメンタリーは、特集上映などを除き、日本では現在に至るまで正式な劇場公開はなされておらず、日本語の資料も極めて少ない。では、それらはどのような作品であるのだろうか。

 まず、兄弟の道のりをその誕生までさかのぼってみたい。兄ジャン゠ピエールは一九五一年四月二一日、弟のリュックは一九五四年三月一〇日にベルギー・ワロン地方のリエージュ州に生まれた。高校卒業後、ジャン=ピエールはブリュッセル近郊ルーアン・ラ・ヌーヴの放送芸術研究所(Institut des arts de diffusion)で演劇を、リュックはルーヴァン・カトリック大学で哲学を学んだ。

 ダルデンヌ兄弟がビデオでの映像制作を開始したのは、彼らが二〇代にさしかかった一九七四年である。原子力発電所で働くことで得た資金で機材を買い、労働者階級の団地に住み、都市計画や土地整備の問題を扱うドキュメンタリーの制作を開始した。一九七五年にはドキュメンタリーの制作会社デリーヴを設立し、その活動に本腰を入れることとなる。とはいえ、彼らが映画を撮り始めたきっかけは映画監督を目指したことにあったのではない。社会的な活動に映像を利用しようと考えたことからだった。

 そうした関心には、彼らが生まれ育ったベルギーのリエージュ州の道のりが大きく関係している。ベルギー南部のワロン地方に属するリエージュは、もともとは工業地帯として栄えていたが、やがてその衰退が訪れ、労働者たちは苦境に立たされることとなる。構造改革を求めた彼らはゼネラルストライキを起こし、ワロン地域では一九六〇年一二月から翌一九六一年一月まで五週間の暴動が続き、全体で数百名の負傷者、約一五〇〇名の逮捕者が出た[一]。兄弟の少年期に沸き起こったこの運動は、社会への関心を養う上でふたりに大きな影響を与えたと推察できる。やがて成長した彼らは、労働問題を軸としたさまざまなドキュメンタリーを製作するようになった。後年の、製鉄所で働く労働者の家族を描いた劇映画第二作『あなたを想う』も、またそうした作品群の系譜に位置づけることができよう。

 第二次世界大戦期におけるレジスタンス運動を扱った『ナイチンゲールの歌声』(一九七八)にはじまる一連の初期作品はミリタント・ビデオと呼ばれるもので、労働者を啓発する目的があった。以前はこのような役割は演劇が負うところが大きかったものの、メディアとしての映画やテレビの浸透により、次第に啓発の主軸は映像が担うようになっていった。その意味では、ダルデンヌ兄弟の歩みは、六〇年代から七〇年代という時代が産んだものであるとも言えよう。

 彼らのドキュメンタリーは、かつての労働運動への参加者である老人が、自身が作った船での航行を通して当時を回想する『レオン・Mの船が初めてムーズ川を下る時』(一九七九)や、工場労働者たちによって発刊されていた地下新聞をめぐる『戦争が終わるには壁が崩壊しなければならない』(一九八〇)へと続く。また、彼らの関心は国内のみにとどまらず、自由ラジオ[二]を通して労働者たちが連携していく『某Rはもう何も答えない』(一九八一)では、イタリア語やドイツ語など多言語での放送が描かれ、その射程はヨーロッパ全体にまで伸びる。また、『移動大学の授業』(一九八二)では、ベルギーに暮らす五人のポーランド移民の証言から、ポーランドの歴史を浮き彫りにしていく。彼らが国を離れた背景には、第二次世界大戦時におけるユダヤ人の迫害やその後の旧ソ連の侵攻、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキによる一九八一年の戒厳令などがあることが示唆され、移民という軸からの社会主義体制への批判が読み取れる。

 同時に、その初期作品は、政治体制への批判や、労働者の啓発という視点のみで語ることのできるものではない。ダルデンヌ兄弟の道のりを語る上で重要となるのが、劇作家として活躍を重ねたアルマン・ガッティである。映画の制作に先立ち、青年期に舞台演出家を目指していたジャン゠ピエールはブリュッセルに移り、そこでガッティと出会った。やがて兄弟は、彼のもとで居候をはじめ、やがて創作の面でも、ガッティと関わりを持つようになる。一九七二年から七三年にかけては、ジャン=ピエールは『ラ・コンヌ・ドゥルッティ』La Colonne Durruti、『アデリンのアーチ』L’Arche d’Adelinというふたつの舞台のアシスタントを務めた。

 ガッティは日本でも訳されている「道路清掃人夫オーギュスト・Gの幻想的生活」などの演劇に加え、ヌーヴェル・ヴァーグの左岸派として、『エンクロージャー』L’Enclos(一九六一)などの劇映画も発表している(兄弟は八二年には、ガッティの監督作『私たちはみな木の名を持つ』Nous étions tous des noms d’arbresを共同プロデュースし、ジャン゠ピエールは撮影助手、リュックは助監督として参加している)。その作品は政治色の強いものでありながらもドラマティックな色も濃く、いわば社会的なメッセージと作家的な独創性をどのように同居させるかという問いを、ダルデンヌ兄弟はガッティから学んでいったのではないだろうか。

 兄弟の最後のドキュメンタリーとされる『ヨナタンを見よ:ジャン・ルーヴェ、その仕事』(一九八三)は、彼らのドキュメンタリーの中でもっとも明瞭に演劇的な色を感じられる。本作は、劇作家のジャン・ルーヴェが執筆した戯曲を映像として昇華させる。戯曲は一九六〇年のストライキとその後の過程を描いたもので、その意味ではこれまでの作品の系譜に連なるものとは言えるのだが、作品は表面的なテーマのみで解釈できるものではない。戯曲の朗読やセットを組んでの上演の様子、またルーヴェへのインタビューなどが地域の芸能文化、シャドーボクシングなど一見脈絡を欠いた映像と同時に展開され、正統派のドキュメンタリーというよりも、フィクショナルな側面が極めて強い演出となっているのだ。

 そして劇映画第一作の『ファルシュ』は、ルネ゠カリスキーによる戯曲の映画化である。ナチスの支配下のドイツにおいて、ユダヤ人の一家がそれぞれどのような末路を辿ったのか、幽霊となった彼らの会話から明らかとなっていく。ホロコーストにおける虐殺や、アメリカに亡命した後の苦難の道のりなどが語られる。舞台は夜の空港という特殊な場所に限定され、その意味でも演劇的だが、本作に登場するキャラクターや物語設定は旧約聖書を基盤としており、かつ、そうした要素は原作のものではなく、ダルデンヌ兄弟が独自に付け加えたものだという見解もある[三]。過度にドラマティックな要素を排した後年の作品とは異なった魅力がある[四]。

 やがて一九九四年、ダルデンヌ兄弟は新しく会社「川の映画」Les Films du Fleuveを設立する。これは『あなたを想う』が出資者との間で妥協を重ねての制作となり、兄弟にとってまったく納得のできない作品になったことが背景にあった。「川の映画」の設立によって、彼らははじめて、自らのコントロールのもとでの自由な制作を行うことが可能になる。その第一作が『イゴールの約束』であり、それから現在までの、カンヌ国際映画祭での二度の最高賞をはじめとした彼らの輝かしい道のりは、世界中の多くの観客がすでに知るとおりであろう。

 ダルデンヌ兄弟は日本において、移民や弱い立場に置かれた子どもたちの苦難を描く監督として捉えられることが多い。しかし、彼らが少年期から青年期にかけて接した労働運動や演劇の存在が、彼らの作家的原点にあることは忘れてはならないだろう。

註一 松尾秀哉『物語 ベルギーの歴史』中公新書 、二〇一四、一四六頁。
註二 自由ラジオについては、フェリックス・ガタリの論文「民衆自由ラジオ」に詳しい。また日本では批評家の粉川哲夫が編著『これが「自由ラジオ」だ』(晶文社)などで紹介し、自身でも実践した。
註三〝Jean-Pierre and Luc Dardenne〟Joseph Mai,University of Illinoi Press,2010,pp.28-29
註四 なお余談だが、九〇年代前半までのダルデンヌ兄弟はアメリカのユダヤ人社会でも、自分たちの問題意識を共有する監督として注目されていた。当時の兄弟は、のちにコメディとしてナチスを描いた『我が教え子、ヒトラー』(二〇〇七)などを監督するダニー・レヴィや、メジャーリーグ初のユダヤ人野球スターに着目した『ハンク・グリーンバーグの生涯と時代』(一九九八)などを監督したアビバ・ケンプナーらと比較される形でしばしば語られている。また、たとえば以下のインタビューのように、第二次世界大戦時におけるユダヤ人の虐殺が、兄弟の問題意識の根底にあることも推察される。https://www.cinematoday.jp/news/N0090435

【著者プロフィール】
吉田悠樹彦(よしだ・ゆきひこ)
一九七五年生。メディア研究、芸術学・芸術評論。近現代の演芸、レニ・リーフェンシュタールや戦前の映画に対する検閲に関する論文がある。共著にThe Routledge Companion to Butoh Performance(二〇一八年)。

井河澤智子(いかざわ・ともこ)
茨城県出身。図書館情報大学大学院情報メディア研究科博士前期課程修了。大学図書館司書、某巨大博物館シアターナビゲーターなどを経て、映画を観る活動を始める。