西巣鴨にある、閉校した中学校をそのまま活用したイベント会場に到着すると、校舎の正面に見慣れない大きなポスターが掲げてあった。校庭には大きな穴が掘られていて、作業中のような雰囲気である。今日の上演とは別に、何かのプロジェクトが準備中なのだろう、と思って通り過ぎた。しかし、実はここから「演劇」は始まっていたのだ。
案内された教室で開演を待っていると、オレンジ色のつなぎを来た若い男女がどこからともなく現れ、観客一人ひとりに無言で近づいては手の甲に数字のスタンプを押してまわった。何の説明もないまま、わたしは自分に与えられた「③」という黒い番号を見つめた。やがて時間になると、校内放送で全員が校庭に集められ、2階のベランダから男が前口上を披露した。掲げられているポスターに描かれたサロメの物語を持ち出し、誰が被害者で誰が加害者か分からない状況についての話をした。その人の立場によって変容する過去の記憶、それが「ステップ=もう一つのメモリーズ」、であると。
朝鮮戦争における抑圧された記憶を呼び覚ます、というのが本作の主題となっている。しかし、上演の前半で観客が向き合うことになるのは朝鮮の歴史ではなく、実際にいま訪れている日本の、東京・西巣鴨の歴史だ。校内放送でその土地の変遷(戦前には映画撮影所だったという)が解説されると同時に、地下の調理室と理科室へ向かうと、日本人が家電製品を抱えて佇んでおり、そのうち何人かの女性が自らの記憶をたぐりよせるように語り出す。それは日本の過去の戦争を思い起こさせるエピソードであり、観客はその場でタイムスリップしたような気分を味わう。男性数人が立ち去り、女性も話し終えると再び沈黙となった。
教室を出ると、先ほどの俳優たちがうつろに座り込んでいる暗い廊下を通り過ぎ、校庭に出て例の穴の周りをぐるりと歩かされ、見れば俳優たちも後ろからついてきて、後半の舞台となる体育館へ誘われる。もはや誰が観客で誰が演者なのかも判然とせず、知らぬうちに自分も物語の中に放り込まれてしまったような、不思議な緊張感が参加者全員を包み込んでゆく。
体育館には観客用のイスが並べられ、正面のスペースが空けてあり、舞台としての一応の形が整えられていた。奥にはスクリーン、客席の間にはブラウン管テレビが置かれている。観客の後から入ってきた俳優たちは、とぼとぼと歩くうちに一人二人と倒れてゆく。スクリーンとモニターには朝鮮戦争についてのテキストが、土の映像の上に流れる。倒れた者は退けられ、生き残った者は周囲にある洋服を取って身につけた。その後、「敗者」たちがあの校庭にあった穴に埋められる光景がモニターを通じて伝えられたが、それはまるで別の次元の出来事であると言わんばかりに「勝者」たちはすましている。ここでは目の前で進むライブの展開に対して、映像が隠された伏線として機能し、観客に訴えかけてくる。さらに暗い場内で不意に家電の操作音が鳴ったり赤いランプがついたりすると、次の展開が始まる。わたしは五感を最大限に研ぎ澄ませ、いくつもの仕掛けを待ち構える態勢をとることになった。
スクリーンに、開演前わたしたちに番号を刻印したユニフォーム姿の者らが大きな木箱をパッキングして運び出す様子が映し出された。しばらくすると同じ木箱が体育館へ搬入され、衝撃的な一幕が始まった。木箱の中から埋められたはずの「敗者」が現れ、裸同然で体当たりしてくるのを、「勝者」が何とか力任せにねじ伏せるのである。そこには、声にならない苦しみを負った被害者と、彼らを無視し続けようと必死な加害者という関係がはっきりと表されていた。そして結局、加害者の間でも殺し合いが始まる。もはや自分の意志とは関係なくピストルを持たされ、ロシアンルーレット式に引き金をひくと順番に倒れていくのだ。こうして一人また一人と命を失い、死んだ者は並んで寝かされビニールをかけられ、封印される。そこには戦争という集団殺戮を操作する「力」が、削ぎ落とされた形で表出していた。
戦争が表面的には終わり、正義と平和を謳う新しい日々の場面に変わるが、スクリーンとモニターには「PTSD=心的ストレス障害」についての解説が詳しく流される。そして、一人の元兵士が懸命に自分のトラウマを訴えるが、スーツに身を包んだ男女は笑顔でそれを受け流す。ユニフォーム姿の者が手持ちのビデオカメラで彼ら双方をアップで撮影し、リアルタイムでモニターに映し出す。遠目で役者たちを見ていても分からないような微妙な表情を、映像はダイレクトに伝えてくる。やがてスーツの者らが元兵士を体育館の外へ連れ出してしまうと、カメラもそれを追って行き、目の前の舞台は空っぽになってわたしたちはモニターを凝視する。そこでは、現在進行形でスーツの者らが兵士を校庭の穴に埋めていく様子が記録されるのだった。奇妙なことに、自分たちのいる体育館のすぐ側で行われているはずのことなのに、映像だけを見ていても実感が湧かず、遠い場所の出来事のように感じた。まるで戦争の話をいくら聞いても、自分の現実に取り込むのが困難であるのと同じように。
上演後、演出家のユン・ハンソル氏に話を聞くことができた。この公演は2009年から世界各地で何度か行われ、いつも会場ごとに適したセッティングを工夫し、その土地の歴史をプロローグに織り込んでいるのだという。つまり、この演劇は朝鮮戦争を語ると同時に、それぞれの場所で起こってきた戦争の痕跡を呼び起こさせるのである。それを理論上ではなく、体感によって伝えることを果敢に試みている。エピローグで、映像に現れるテキストはこのように示唆する。「記憶は語るうちに歪められてしまう。記憶を言葉で伝達しようとするのではなく、感覚によって認知することが必要だ」。すると、あのユニフォームの者らが観客全員に小さなビニール袋に入った土を手渡し、中身を出して触れるように求める。さまざまな人間の生死のイメージに包まれて暗い客席でその土を握ってみると、面白いことに、それが死んだ者らを埋めた土である、と確かに感じられるのである。
一人ひとりによって記憶が変容していくこと、その記憶を共有することの難しさについては、これまでも度々考えることがあった。しかし記憶を追い求めず、別の方法で過去の体験を現在に接合する可能性を見出そうとしたことはなかった、と気づかされた。ハンソル氏は、観客を安全な場所に置かず、その五感を総動員させることで、わたしたちの想像力の中で支配と抑圧のやりとりを膨らませ、そこには存在しないはずの現象を蘇らせる。誰もが傍観者でいることを許さない演出によって、役者やスタッフだけでなく観客も自らの身体と心のありかを確かめ直し、そうした全員の行為の集合体が、この時間をまるごと「演劇」に昇華する――他の表現分野では真似できない過激さを、存分に思い知った作品であった。
【上演情報】
『ステップメモリーズ―抑圧されたものの帰還』/グリーンピグ
構成・演出:ユン・ハンソル [韓国]
上演時間:120分
韓国語上演(日本語字幕付き)
※日本バージョン初上演
11月22日(木)~ 11月25日(日) にしすがも創造舎
※フェスティバル/トーキョー2012 にて上演
HP:http://www.festival-tokyo.jp/program/12/step_memories/