【Review】牛腸茂雄関連短編上映会 text小林由美子

Unknown東京・恵比寿 MEM

2013年10月19日、恵比寿NADiff A/P/A/R/T 2階 MEM。

日中はまだ暖かいけれど夕方になると急に寒くなる。「こんにちは、最近冷えてきましたね」「こんにちは、そうですね。もう冬になりますね」なんて会話が響きはじめる。

この日は夕方になると灰色の厚い雲が空を覆いだした。人がたくさん行き交う恵比寿駅。改札に向かってまっすぐ歩くと人にぶつかりそうになるから、歩幅を調整しながらギリギリよけていく。みんな急ぎ足。慌ててるOLさん、くたびれたトレンチコートのサラリーマン、部活用の大きなエナメルのショルダーバッグを下の方にさげている男子高校生が可愛い。すれ違う瞬間に盗み見る。どんな顔でどこを見ているか、近くで見ると服や持ち物の細部が見えてくる。なんだか今日はやたら行き交う人々を凝視してしまう。

駅をでるとすっかり暗くなっている。日中が暖かいから油断して薄手のジャケットを着てきてしまった…。新宿ルミネで買ったお気に入りのジャケットだけど、もう衣替えかな。今週末はまたルミネに行って冬物いっぱい買おう、リボ払いにすればなんとかやりこなせるよね。消費を想像してむふむふと楽しくなる。短めの袖からで手がいっきに冷たくなる。でも、どんどん冷えていく手が気持ちいい。「あの子もこんな風に手が冷たかったろうな」とぼんやり想像して嬉しくなる。

あの子。靄がかった記憶に女の子がいる。

上映チケットをひきかえる為にMEMに急ぐ。

 私が牛腸茂雄を知ったのはユーロスペースで上映された佐藤真監督の『SELF AND OTHERS』だった。18歳だった私は実験映画や個人映画に興味を持ち始めて、映画館に行っては気になるフライヤーをたくさん持って帰り、何を観ようか眺めるのが楽しくて仕方なかった。その中の1枚が『SELF AND OTHERS』。「うし?ちょう!…ぎゅうちょう?」と一回で読めなくてなんだか禍々しい名前と少し強ばった表情の双子の女の子の写真に突き動かされて、何も知らないけれど観に行かなくちゃと思ったのを覚えている。

佐藤真監督が牛腸さんの目線を丁寧に追いかけて作られた映画。牛腸さんの目線を擬似体験して、姿形も知らない「牛腸茂雄」という男性が隣りにいて目線を導いてくれているような、なんだかイタコになって彼を呼び寄せているような幻想的な体験だった。追憶の中で踊り回るような不思議な感覚。映画の中で「もしもし聞こえますか?」と、問いかける牛腸さんの声が、私の初めての牛腸体験。10年以上経っても、今もはっきりと聞こえていますよ、牛腸さん。

 上映作品は以下の5本。

『THE GRASS VISITOR』
1975/カラー/7分/サイレント/プロデュース アトリエ・ブロック)

撮影:牛腸茂雄、田中耕一、佐治嘉隆 キャスト:鈴木慶子、後上みさ緒
・牛腸が勤めていた建築事務所アトリエ・ブロックで映画事業をしようと制作されたプロモーション映画

まち』
1970/白黒/5分/サイレント)
撮影:牛腸茂雄、寺本宗男、三浦和人
・桑沢デザイン研究所写真言学科の3人による草月ショートフィルムフェスティバル出品作

『GAME OVER』
(1975/カラー/7分/サイレント/プロデュース アトリエ・ブロック)
撮影:牛腸茂雄、田中耕一、佐治嘉隆
・アトリエ・ブロック制作プロモーション映画

『未編集フィルム』
(1978/カラー/5分/サイレント)
撮影:牛腸茂雄
・牛腸の遺品にあったカメラテストを兼ねて撮り始めた8mmフィルム2巻

『住吉荘の牛腸』
(1971/カラー/1分30秒/サイレント)
撮影:佐治嘉隆
・佐治氏と西辻氏が友人宅を訪ねて撮影しようということになり、牛腸宅を訪問したもの

『THE GRASS VISITOR』を観た瞬間に心臓がとまりそうになる。だって、「SELF AND OTHERS」にいた少女がそこにいるのだもの!土手でスカートをなびかせていた少女。写真だけにおさめられていたと思っていた子が動いている。思い出の中にいる昔好きだった子がまた目の前に現れてびっくりして嬉しすぎて、やっぱりまだ好き!って一瞬で沸点到達。

もう1人は大学生くらいの髪の長い女性。大人っぽいのに子どもみたいに屈託なく笑っていて可愛い。2人は牛腸さんが住んでいた住吉荘の大家さんの英語塾にきていた生徒さんだそう。女の子は大人びた笑顔を、女性は少女みたいな笑顔を。野原にワンピースに風になびく長い髪。夢見心地なイメージが紡がれていく。2人は姉妹ではないのになんだかよく似ている。似ている?というか、「同じ人」に見えてきて怖くなる。「少女」も「女性」も、「大人」も「こども」も関係なく等しく、とてもフラットに見つめられた映像に、記号化されていた言葉のカギかっこが外れてまっさらな気持ちになる。

『まち』は3人で撮影されたそうで牛腸さんのシーンは明確にはわからないけれど、カメラを持って「まち」にでたくなる、愛おしくなる映像。まちをひたすらに撮っていて、写真よりも人に関わっている。被写体との距離を近く感じる。外から捉えるんじゃなくて同じ空間にいて、その人の行動を面白がって見ている、楽しんでいるのがカメラワークで伝わってくる。写真は人に入り込まない境界線ギリギリ外のところにいるけれど、映像は撮る側と撮られる側もコミュニケーションがあるんだろうなと感じるシーンが多かった。

こどもの足が映し出される、すると次のカットはおじさんが地面に散らばった氷を一心不乱に踏みつけている足が映る。大人がこどもみたいに1人遊びしている姿が滑稽で可愛らしい。氷が砕けて飛び散るのを一緒に楽しんで見ているかのような眼差し。そして、公衆電話で話している男女のカップルが映し出される。大学生くらいの標準的な昭和の男女。女の子が受話器を持って、男の子は隣りに寄り添って友達に電話しているのだろうか?楽しそうにおしゃべりしている。女の子がカメラに気付いてじっとカメラを見るけれど、構わずにおしゃべりを続ける。勝手に撮られていることより友達と話す時間が大切だし、あなたの視線なんて何の意味もないですよ。そしてカメラも負けじと執拗に撮り続けているのに笑ってしまう。

撮る側だとカメラの持つ暴力性についてよくぶち当たる。勝手に撮って「自分の作品」にしてしまう、そんな風に撮ってしまえる側が強者なのか?って嫌気がさして。でもこのシーンは撮られる側の強さをまざまざと見せつけられ、救われた。その女の子が何事もなく視線を外した瞬間にカメラの無意味さを感じて清々しい。

最近はまちの中でカメラを持っている人がいたら、何を撮ってるの?ましてやこどもを撮ったら「悪用」されてしまうんじゃないか!と思われることも多い。私も以前母校の小学校に撮影のお願いにいったら「最近は親御さんが嫌がるから」と、即答で断られた。カメラを始めた頃は、外に出れば何かに出会うはず、何もなくてもカメラで切り取ると特別な瞬間になるようで無敵な気がしていた。だけど、街中でカメラを持つ恐怖感、人にカメラを向ける暴力性、煩わしさに浸食されてカメラを置いていた。そんな暗い靄を吹き飛ばしてくれる、『まち』はカメラを持つ初期衝動を思い起こさせてくれる。

『住吉荘の牛腸』では照明もなく暗くて見えづらい、手持ちカメラでどこを捉えるでもなくがちゃがちゃと動く暴力的な映像に、観る意識を集中させられる。玄関をあけて牛腸さん宅に入るたった1シーン。牛腸さんとおぼしき人の足下が映ると、スリッパが飛んでくる、荒々しく客用のスリッパを一足ずつ投げつけての牛腸流の出迎え。牛腸さんの片鱗を少し感じたことでフィルムは終わる。最後まで牛腸さんがはっきりと分からずに、スリッパを投げつける手だけを感じさせて消えてしまう。

牛腸さんの表皮に少し触れたような感覚に、彼の身体へと意識が飛んでいく。

胸椎カリエスを患い、身体に障害を抱えていたことを知った時に、あの低い埋もれるような視線がすっと自分の中に入り込んできた。近い距離で撮るといつも少し見上げたようになってしまう、人が行き交う時の圧迫感、埋もれる感じ。向こうが見えなくなって人の視界に入っていないように感じる。私は背が低いのでそれが強烈なコンプレックスだったから、「見慣れた街の中で」を見た時に救われたのを覚えている。いつも見えない見えないと背伸びしていたけれど、普通より低いから見える風景に。

こどもが青い風船を見上げている写真は大人の視界に入っていないようで、なんだか無防備に懐に入られてしまって恐怖感すら感じる。牛腸さんはいつも相手の視界に入っていないような無防備さは、こどもの視界に近いんだけれど、青い風船のこどもは目の前の風船に夢中だからこどもの意識にも入り込まない。

「SELF AND OTHERS」でもこどもに容易に近づかない距離の取り方は、そこにどんな関係性やコミュニケーションがあるのかちっともわからなくなる。こどもの頃、親になんでこんな場所で?ってわけの分からないところで写真撮られる時に、しゃんとおすまししてなきゃーっと手足を揃えて、笑ってっていわれてもこんなところで撮らなくてもいいじゃんってつまらない顔している写真が残っているのを思い出した。愛情やフェチズムともまったく違う。可愛く撮ろうとか美しく撮ろうとかそんなんじゃなくて、その時にその子が生きているというプリミティブな感情なんじゃないかと思う。こどもはただひたすらに希望と未来しかない。

「SELF AND OTHERS」でジャイアンツの帽子を被った少年の汗ばんだ前髪と褐色の肌は水々しくて、人間の奥底にある生命への渇望をぐっとひっぱりだされる。筋肉のついていない腕に、柔らかい肌、短い手足、ただひたすら輝いている。細胞分裂の弾ける音が聞こえてくるような。畏敬の念のようなものを感じて仕方ない。あの野球場の霧の中にかけていくこどもたちを追いかけても追いつかない。憧れと、そうはなれない諦めと、生命への慈しみ。

牛腸さんの眼差しを想像するとまちの雑踏が聞こえてくる。女の子の楽しそうな声が聞こえる。

そうだ、私の中には家を出たときからずっとあの子が頭の中にいた。

「見慣れた街の中で」の最初にでてくる振り袖の女の子。冬の晴れた深い青空、楽しそうに友達と話している。すれ違い様のあの一瞬の写真が私の視線をコントロールしていた。牛腸茂雄が街の中に、人の中に埋もれて見つめるあの目線を何度も反芻していた。牛腸さんの写真はそんな風に見た人の無意識に焼き付いて支配してしまう。支配されているのに気が付いた時に、なんだか嬉しくなる。私はあの振り袖の女の子みたいにめでたいこともないし、とっくに成人式も終わって母親に結婚はいつかいつかと心配されるし、今日は空もどんより曇りで帰り道寒いの嫌だけど!外気に触れる皮膚が牛腸さんの皮膚に一膜覆われて、少し暖かい気がする。

勝手に牛腸さんはコミュニケーションが苦手な無骨な人なんだろうなーと思っていたけれど、この映像作品で写真では見えなかった被写体との関係性とコミュニケーションが垣間見えて新しい感動でした。

映像によってコマとコマの間が補完されて。フィルムが回っていく。

※牛腸茂雄関連 短編映像作品上映会
10月18日(金) – 20日(日) 東京・恵比寿/MEMにて開催

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【執筆者プロフィール】

小林由美子(こばやしゆみこ)
1983年栃木県生まれ。映像作家。多摩美術大学映像演劇学科卒業。鈴木志郎康氏に師事する。セルフドキュメンタリー、プロモーションムービー制作を中心にポートレート写真やアジアとガールズカルチャーの批評ZINE(NAMAEmagazine)を制作、コラム執筆など。映画上映だけでなく展示やイベント企画と幅広く活動中。

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