【Essay】ドキュメンタリー魂 text 伏屋博雄

※真ん中が小川紳介監督、左側が著者 

敬愛する監督は小川紳介である。わたしはスタッフとして24年間、彼の死まで関わったから当然と思われるかもしれないが、彼以外にも(若い世代の監督を含めて)ずいぶん大勢の監督を知ったが、彼ほど映画に溢れる情熱を注いだ監督は記憶にない。小川は無類の話し手だった。明日の撮影の仕方や作品の構想を次から次へと話した。抽象的な話ではなく、極めて具体性に終始しつつ、相手の反応を確かめながら構想を練り直すといった態で、座を心底楽しんでいた。疲れたそぶりはみじんも感じさせず、話はうねり、飛躍した。いつしかわたしはその熱っぽいダイナミックの渦に巻き込まれていった。いつも、「こんなに映画と戯れることができる人がいるのだろうか」と思ったものだ。土本典昭監督はそうした彼を評して、「小川ちゃんの話を聞いていると、つい引き込まれて、木戸銭を渡したくなってしまう」とつぶやいたことがある。ちなみに、土本さんは常々「映画は考える道具である」を信条としていた。ジャーナリストになることが夢だった土本さんの日課は、丹念に新聞を読むことだった。「いつも3時間を費やしていた」とは、切り抜きを手伝っていた土本夫人の話である。切り抜きの項目は「水俣」は勿論、「原子力」「人権問題」「国際共産主義運動」「中国」「北朝鮮」「アフガン」など、実に45種類。書棚にはずらりとスクラップブックが並んでいた。この作業は40年間続いていたという。『原発切抜帳』はそうした蓄積で出来た作品である。

小川紳介はドキュメンタリー映画をつくる条件として、三つを挙げている。彼はこれらを生涯にわたって貫徹した。

まず第一に、ドキュメンタリーにはお金をかけること。これはと思う撮影にとことん粘ったから、フィルムは膨大に回った。フィルムと現像代は高価だった。当時400フィート(約11分)のフィルム代とネガ現像、ラッシュ代は確か5万円ほどだったから、デジタルビデオテープが1時間で1000円以内で購入できることと比較しても、製作費がいかに膨らむか想像できよう。第二の条件は、撮る対象との関係を深めたうえで、撮影することを強調した。「調査なくして、発言権なし」をモットーとし、スタッフには徹底した調査を要求した。三つ目は、時間をかけて撮ることだった。それは第一の条件とも関係して、製作費がかさむことを意味していた。じっさい、『ニッポン国古屋敷村』や『1000年刻みの日時計』は何年もの果てに完成した作品である。

※小川紳介監督 

わたしは小川プロのプロデューサーとして製作費の捻出では、ひとかどの苦労をした。上映を働きかけ、それでも不足する資金は理解がありそうな人を探しては借入を頼んだ。共同生活、共同炊事で極力経費を抑えようとするものの資金はたえず不足し、スタッフに給与なぞ払うことはできなかった。東京の事務所の電話は止まり、家賃は数カ月滞納することもしばしば。万策尽きたと思われ、何度となく製作中断の悪夢がよぎることがあった。しかしそれでも持続できたのは、小川を始めスタッフの「いい映画をつくろう」とする思いはわたしの胸の内にも居座っていたし、そうした小川プロを理解し支えてくれた全国の人たちの熱い応援があったからに他ならない。

そんなわたしにも増して凄まじい方法で金策をした人がいた。障害児の生活を追ったドキュメンタリーで知られる柳澤壽男監督である。柳澤さんも製作費を如何に捻出するか、苦労していた。作品を作ろうにも先立つお金がない。「そこでね、電話帳がハタとひらめいてね。あの分厚い表紙の上から錐で、目をつむってブスッと刺すんです。するとかなりのページに穴があく。そのしるしがついた名前、もちろん見ず知らずの人ばかりです。その人たち一人一人に向けて窮状を訴え、協力を求めたんです。 心を込めて手紙を書きましたよ」「で、どうでした?」「大抵は反応がありません。でもね、世の中まんざらでもありません。中には返事をくれる人がいましてね、お金が入っている・・・」「!」

小川・土本・柳澤たちが自主製作で活躍したの60年代後半から80年代。土本の晩年の作品を除いて、全て16ミリフィルムで撮られたものだ。その後の撮影・編集の機材の技術革新は目覚ましく、今やデジタルビデオが普及し、編集機も格安で購入できるようになった。つまり、フィルムでは到底考えられないほどの予算で製作できる時代になった。たとえば1989年に開催されてた山形国際ドキュメンタリー映画祭ではアジアから出品されるドキュメンタリーは日本を除けば皆無に近かった。欧米からは多数の作品が出品されていたが、すべてフィルムによっていた。ところが昨今はデジタルビデオによる作品が世界中から参加するようになってきている。ドキュメンタリーの裾野は広がった。私的ドキュメンタリーの潮流もこうした動きと無縁ではない。

死の前年、小川は見舞いにきた台湾のドキュメンタリー監督とプロデューサーを前にして次のように語った。
「人間ってのは、結局自分がどう生きてきたかってことを人に見せる以外ないわけでしょ。だから、できるだけ個性的な生き方をしてきた人を、僕は尊敬するね。一人ひとりの人生しかないように、一人ひとり違った人生を、違った形で生きていく生き方がおもしろいんであって、いまの日本の多くはそうじゃなくなりかかってるわけですよ。そういうなかにあって、すごい生き方をしている人が、まだいっぱいいるんです。そういう人たちを僕は映画にしているわけですね。」(「映画を穫る」所収) 小川が他界して今年で20年。時代は変遷し、今から17年前には阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件(1995年)が世を震撼させた。さらに昨年は東日本大震災と福島原発事故。災害の余波は今も続いている。
世は閉塞感が漂い、社会の格差は広がり、孤独死はメディアを賑わせている。進歩史観は粉砕されたといっていい。実にわたしたちは、小川たちが記録した時代より、はるかに複雑な時代に立ち会っている。そして、家族や友人の身辺に起きる諸事から時代の折節のこと、花鳥風月、まさに万般にわたって誰もが記録するのに事欠かない時代でもあるのだ。深い絶望があるけれども、懸命に生きようとする希望もある。新しいもの好きで、機械いじりが好きな小川が生きていたら、デジタルビデオで撮りまくったことだろう。ドキュメンタリーが発見する世界をもっともっと見たい。

 ※小川紳介監督と著者

今回、若い世代の人たちと一緒になって、新生neoneoを立ち上げることになった。その領域も映画のみならず、演劇や写真、テレビ、さらにはノンフィクションの著作等にまでドキュメンタリーの分野を拡大して、越境的に捉えていこうとする試みである。つまり、ドキュメンタリーというメスで現代をとらえ返す視点を獲得したいと思っている。まずはウェブサイトから出発し、6月には季刊的な雑誌を発行する予定である。新生neoneoが、人と人との厳しくも温かい関係を築く場として機能するならば、こんなに嬉しいことはない。


【執筆者プロフィール】

伏屋博雄(ふせや・ひろお) 
1944年、岐阜県生まれ。プロデューサー、メルマガ「neoneo」の発行・編集人。 68年小川プロに参加し、『どっこい!人間節』でプロデューサー、 『ニッポン国古屋敷村』『1000年刻みの日時計』などを製作。小川紳介の死去に伴い93年に製作会社を設立、『映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事』 などを手がける。