いよいよ今月で富士のシングル8の出荷が完了し、私が半世紀近く愛用してきたフィルムが亡くなる。
今は亡き
フィルムたちの
手ざはりを
感じ取りつつ
パソコンに向かふ
撮影に2年、編集に5年かかったが、私も映像編集ソフトと馴染み、 『20世紀ノスタルジア』以来15年振りとなる劇場用劇映画 『Soar あなたにゐてほしい』を完成させた。撮影は35ミリ、8ミリ、HD、SDで行い、それらをパソコン上でHDで統合、編集して仕上げたハイブリッド方式デジタル版の映画だ。
8ミリも含めたフィルムとビデオを等価に扱い1本の作品に仕上げていくといふのは16ミリ、8ミリから出発し、ビデオを経由し35ミリに行き着いた、私のやうな作り手にとって、究極の夢だったのだが、それが、やうやく、いとも容易にできるやうになった今、その8ミリが消滅してゆくといふことは筆舌に尽くしがたい淋しさを覚へる。
富士のシングル8の製造中止の話が持ち上がったのは、ちやうど『Soar あなたにゐてほしい』の編集をしてゐた時だった。フィルムといふ身体が無くなりデータになってしまふのだ。そして取り直しもでき、修正のきくデジタルといふデータは、撮影する身体をも追放するものなのだ。少なくとも、デジタルでも、撮影する身体を残すにはどうしたらいいのか。私は真剣に悩んだ。
そのとき、浮かんだのは映像短歌といふコンセプトだった。映像を撮りながら、短歌・俳句を詠む。あるいは、短歌・俳句を詠みながら、映像でも短歌・俳句を詠んでいく。五七五あるいは五七五七七のリズムにのせて、日本の伝統的な<うた>のリズムを感じながら、カットを重ね、その場で短い映画を撮る。
それを日本の和歌の始まりである、万葉集にちなんで万葉律と名付けた。<うた>は先にあってもいい。並行してあってもいい。映像を撮った後から、撮った映像を見ながら考えてもよい。撮り直しはしない。編集しながら撮ること。すると、<うた>のリズムと編集しながら撮ることの身体性が、映像に独自の緊張感を与え、それを繰り返しているうちに、映像力が高まる。
しかし、<うた>をどうするのか。<うた>と映像の足し算ではなく、掛け算をどうするのか。私自身も試行錯誤の連続だ。ワンカット撮ったところで紙に書いてそれを数秒撮る。そうすると映像同士のカッティングが無くなる。あるいは次のカットで口にする。ワークショップを始めたりしながら、次第に長さは5・7・5・7・7秒を基本にして、最後に全体を繰り返して詠む、あるいは詠ませればいいことが分かった。各人各様だし、大勢の人々がやっていくうちに、定型が見えてくるに違ひない。
「これは面白い。万葉の地明日香で開くイベントにはぴったりだ!」ということで、万葉集、または自作の短歌ををモチーフに、5・7・5・7・7秒のカット割りを基本にした短編映画といふ分かりやすいくくりにして、奈良前衛映画祭が全国から公募し,アートシネマフェスタ 2012/21世紀の映像万葉集『万葉律』と題した映画祭が去る3月20日明日香の万葉文化館で開かれ、10編の入賞作品が上映された。
やはり万葉集をモチーフにしたものが多く寄せられた。編集しながら撮るといふことが課題ではなかったので、数多くの凝った映像もあったが、私が注目したのは、「八雲立つ出八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を」(須佐之男命)をモチーフにした佐藤健人の作品だった。アパートの表札を付けてゐるかわいい子供と妻を撮ったホームムービーなのだが、そこに『万葉律』のこれからの広がりを感じられた。
例えば、子供の運動会の徒競走を撮ったお父さんが、31秒の子供の映像組み立ての後に「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも」と手書きのノートの文字を流すだけで、それが記録や記念ではなく短編映画になるのだ。そこには言語共同体としての日本が広がってゐる。携帯電話でも『万葉律』はできる。映像と絵文字が一体になった万葉メールは如何!まだ仮名文字が誕生する前、漢字の音とイメージによって書かれ、歌われた『万葉集』は日本における映画の始まりだったのだ。フィルムが消滅しても『万葉律』があると思ふと、救はれた気分になれる。
【執筆者プロフィール】 原將人(はら・まさと) 本名、原正孝。50年生、東京都出身。映画監督。代表作に『初国之知所之天皇』(73)、『百代の過客』(93)、『20世紀ノスタルジア』(97)など。劇映画第2弾『あなたにゐてほしい Soar』を公開準備中。
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