『あすなろ参上』より©マッドマガジンレコード・徳間ジャパンコミュニケーションズ
『あすなろ参上!』(2013)は、映画監督・真利子哲也の最新作である。と同時に、愛媛・松山を舞台とするこのアイドル青春ドラマは、ジャンルの別なく、たとえば現在の日本映画、とりわけドキュメンタリーも含めたインディペンデント映画シーンで起こりつつあるさまざまな動向を考えるときにも、じつに示唆的なポイントを数多く持っていると言えるだろう。
最初に、本作のあらましをざっと確認しておきたい。『あすなろ参上!』は、2013年夏にメジャーデビューを果たしたばかりの、愛媛県で活動する人気女性ローカルアイドルグループ<ひめキュンフルーツ缶>のメンバーを起用した全6話からなるアイドルドラマ(真利子自身の言葉では「アンソロジードラマ」)である。
彼女たちが扮する架空のローカルアイドルグループ<アスナロA>は、プロデュースを手掛ける芳賀(山田裕二)とともに、地元・松山を拠点に全国デビューを目指し、精力的にライブやPR活動を続けている。そこへ、東京からやってきた大手レコード会社のプロデューサー・黒岩(山本剛史)が芳賀の前に現れる。いまや「アイドル戦国時代」と言われ、無数のアイドルが全国各地でしのぎを削る昨今、黒岩は芳賀に、これもここ最近お茶の間に話題を振りまいている「ゆるキャラ」とアイドルをコラボレーションさせた新しいユニット<ゆるキュン>の結成を持ちかける。黒岩の誘いに乗った芳賀。一方、練習中に遊んでいたところを芳賀に見つかってしまったアスナロAは、芳賀の怒りを買い、新曲のダンスの振りつけを明日までに覚えてこられない場合は即解散だと無理難題を告げられる。絶望する彼女たち。また、その裏では、じつは、芳賀と黒岩は、アスナロAの妹分の研修生の少女たち(彼女たちもひめキュンフルーツ缶の実際の妹分<nanoCUNE>が演じている)にゆるキャラの着ぐるみを着せた<ゆるキュン>を、アスナロAに代わって新ユニットとして売り出そうと目論んでいた。翌日、アスナロAは芳賀の前で振り付けを披露するが、メンバーの一人、ユア(菊原結里亜)が足を痛めてしまう。やり直しを頼みこむメンバーに対し、冷たく解散を言い放つ芳賀。アスナロAは、再びステージに立てるのだろうか……。
*
【*】ここで、本作をめぐるジャンル区分や表記に関して附記しておく。
本作を、わたしは2月に東京都写真美術館で開催された第6回恵比寿映像祭でスクリーン上映された際に鑑賞した。また、脚本・監督を務めた真利子哲也監督は、これまで多くの場合、インディペンデント映画の文脈で評価されてきたと思われる。それらのことも踏まえ、初稿の段階では、本作を「映画」作品として論じていた。しかし、脱稿後に、真利子監督および宣伝スタッフのかたより、以下のようなご指摘をいただいた。
――本作はもともと、CD特典など、ひめキュンフルーツ缶のPRコンテンツとして依頼された作品であり、したがって、多様な媒体で鑑賞されることを企図している(事実、スマートフォン向けテレビ「NOTTV」でも放映されている)。また、真利子監督自身は本作を「アンソロジードラマ」という独自の区分で捉えており、なおかつ、従来の「映画」というジャンル区分や定義のあり方にも疑問を抱いているとのことで、制作側のそうした企図を考慮してほしい、とのことだった。
以上の真利子監督の問題意識や本作の制作経緯は、ここでの本稿の論旨にも直接に関わってくる問題であり(その意味で、真利子監督とわたしは問題意識を共有していると考えている)、また、この小稿の中で充分に答えを出せるような問いでもないが、ここでは制作宣伝スタッフのかたがたの意向を尊重したい。わたしは映画批評・研究が専門なため、映画以外のアイドル出演作品については充分に語る力量がなく、個々の局面で依然「映画」と比較して語らざるをえないが、論脈をできる限り修正し、また、この本文中で経緯を記しておいた。ご理解をいただきたい。
『あすなろ参上』より©マッドマガジンレコード・徳間ジャパンコミュニケーションズ
1 真利子作品としての『あすなろ参上!』
真利子が実在のアイドルを起用するのは、近年、<AKB48>に続いて大ブレイクを果たした<ももいろクローバーZ>(出演時は<ももいろクローバー>名)が出演した中編映画『NINIFUNI』(2011)以来である。『NINIFUNI』が、物語や演出面で、比較的真利子特有の不穏な切迫感に満ちみちていた異色作だったとすれば、今回の新作は、後述するように、ところどころ真利子らしい演出も顔を覗かせるものの、どちらかというと、ここ最近のウェルメイドなアイドル映画やアイドルドラマのフォーマットにも近いポップな仕上がりになっている。ひめキュンフルーツ缶のメンバーの自然な演技もいいし、何よりプロデューサー・芳賀役の山田裕二の強烈な佇まいが印象に残る。また、玉井英棋や山本剛史ら真利子作品ではお馴染みの個性派俳優の登板もファンには楽しめるだろう。
とはいえ、実質的なデビュー作と言ってよい短編『ほぞ』(2001)から断続的に作品をフォローし、また、これまで何度かにわたって作品を論じてもきた観客の側からすると、やはり本作もまた、いかにもこの映画作家らしい演出やモティーフに溢れた作品だと言える[1]。
たとえば、それは以下の3点が挙げられる。(1)まず主演を務めた実在のアイドルグループ<ひめキュンフルーツ缶>の存在。そして、(2)全編の主要なモティーフとなっている「アイドル」と「ゆるキャラ」のコラボレーション(カップリング)という構成、さらに、(3)作中に度々登場するライブシーンに象徴されるアグレッシブな身体パフォーマンスの強調だ。
自身を主題にした『ほぞ』や『極東のマンション』(2003)、『マリコ三十騎』(2004)など初期の短編を中心に、真利子の作品群はその多くが、ときに「セルフ・ドキュメンタリー」や「フェイク・ドキュメンタリー」のジャンルにも区分できるほど、現実と虚構の題材を巧みに掛けあわせ、虚実皮膜のあわいをたぐっていくような特異な演出を凝らされている。
それは、作中登場人物の描くマンガ(虚構)の描写が、(物語内の)現実世界の人物に侵入=影響していくという長編『イエローキッド』(2009)はもちろん、同じく人気アイドルグループを起用した『NINIFUNI』といった近作でも変わらない。ひめキュンフルーツ缶がほぼ本人たちに重なる架空のアイドルグループを等身大で演じ、彼女たちが実際に活動拠点にする「松山キティホール」などのファンたちの「聖地」も多数登場する今回の『あすなろ参上!』もまた、そうした真利子の作品世界特有の手触りをはっきりと感じさせるものだ。
また、こうした傾向を、あえてより広いここ数年の文化批評的な文脈に位置づけるとすれば、いわゆる「拡張現実的」な感性をも体現していると言えるかもしれない。拡張現実とは、AKB評論でも知られる宇野常寛らが用いる概念で、わたしたちが感じるリアリティが多層的で複雑になることによって、「いま・ここ」の現実がいくつもの潜在的なレイヤーに多重化するかのように捉えられる感覚のことを指す言葉だ。テレビアニメやアイドル文化の領域で近年ブームになっている「聖地巡礼」という行為などがそれに該当すると言われている。
思えば、「いま・ここ」の現実が一挙に遠い過去の先祖の水軍(海賊)の記憶に不意に結びつけられる『マリコ三十騎』をはじめ、真利子の作品は「拡張現実」を思わせる趣向がしばしば見られるが、『あすなろ参上!』にしても、「ひめキュンフルーツ缶をはじめ、実在する人物、場所をモチーフに、少しだけフィクションにシフトさせる」(「企画の成り立ち」プレス資料参照)と真利子自身が語るように、愛媛の実在のゆるキャラ、「タルト人」が(設定通り)謎の宇宙人のような不思議な能力を発揮して、ライブに遅刻したアスナロAを助けるシーンなど、まさに似たような演出が凝らされているように思える。
そして、真利子作品には、作家本人も「関係ない事柄を並行して物語っていく構造は一緒」(『映画はどこにある』、フィルムアート社所収のインタビュー参照)だと認めるように、まったく異なる要素が統合されないまま並置されるという手法がしばしば採られる。
たとえば、『イエローキッド』ならば、それは「アメコミ」と「ボクシング」、『NINIFUNI』ならば、「犯罪者」と「アイドル」といった具合なのだが、いうまでもなく、本作もまた、それはやはり「アイドル」と「ご当地ゆるキャラ」という形で物語のレヴェルでも明確に反復されていたというべきだろう。
あるいは、これも『ほぞ』から続く、ときに痛ましさすら覚えるほどの観客の情動的反応を強く喚起させる身体パフォーマンスの挿入という要素も見逃せない。真利子作品では、真利子自身も含め、登場する人々がときに裸体になって、走り、跳び、騒ぎ、殴られる。
『イエローキッド』ではそれはまさにボクサーという存在となって表現された。また、『NINIFUNI』と『あすなろ参上!』では、ほかならぬアイドルグループによる激しいライブパフォーマンスとして登場する。ももいろクローバーがアイドルにしては激しいパフォーマンスをすることで有名だが、本作のひめキュンフルーツ缶も、メロディアスなハードロック調の楽曲やライブパフォーマンスが特徴的なアイドルとして知られており、作中でも冒頭やクライマックスの熱気あるライブシークエンスをはじめ、いたるところでアグレッシブなパフォーマンスが展開される。また、彼女たちを追う青木穣のカメラも、その情動をダイレクトに伝えるかのような、グイグイと迫真に満ちたものだ。
以上のように、『あすなろ参上!』は、これまでの真利子作品の系譜のうえにも明確に位置づけられる主題や構造をそなえていると言える。より細部について言えば、作中で奥村真友里演じるマユミが、愛媛のゆるキャラ、しまぼうと一緒に、真夏の梅津寺の砂浜で延々と不条理なまでに写真撮影を繰り返すシークエンスなどは、いかにも真利子らしい演出だと思った。
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2 「アイドルドラマ」としての『あすなろ参上!』
さて、今度は真利子自身のキャリアを離れて、本作を現在の映画をはじめとする日本の映像文化、あるいはポップカルチャー全体のなかに改めて位置づけてもう少し考えてみたい。
そこで、まず注目しておくべきなのは、やはり本作もまた中心的なモティーフとして扱っている、昨今の日本のユースカルチャーを席巻する「アイドル」をめぐる表象の持つ意味だろう。
すでによく知られているように、ゼロ年代末のAKB48の国民的大ブレイクあたりに端を発し、2010年代の日本のポップカルチャーは空前のアイドルブームを迎えている。それは映像文化の分野でも変わりない。というより、そこでこそ、もっとも華やかな盛りあがりが生まれているとも言えるのだ。
たとえば、『Documentary of AKB48』シリーズ(2011~)や、先ごろ解散を発表したBiS主演の『アイドル・イズ・デッド』(2012)など、メジャーからインディペンデントまでアイドル関係の無数の映画が作られているし、『あまちゃん』(2013)などアイドルをテーマにしたテレビドラマの国民的ヒットも生まれた。作品のみならず、興行面でもいわゆる「ODS」と呼ばれるシネコンの「イベント小屋化」によりPerfumeなどアイドルグループのライブ公演のリアルタイム中継などに映画館が使われるケースも増加している。
あるいは、その傾向は、映画やテレビ以外の先端的な映像環境においても顕著に見られるだろう。YouTubeやニコニコ動画といった動画サイト上では、ここ数年、ジャスティン・ビーバーからきゃりーぱみゅぱみゅまで、または初音ミク(MMD)から「アイマス」(アイドル育成ソフト「THE IDOLM@STER」)まで、「アイドル(的存在)」が登場する動画群が大量に生み出され、若い世代を中心に、国内外の多くのユーザの支持を獲得するようになっている。いまの映画・映像文化を語るときに、もはや「アイドル」という要素は欠かせなくなっているのだ。
また、ここにはいうまでもなく「音楽」の分野の構造的変化も大きく関わっている。昨今の音楽業界では、ダウンロード配信形態の定着によるレコード売上の不振とも相俟って、質の高い楽曲だけで勝負するかつての販売戦略が機能しなくなっていると言われる(この問題意識は、『あすなろ参上!』のなかでも反映されている)。
つまり、アイドルにせよ、初音ミク系のボカロにせよ、今日のポップミュージックはもはや、楽曲に付随する何らかの外部的な要素(魅力的な「ヴィジュアル」や共感や感動を呼ぶ「物語」)をますます求めるようになっているのだ。こうした過剰流動化する文化的背景のなかで、まさに映画業界もいま、「音楽」との連携をますます深めている。インディペンデント映画界の近年の話題である「爆音映画祭」や「MOOSIC LAB」などのイベントはその潮流の一端にすぎない。また、動画サイトにアイドルらしからぬ過激な映像をアップしたBiSや、楽屋裏を含めた素の姿をUstreamで生配信する<東京女子流>など、炎上マーケティングも含め種々の映像環境を積極的に活用する新世代アイドルも目立つようになっている。映画にしろテレビドラマにしろ、いわゆる「アイドルもの」の隆盛も、本来はこうした文脈から捉えられるべきだろう。
いずれにせよ、こうした社会的なブームという理由以上に、今日の映像メディアは、なぜこんなにもアイドルを求めるのだろうか?
わたしはもちろん、アイドルやアイドル映画の専門家でも、またインディペンデント映画の現状に(さほど)精通しているわけでもないが、その有力な理由を考えるならば、やはり今日の映画や映像をめぐる製作や公開の条件や環境の大きな変化が挙げられると思われる。
21世紀の映像をはじめとしたメディア環境の変化において、やはり広範にわたるディジタル化やネットワーク化の趨勢は無視できない。たとえば、映画でいえば、それまであったフィルムという物質的支持体がなくなり、代わってパソコンやスマートフォン、タブレットといった新たな端末が普及することによって、あらゆる映画作品(コンテンツ)は、映画館やテレビのブラウン管を離れ、日常のあらゆる場所で観ることが可能になり、また、その映像は断片化され拡散し、数々の動画サイトを通じて、音楽や演劇、活字といった無数のジャンルや作品群とハイブリッドに混淆しうるもの――わたしなりの言葉で言えば「映像圏的」な環境――にもなっている。
一言で言えば、わたしたちの映画や映像をめぐる環境や成立条件は、いま、かつてなく複雑になり、多層的なものとなっているのだ。つまり、わたしたちの目の前に広がる映像の海には、「外部」(輪郭)がない。
実際、それは映画の作り方そのものにも関わってきている。たとえば、先日、映画関係のイベントでとある映画評論家が、「最近の日本映画には「構成への意志」が希薄だ」と述べていた。ここで彼がいう「構成への意志」とは、ジャンル/作品/映像編集……などといった諸々の次元で、ひとつの映画作品を堅固でバランスあるまとまりのうちに組み立てていく力のことを指していると理解できるだろう。その意味での「構成への意志」が日本に限らず、いまの映画で相対的に弱体化してきているというその映画評論家の危惧は、実感としてわからないでもない。率直に言って、真利子をはじめ、彼と同世代の若手の監督の作品にもそうした印象を持つことがある。したがって、それは問題意識として依然重要なものでもあるだろう。
ただ、これはやはり個々の作家の力量や感性の変化の問題であると同時に、おそらくかなりの部分がいま書いたような社会的趨勢の産物でもあると思われる。あらゆる情報やデータが不可避的に「ダダ漏れ化」し、ソーシャルにシェアされつつある現在、映画だけに、何ともつながらない「構築への意志」をこの先期待したとしても、それは時代錯誤にしかならないにも厳然たる事実のはずだ。
何にせよ、いま、映画や映像の分野で「アイドル」の表象が求められているのは、おそらくこうした現状の変化とも深い部分で密接に関わっている。つまり、過剰流動化し断片化する「ポストiPad時代」においては、はっきりした外縁を決める輪郭(「構築への意志」)から遠ざかりつつある映像は、むしろその内側で観客の視線や物語の連なり、イメージへの感情移入などを効率よく動かし、一点に集約させ、まとめあげる強度ある結節点の機能こそが重要になりつつある。そうした働きを持つ新しいメディア(媒介物)として、いま、AKBにせよ、初音ミクにせよ、天海春香にせよ、そしてひめキュンフルーツ缶にせよ、魅力あるアイドルとその身体イメージが競り上がっていると考えると面白いだろう[2]。わたしの見る限り、これは情報化と消費社会化――総じて「グローバル化」が加速した映像文化に起こる必然的な表現上の変化である。
事実、多くのアイドル映画やアイドルドラマと同様、『あすなろ参上!』もまた、何度も繰り返すように、作中を通じていたるところでひめキュンフルーツ缶のライブ場面が登場する。それは、もちろん真利子の映像作品の一場面であると同時に、とりわけ本作を観る彼女たちのファンにとっては、日常的にYouTubeなどの動画サイトで、iPhoneやiPadを通じて観ている無数のライブ映像やPV映像と地続きで繋がっているものでもあるだろう。そこでは、真利子の映画もまた、不可避的にアイドル=ひめキュンフルーツ缶という映像の「生態系」のなかに溶かしこまれている。また、繰り返すように、そもそも監督自ら「ドラマ」と銘打ち、スマートフォン向けテレビでの視聴を前提としていながらも、大画面でのスクリーン上映もする『あすなろ参上!』という作品それ自体が、こうした文化環境の産物なのだと言える。『あすなろ参上!』は、以上のような現在の映像的リアリティを積極的に引き受けている点で、紛れもなく「同時代的」なコンテンツなのだ。
『あすなろ参上』より©マッドマガジンレコード・徳間ジャパンコミュニケーションズ
3 「ローカルドラマ」としての『あすなろ参上!』
とはいえ、『あすなろ参上!』の面白さはこれだけではない。これもまたすでに強調しているように、アイドルドラマとしての本作の妙味は、それが同時に「ローカル」(ご当地)ドラマにもなっている点にあるだろう。ひめキュンフルーツ缶は、愛媛発のローカルアイドルグループだが、ここ数年、東京など主要都市部以外にも観光誘致などのプロジェクトと一体化したローカルアイドル(地方アイドル)グループが無数にデビューし、なかにはメジャーも脅かすほどの話題性を獲得している(何より、東京・大阪以外にも名古屋、博多、上海などに関連グループを持つ48グループがその典型でもある)。
こうしたローカルアイドルグループの台頭と人気ぶりもまた、明らかに21世紀の社会変化のポップカルチャー消費における反映でもあるだろう。前節で見たように、今日の社会のグローバル化がもたらす過剰流動化や文化の平準化といった事態がアイドルやアイドルものの映像コンテンツの隆盛を支えている要因であるのは間違いないが、それは同時に、それまでの中央(都市部)中心のライフスタイルや文化価値に対する人々の見直しを迫っている。それは、グローバル化(郊外化)と一体になった新しい形の「地域主義」や「中間共同体主義」を私たちにもたらしている。あるいは、「地方」という固有の場所性は前節での文脈も踏まえれば、新たな「物語」の付与機能ももたらすだろう。
たとえば、それはグローバル化の波を如実に蒙っているインディペンデント映画やテレビドラマの世界でも変わらない。山梨の郊外化を主題にした作品で一躍脚光を浴びた「空族」の一連の映画や、岡山でトマト農家を営みつつ、『ひかりのおと』(11年)などの映画製作を続ける山崎樹一郎など、近年の注目すべき作家の動向が、それを伝えている。さらにドラマで言えば、岩手を舞台にした『あまちゃん』のブレイクを思い起こしてもよいだろう。そして、いうまでもなく近年の沸騰するアイドル文化の「ローカリズム」は、こうした映像業界の「ご当地もの」のトレンドと通底するものだ。
しかも、とりわけアイドルなどのパフォーマンスによるエンターテイメントは、「会いに行けるアイドル」(会いドル)としてのAKB48の商業的な成功が証明するように、「いま・ここ」のライブ感覚(経験価値)を打ち出すのに長けている。その意味で、ローカルアイドル(地方アイドル)とは、ゼロ年代以降の地方ロックフェス文化などとともに、ユビキタスネットワークが氾濫する現代社会において、ツーリズムへの注目などとも連動しながら、「この地方に行かないと実際に体験できない」というファンの新たな欲望を積極的に掻きたてているわけだ。
いまのアイドル映画がいわば一種のユビキタス環境に最適化したグローバル社会特有のコンテンツなのだとすれば、『あすなろ参上!』とは、そこにネガのように浮かび上がる「ローカリズム」の消費をも二重写しのように作品化した映画だと言えるだろう。本作のひめキュンフルーツ缶を観ることは、氾濫する映像のネットワークのなかに偏在し、そのなかを自在に周遊するアイドルという特異なイメージの結節点に出会うことであるのと同時に、愛媛・松山という特定のローカルに紐づけられた固有の経験へと煽動させられることでもある。
とはいえ、こうした文化におけるローカリズムの台頭は、それゆえに逆に言えば、その様式は決して一枚岩なものではなく、どこまでも多様なものでありうるということでもある。たとえば、『あすなろ参上!』では、松山という「地方」、あるいはひめキュンフルーツ缶というローカルアイドルの存在は、中央(都市部)と完全に棲み分けられた別々のテリトリー(周縁)ではなく、いつか乗り越え、中央を制覇すべき対抗的関係性として描かれている。
事実、それは、ひめキュンフルーツ缶の実際の企画コンセプトとも重なるものである。ひめキュンフルーツ缶は、数あるローカルアイドルグループのなかでも、楽曲やダンス、衣装、歌唱のクオリティへの評価がきわめて高く、首都圏での人気も高い一方、相対的に「ローカル感」の薄いグループだと言われる。実際、作中でもメンバーが方言を話すわけでもなく、彼女たちの楽曲も「地方色」を全面に押し出しているわけでもない[3]。作中でも、冒頭、小高い山のうえからロングショットで松山市内を俯瞰気味にパンしながら被せられる玉井英期の紹介ナレーションをはじめ(この冒頭のナレーションはどこか司馬遼太郎の語り口を思わせる)、芳賀と黒岩の関係性が「中心と周縁」の対立を表現し、クライマックスでマユミは、「みんなで東京に行きたい!」という切実な思いを吐露する。
以上のように、『あすなろ参上!』は、ひめキュンフルーツ缶の実際の活動を反映し、「地方が中央に挑む」という構図を採用した物語になったが、これには、それぞれの地方やローカルアイドルのスタンスによって多様な方向性がありうるだろう。その意味では、「ローカルアイドルドラマ」は、アメリカの政治哲学者ロバート・ノージックの言葉を借りて言えば、映像コンテンツのなかの一種の「メタユートピア」とみなせるのかもしれない。『あすなろ参上!』は、今後もメジャーやインディペンデントを問わず継続的に製作されていくだろうそうした「ローカルアイドルドラマ」のひとつの明確なロールモデルを提示したということもできる。ここから、今日の「グローカリゼーション」を体現する「ローカルアイドルドラマ」の多様性が生まれていくことを期待したい。
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4 アイドル/ドラマブームをこえて
以上のように、『あすなろ参上!』からはいまのアイドルと映画を含む映像コンテンツを考えるにあたってさまざまな論点を引き出すことができる。
とはいえ、ここでは最後にもう一歩踏み込んで短く指摘しておかなければならない。
現在のアイドル戦国時代、そしてアイドル映画やアイドルドラマの活況はおそらくはまだしばらくは続くだろう。
だがその一方で、AKBをはじめとするアイドル文化の隆盛がピークを迎え、一時期の熱狂が遠ざかっていると言われていることも確かだ。アイドルも、アイドルドラマもまた、次なるステージに移行しつつある。
事実、そうした実感は、『あすなろ参上!』の作中にも少なからず反映されているように見える。そもそも黒岩が芳賀に、アイドルとゆるキャラのコラボ企画を持ちかけるのも、現在のアイドル業界がすでに飽和状態に達しており、頭打ちになっている現状を強調するためなのだ。つまり、『あすなろ参上!』は、ある意味で現在のアイドル文化(ブーム)の「黄昏どき」を自覚的に捉え返してもいる作品なのかもしれない。
にもかかわらず、アスナロAは、最後で劇的な「復活」を遂げる。ここには、時代の潮目を冷静に睨みながら、つねに目の前の状況と果敢に切り結び、さらに新たな変貌を試みようとする「アイドル」と「ドラマ」――さらに踏みこめば、真利子が主な活動のフィールドにしてきたここ数年盛り上がっている「インディペンデント映画」双方の姿が重ねられているようにも思える。そして、魅力のあるステージや作品が続く限り、アイドルも映画もまた、いつまでも観客から求められ続けるだろう。
真利子哲也とひめキュンフルーツ缶の『あすなろ参上!』は、今回、みごとにその指針を示してみせた。
[1] 『イエローキッド』(2009)についての拙稿は、ネット上でも読むことができる。渡邉大輔「『イエローキッド』の言語ゲーム――現代映画の言語ゲーム」、Wasebun on Web、早稲田文学会、2009年。http://www.bungaku.net/wasebun/read/pdf/watanabe_daisuke.pdf
[2] この点については、以前にも何度か簡単に記したことがある。たとえば、渡邉大輔「映画の未来とアイドル的身体」、『WB』第27号、早稲田文学会、2013年、23頁。
[3] ひめキュンフルーツ缶をはじめ、ローカルアイドルの動向については、以下の論考が大いに参考になった。斧屋「地方アイドル論」、『アイドル領域』第4号、ムスメラウンジ、2012年、56~76頁。
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【作品情報】
『あすなろ参上!』
(2013 /日本/HD/全 6 話/82 分)
監督・脚本:真利子哲也 エグゼクティブ・プロデューサー: 伊賀千晃・白石博一
音楽:井上卓也・山下智輝
制作プロダクション:ドリームキッド
製作:マッドマガジンレコード、徳間ジャパンコミュニケーションズ
キャスト:(ひめキュンフルーツ缶)奥村真友里 岡本真依 河野穂乃花 谷尾桜子 菊原結里亜
山田裕二(UZ YARMAN) 玉井英棋 山本剛史
nanoCUNE:大原歩 門田茉優 西岡亜弥美 木下こころ
タルト人 しまぼう バリイさん
※シネマート新宿にて 3 月 15 日(土)に<ゆるキュン生誕祭>開催!!!
真利子哲也監督の最新作『あすなろ参上!』のライブ付き上映会を開催!
昨年 12 月にスマホ向け放送局「NOTTV」で放映されたのを皮切りに、 ちば映画祭、恵比寿映像祭など各所にて上映されてきた話題の作品です。今回はスペシャルバージョンとして、上映後にミニライブを開催。
劇中のオリジナルゆるキャラ<ゆるキュン>がパフォーマンスを繰り広げるほか、ひめキュンフルーツ缶の参加も決定!
【日時】2014 年 3 月 15 日(土) 19:00~
【場所】 シネマート新宿
東京都新宿区新宿 3-13-3 新宿文化ビル
【プログラム】『あすなろ参上』上映
ミニライブ(ゆるキュン+ひめキュンフルーツ缶 and more!!!)
【チケット】 先行発売指定チケット:2,000 円
「アスナロ A」Tシャツ付きチケット:4,500 円
http://himekyun.jp/pc/index.html
【執筆者プロフィール】
渡邉大輔 わたなべ・だいすけ
1982年栃木県生まれ。映画史研究・批評。日本大学芸術学部、跡見女子大学ほか非常勤講師、早大演博招聘研究員。『週刊金曜日』書評委員。著作に『イメージの進行形―ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院、2012)。共著多数。