暴力と不条理――制作現場からの強烈な告発
実経験を飾らない言葉で編み上げた、テレビ番組制作現場からの告発書である。制作論はこれまでに多く書かれているが、外注化が進む現代のテレビの労働現場の実情を書いた本は初めてではないか。皮肉にもテレビの現場そのものが、ドキュメンタルに取り上げられるべき対象と化している実態——-センセーショナルなタイトルの「残酷」という言葉の、どうしようもない重さをかみしめることとなった。
著者の葉山氏は大学卒業後、「幼い頃からテレビ番組が好きで、いつか制作する側に立ちたいと思っていたから」と、テレビ番組の制作会社に入りADとして働いた。その会社は業界内では比較的恵まれた方、とされていたが、それは社会保険に入っていたり交通費が出ることを指し、他社ではそういった制度すらないところも多かったのである。そして悪夢のような日々が始まった。
2ヶ月間に1日の休みもない現場、クリエイティブとは無縁の使い走り、蔓延するセクハラ、さまざまな待遇格差とそれがもたらしたパワハラ、集団リンチ等の暴力と見て見ぬ振りをするスタッフ達。「14時半から翌21時まで、なんと30時間もぶっ通しで編集作業が行われた」という非人間的な環境と非効率さ…その現実は苛酷であり、噂やフィクションの中で描かれているものとは比べ物にならない。局舎の会議室の予約調整の為に、携帯電話を使って貴重な休日まで奔走する姿など、ゴーゴリの小説の登場人物のようなレベルに感じられる。業界で働いた経験を持つ人にとって、なんだ、こんなことは当たり前じゃないか、と思うかもしれない。そうした壁に囲まれた世界の慣習を幅広く世に伝えることは、ノンフィクションな重要な役割である。
本書を読んで想起したのは、芸術やジャーナリズムの労働現場ではしばしば見られる、過酷な労働環境を精神論で乗り切ろうとする傾向のことだ。労働組合が組織化された新聞社やテレビ局であってもこの傾向は同じで、長時間労働は放置され勝ちである。「制作現場には根性論がまかり通っていて、効率は度外視する。肉体を限界まで酷使することがADの美学とでもいおうか。あえてボロボロの状態で収録に臨んでいるような気さえしてきた。そうでなければ、適度に休憩を挟まないことに対する説明がつかないのだ」。深夜3時を過ぎてから先に帰ったADを呼び出し「先に帰るなんて随分えらくなったな!私たちだって昔そうやってきたんだから、おめーもやれ」と叱るディレクター。「テレビなんだから休みがないのは当たり前」という暗黙の了解のもとに、経済情勢や業界を取り巻く環境は決して顧みられていない。仕事自体の特性からすればカレンダー通りの休みや定時退社は難しいにせよ、あまりにも異常である。そこへ、不況によるコスト削減、昨今のテレビ離れの傾向が追い打ちをかけている。
現場は疲弊を続けている。外注化が進んだ結果、テレビ局には制作のスキルが失われつつあり制作会社に多くを頼らざるを得ないのが実情のようだが、この労働環境を知ると、かつての優れたテレビディレクター達、例えば牛山純一氏や田原総一朗氏を育て上げたような土壌はもはや存在しないと思える。もはや、制作論で語られる創造性や主体性の確立以前の問題なのだ。バラエティからクイズ、ドラマまで、昨今頻出する軽薄や低俗と評されている表現を、仕事に追われている現場スタッフが「せざるを得ない」理由も分かってくる。
映像に関する教育を行う大学、専門学校、さらにワークショップ等は増え続けており、人材育成の基盤はかなり整備されてきた。しかし、どのような教育をほどこされても、業界に入ってから、このような理不尽な暴力、過酷な労働の中では全てのパーソナリティーがリセットされてしまう。この観点からの問題提起がなかったのは不思議だ。
葉山氏は1年間勤めた後、「もうこんな異常な世界に心残りは何もない」と退職する。それでも、周辺のAD達へのヒアリングでは、意外にも「『労働環境が改善されるのであれば、もう一度やりたい』と答えた人が、『もう二度と働きたくない』と答えた人より多かったのだ」という。彼らは本当にテレビが好きだったのだ。テレビのありようを大文字で論じるのではなく、あくまで「現状を放置したままではならない」という正義感に裏打ちされたこの書は強烈で、あらゆる制作論を吹き飛ばしてしまうような強さを持っている。この現実を直視しない限り、テレビの将来を論じることは不可能だろう。
―
【書誌情報】
『AD(アシスタントディレクター)残酷物語―テレビ業界で見た悪夢』葉山 宏孝著
彩図社 2010年 定価1200円+税
―
【執筆者プロフィール】
細見葉介 ほそみ・ようすけ
1983年北海道生まれ。学生時代よりインディーズ映画製作の傍ら、映画批評などを執筆。連載に『写真の印象と新しい世代』(「neoneo」、2004年)。共著に『希望』(旬報社、2011年)。