【Review】私達は映画を恐れている――三浦哲哉著『映画とは何か フランス映画思想史』 text 奥平詩野

様々なメディアの出現過程を知らない、いわゆるデジタルネイティブと呼ばれる世代に当たる私達は、コンピューターや携帯電話などのメディアの発展について毎回新鮮さを感じて驚きながらもそれを疑わず、当たり前の、一種の世界の決まり事のように享受してきた。実際はそれらの発展そのものにもいい加減飽き飽きしているのだが、誰の必要に応じてか、やはりそれらは今尚発展し続けているし、多かれ少なかれそのような中で成長してきた私達は、そういったものの発展や価値や問題に対して無批判的で寛容な態度を持っている。

そんな私達にとって映画のそもそもの存在の仕方も似たようなものである。かつて人々に衝撃を与えていたらしい映画という装置は、私達が知った時にはもう既に旧いものとして、インターネット媒体と同じように、常に発展を待つか衰退するかのどちらかしかないようなものとして存在していたし、私達の姿勢はそういう事に関して常にお任せモードとも言えそうなある種の無頓着さを持っているので、告白してしまうと、映画が何だったのか、映画が何になるのか、映画とは何なのかという事は、私達の関心の対象では無いのである。基本的に私達は、時々映画館に行くことはあっても、ビデオやテレビで大して映画とその他の映像プログラムの境界も曖昧なままに映画を観始めた子供達なのであり、何らかの仕方で私たちが自分に与えられた衝撃だけを頼りに「映画とは何か」を探るという機会は多くの場合私達からは奪われていて、あまりに当たり前に存在する映画の装置に「大体二時間前後くらいで終わる動画」という意味しか見出さないというのが私達が映画に初めて触れる以前から今も尚ある認識だろう。

とは言っても、私達の中には好んで映画を観るような層がそれなりの数で存在するが、私達がメディアとしての映画に対しては特に面白みを感じていないとしたら、一体映画の何がそんなに私達を惹きつけるのだろうか。それに対して恐らくはそれぞれの人が映画という装置自体には飽き切った境地で創った個人的な解答を持ち合わせているだろうし、実際のところ、私達は学問的に映画を考えるよりも個人的な映画の価値を見出す事を好んでいて、私たち若い世代にとって「映画とは何か」を思考する事とは、大体の場合、「私個人にとって映画とは何か」を思考する事である。

本書で述べられるように、映画の媒体の変化が、群集から家庭へ、そして更に個人へ移行してきたのならば(p205)、映画の観賞体験のその個人的な救いや感動を公のものとして、世界に関わる衝撃として捉えてもいいのかどうかに躊躇う自閉的な観賞態勢を私達の多くが持つのも無理は無いかも知れない。私達にとってあまりに個人的過ぎる映画体験とそこから得られるあまりに個人的すぎる感動は、確かで強烈なものでありながらも、常にどこか浮遊していて信用しきれない危うさを同時に備えているのである。

三浦哲哉著『映画とは何か フランス映画思想史』は、映画の歴史や装置への無頓着さについての劣等感や罪悪感のようなものを多少感じつつも、それでも映画に膨大な観賞時間を割き、その感動が本物であり、たまに訪れる救いの感覚が本物であると信じたい現代の映画愛好家にとって、まさに、既に私達から奪われたと思われていた「映画とは何か」という問いを公共物としての映画の中で思考する機会の再来であり、「私個人にとっての映画とは何か」ということに固執しがちな若い観客達に重大な反省の視点を与える事になる。

そんな訳で、私が本書を読み進める過程は、刺激に満ちた内容の理解と同時に、常に自らの観賞態度の反省を伴うものであった。本書を通して私達は映画それ自体の体験や衝撃に、著者が導入する映画の「自動性」という概念に、引き入れられることになり、その事は私達が私達の映画体験をより世界との関わりのもとに信じられるようになるであろうための反省を促し続けている。

本書は映画の「自動性」という概念に沿って、ジャン・パンルヴェ、アンドレ・バザン、ロベール・ブレッソン、ジル・ドゥルーズについてそれぞれ一章ずつを割り当て、一貫して「映画のイメージのある直接的な力を肯定しようと」(p12)試みている。パンルヴェの科学映画において素朴すぎるが故に究極的な「自動運動」の感動を発見する私達は、続くバザンのリアリズムを再考する章において、映画と人々の「魂」と「現実」とが「相互浸透」し合う、現実世界と映画の絆を意識し直す事になる。私達の反省は緊張を呼び起こしながら、続くブレッソンの宗教性において、「信仰」と映画の結びつきを発見し、ドゥルーズの章において、「人間と世界の絆」についての意識を私達の観賞態度のぼんやりした無責任さにもたらす事になる。そのような内容の流れの上で、私に実際に起こった反省は以下のようなものである。

先ず、パンルヴェの章の、「虚心に見てみよう」(p39)という表現に、私達がいかに「虚心に」見ることを知らないかを自覚させられ、その事が映画と現実との繋がりを弱めていた事に気付かずにはいられない。例えば早回しで生長する動的な植物を見ても私達が純粋にショックを受けるとは思えないし、もはや私達は映画が見せるありとあらゆる視覚の現実的ではない様の驚きをあまりにも無感動的に見ているのであり、「虚心に」という言葉は私達にとってむしろ「よく考え直すと」に翻訳されるのである。

更にその反省は、実際に映画の上に私達が見ようとしているものを意識させる事になり、それは恐らく、自動的ではない運動、演出の意図や心情の操作、運動の目的といったものであり、「自動運動」の衝撃無くして、あるものを映画であると教え込まれた私達が、誰かの意思の管轄内の運動に価値を見出す術ばかり心得ていた事に気付くのである。そうして、映画を誰かの意思や思惑に準えてしか思考しない私達の観賞態度が浮き彫りになり、それはバザンの章において、映画を、日常的な心理活動からは距離を保つものであるとして映画の中に囲い込んでしまいがちな私達の態度として現れ、そういった状態で「映画とは何か」を考えようと思う際にのしかかって来る「映画を信じる」という事がそもそも私達にとって恐怖であり困難であると自覚せざるを得ない。

自らの解釈や演出の意図といったものを一度棚上げしてイメージをそのまま捉えるという作業は、それをしていなかった者にとっては、初めて映画の前に立たされるようなものである。そのように、映画それ自体を観る事によって途方も無く広がるように思われる映画そのものの可能性に対する恐怖心を、ブレッソンの章における「受肉」の概念を映画に転用するイメージの理論が、私達にとって受け入れられるものへと変容させてくれるのだが、この過程において起こる反省も、映画作品を私意的に作られ私意的に解釈されるものであると認識し、その私意性ばかりに価値を見出していたという私達の姿勢についてである。ドゥルーズの章を読めば、私達の恐れていた、私意や思考を諦めた時の映画の途方もなさが絶望感を呼び起こすという事にむしろ希望を見出し得る事に思い至るが、この事は、映画を個人の体験の内に思考する傾向を持ち、それぞれの作品の価値を観る者個人の観賞能力に委ねる私達にとって恐れていたものが、実は思考が自身の「不能性」を認識すること、イメージの「自動性」によって「私たちの狭い意識の範囲を超えた世界の広がりを信じること」(p203-204)そのものである事に気付かせるのである。

つまり、私の反省が思い当たった事とは、「自動運動」の発見や衝撃を意識せずとも殆ど無条件にスクリーン上の対象の生を受け入れることが出来てしまう私達の観賞態度と、運動の目的とその解釈に価値を求めてしまう私達の評価基準であり、その姿勢が映画を個人性に執着した体験の内に閉じ込めるような思考の仕方を助長し、もはや映画を映画そのものの有機性に返して向き合うことの困難さを存在させていたのではないかという事である。私意の力の過信に私達が陥っているとすれば、その困難さは、それを諦めた時に現れる映画の生命を目の当たりにする事の恐怖によるものであり、つまりそれは、私達は映画そのものを実はあまり信じていなかったのではないかという事である。

このように、本書を読むという体験は、「私個人にとって映画とは何かか」という解答を求める手助けをするのでは無く、それ以上に、「私個人にとって映画とは何か」、更に言えば「私個人にとってこの作品とは何か」という事に対する解答を、私が如何にして作り上げようとしているか、その方法、その視点をより根本的にスキャンし直し、反省させるのであり、読み終えると、その反省の内容は重大であると認めざるを得ないものである。今、その殆ど感覚的なままの反省の内容について検証するつもりはないので、私の反省の正当性については分からないが、恐らく本書の内容を通して、映画が世界のなかで呼吸をしているのを感じ、その事が自らの映画との関わり方の自閉性に風穴を開け得るような予兆を感じるような何らかの反省が、映画を思考する際に「私個人にとって」と常に接頭しがちな観客にもたらされるのではないかと思う。そしてそれは、私と映画と世界との関係を新しく感覚し、認知する機会になり、「映画とは何か」を思考し始める第一歩になるだろう。そこで漸く初めて、『映画とは何か』を「映画とは何か」と思考しながら読み始められるのである。

|書誌

映画とは何か フランス映画思想史

三浦哲哉著
筑摩書房 236頁 2014年11月刊
本体1500円+税
ISBN 978-4480016072
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480016072/

|プロフィール

奥平詩野 Shino Okuhira

1992年生まれ。国際基督教大学除籍。映画論述。「ことばの映画館」メンバー http://kotocine.blogspot.jp/ 。