開拓者(フロンティア)たちの肖像
〜中野理惠 すきな映画を仕事にして
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第13話 いろんなご縁で大いそがし
電車の中吊り広告
保管してあったはずの「サンデー毎日」の記事が見つからないので、確認できないが、取材時に「東京ママおたすけ本」の<売上>が3千万円か2千万円と答えたのは事実であり、ゲラも見て了承していた。広告までは気が回らなかったので、広告については編集部に注文を付けなかった。だが、電車の中吊り広告では<儲け>(<3千万円儲けてウハウハ>というような内容)となっていたので、どう考えても<利益>と読み取れる。それに怒ったのだ。
「サンデー毎日」からの謝罪
1988年の4月だったと思う。「サンデー毎日」の編集長が新富町の事務所を訪ねてきた。崩れ落ちそうな階段を昇り、開け閉てのたびにガタピシとするドアを開けて入ってきた編集長は、細身の長身に長髪、整った顔立ちの優男だった。東京言葉ではなく、なまったアクセントが耳に残る語り口だった。鳥越俊太郎「サンデー毎日」編集長である。
「あれは編集長として最初の仕事だった」
と、後に言われた。
それから二十数年。大病を克服されて、今年は、久しぶりにパンドラ配給作品を見ていただいた。また、先日は衆議院特別委員会で<集団的自衛権>につき、穏やかな口調ながら、的確な指摘をされていた。ぜひ、健康に留意されて、これからも積極的に発言をしていただきたいと願っている。
マスコミからの取材へのルール 宣伝ツールのひとつ
この一件が起きる前から、個人取材に関しては、自分なりに決めたルールを事前に記者の方々に伝え、了解のうえで、取材を受けていた。ルールとは、パンドラ配給作品か発行書籍に触れること、事前にゲラを見せること、この二つである。自分は商品の宣伝ツールの一つと考えていたからだ。
断りきれない気質
ところで、1987年から1989年頃にかけては、映画配給や出版以外にも、前話で触れた受注ビデオ製作に加えて、月刊誌や新聞の取材と執筆も増えていた。全て、「どうしても」と頼まれると断りきれない伊豆気質のなせる結果である。当時は、週刊誌の「朝日ジャーナル」に書評や著者インタビュー、月刊女性誌の「家庭画報」に日常生活をテーマとした取材記事、社会党の機関紙「社会新報」に子育てや高齢社会についての取材記事を書き、時に単発記事や、エッセイを書くこともあった。いずれも私は楽しかったが、そのたびごとに、調べ事や校正を始め、異なるノウハウの習得を押しつけられるスタッフの苦労には、全く気が回らなかった。スタッフの皆がどれほどガマンをしていたことか。この場を借りてお詫びと感謝を伝えたい。
左:「家庭画報」右:「社会新報」※クリックで拡大します
この頃はさまざまなメディアに書きまくっていた。
「日経ウーマン」の創刊
1988年が「日経ウーマン」の創刊なので、その一年ぐらい前だろうか。前身の「personal」の木原編集長から電話があり、記事を書くようになった。書いた記事が見つからないのだが、時によると夜中の3時ごろまで、木原さんに文章をチェックしていただいた。「日経ウーマン」の鷺谷初代編集長(故人)、波多野副編集長も同様で、完璧な記事作成の大切さをはじめ、教えていただいたことは多い。尾崎雄2代目編集長、足立則夫3代目編集長まで仕えた。お二人共に教えていただいたことや、受けた刺激も大きく、今に至る長いお付き合いになっている。新入社員だった麓幸子さんが、先日テレビでコメンテーターをしていた。赤いほっぺの彼女を思い出すと、隔世の感がある。
女性に優しいトイレ取材
第8話でも触れた、<都内の大企業や駅のトイレがどれだけ女性に優しいのか>、の企画を、鷺谷編集長にGOを出していただき、大阪まで出張し、大阪のデパートのトイレ取材をしたことを懐かしく思い出す。都内JR線と地下鉄線の全駅のうち、ナプキンの自動販売機が設置されていたのは、京急線の品川駅と巣鴨駅のみだった記憶が残っている。また、デパートのトイレのベビーベッドが、個室ではなく洗面所部分に置いてあったのを理解できず、<赤ちゃんをひとり残して、母親が個室に入りお手洗いを済ませることはありえない>というようなことを書いたところ、暫く後に、ベビーベッドが個室内に置かれるようになったのは、この記事の影響のようで、嬉しかった。男性トイレにベビーベッドがあるかを調べたかどうか、この記事も見つからないので、確認できず残念だ。
「ディア・アメリカ 戦場からの手紙」の翻訳
1988年9月には『ハーヴェイ・ミルク』を公開した。この件は既に書いたので、見つかった写真の紹介に留めて、先に進む。実は、映画の東京公開時期に、翻訳と葛藤し始めていたのである。夏だったと思う、現代書館の菊地社長から
「頼むよ、お願いだから!」
と言われた。勿論、断り続けたのだが、これまた押し切られ、下訳者を付ける約束で引き受けてしまった。ベトナム戦争に従軍した多くの米軍兵士が書いた手紙をまとめた本であり、本書を原作とした映画を、東宝東和が翌1989年2月に公開するから、それに間に合わせたい、と言う。だが、急遽、公開が1988年12月に繰り上がったために、大げさに言えば地獄のような日々を過ごすことになった。
入浴中に眠ってしまった!もしくは大惨事一歩手前
睡眠時間一日3時間の日々が2週間続いたある晩、というか明け方5時ごろだったと思う。疲れ切って、ひと眠りする前に、沸き始めたお風呂に入った。ところが、ガスをつけっ放しにして温まりながら眠ってしまっていた。そのままだったら、火事になるか、身体が溶けるか、大惨事になるのを、思わぬことで命拾いした。
(つづく。次は8月1日に掲載します。)
中野理恵 近況
『ゆずり葉の頃』はおかげ様で、渋谷アップリンクでのアンコール上映を始め、全国上映が進んでいます。また、明治というより江戸末期の方が相応しいとはいえ、地元の反射炉も世界遺産に登録されました!