タイトルの後の映像にふと、子どもの頃に心惹かれ朝な夕なに繰った図鑑の数々を思い出す。天体のような地層のようなそれの、赤いものが開いて歌が流れ出す。やがてブラジルの匂い。
ディーバが揃って歌う「女でいるのは女なら簡単、でも男に生まれたら女になるのに犠牲がつきもの」なるよく聞く言い草を素直には受け止められない。私が女に生まれたゆえに舐めさせられてきた辛酸を軽くあしらわれているような気がするからだ。もちろん分かっている、問題は権力と自分との間にどれほどの距離があるか、そこでどう生きるか、それを何とかするためにどうするかだと。この映画を見終わるとそのことがより心に刻み付けられる。彼女達は何とかし続けたのだ。「街角の女装者にはまずしっかりひげを抜けと言いたい」なんて言葉も、あんたは距離をどうにかする気がないわけ、という苛立ち、あるいは矜持の表れに違いない。
本作はディーバ達の他、そのパートナーの姿も捉え、話を聞いている。ジャネと46年間離れたことのないオクタヴィオが常に人の目を見て話すようにしているのも、彼なりの距離のつめ方だろう。「職場は解雇された」「レストランに行って彼女が席に着くとボーイに追い出されそうになった、私は敬意を払うように言った」と語る彼に向けて、2014年のステージに立ったジャネは「彼らがしたことはひどいけれど、私にはどうでもいい、人生と喜びが、あなたと今日から始まるのだから」と歌う。その後の吸い寄せられ合うような抱擁に、距離のない関係がいかに安堵感を与えるものかと思う。
軍事政権時代には舞台に検閲が入り、女性装で一歩外に出れば逮捕されたという。しかし彼女達が挙げるそれ以外の事例の幾らかは、今でも日常的に見られるものだ。女装して買い物に行くことの是非をテレビ番組が視聴者に問うだなんて、日本のメディアは変わらずマイノリティーについて「ありかなしか」と生存価値をジャッジしているではないか。現在のブラジルでは女性装者の境遇は当時よりも厳しく、舞台の仕事はなく他の職にも就けないので食べていけないという。映画は階段一つ上るのも大変だったマルケザが、人を虐げていい理由なんてどこにもないという怒りを、自らを完璧たらしめていた女性装の一部を剥ぎ取って見せるという行為により表出するのに終わる。
インタビューシーンにおいて劇場の部屋の幾つかの椅子にディーバ達が適当な距離を置いて座っている姿は素敵だし、ホジェリアが舞台上でちょっとした早変わりを見せる「私は全ての女」にめいめいが楽屋で鏡に向かう姿を重ねた映像も本作の白眉だ。女だと思われるのが面白いから女装していたと語る者あればパフォーマーじゃなければ女装しなかったと語る者あり、表現力なら負けないと奮起したと語る者あれば美しくなるために何でもしたと語る者あり、「それぞれがそれぞれの光を放つ」との言葉通り、インタビューの内容や「個人じゃなくグループで行う」ショーの断片から、彼女達それぞれがいかに異なっているかが伝わってくる。ともすれば世間から一絡げにされそうな者こそが、自分達がいかに違うかを知っておりそのことを強く語る。
開始早々、ディーバ達が舞台に登場するのを袖から捉えた映像に「彼女達は私の生活の一部」とナレーションが入り、プロデューサー兼監督の女優レアンドラ・レアルの祖父がヒバル劇場を設立しブラジル初の異性装ショーを始めた一人なのだと分かる。「女装姿だと捕まった」という道を悠々と劇場まで歩く姿や公演の本番直前といった要所ごとに監督自身の思い出が語られる。近年のドキュメンタリー映画には撮影するということの暴力性を自身も被ろうとするかのように作り手と被写体との関わりを見せる作品も多いが、本作からはここに記されているのは私の物語でもあるという主張を強く感じる。彼女の「そこは私の場所であり皆の場所、人々が出会い多くの物語が生まれた場所」との言葉には、あの劇場が私達の世界として在るべきという気持ちがこめられているに違いないのだ。
【映画情報】
『ディヴァイン・ディーバ』
(2016 年/ブラジル/ポルトガル語/110 分)
監督・脚本:レアンドラ・レアル
出演:ブリジッチ・ディ・ブジオス、マルケザ、
ジャネ・ディ・カストロ、カミレK、フジカ・ディ・ハリディ、
ホジェリア、ディヴィーナ・ヴァレリア、エロイナ・ドス・レオパルド
字幕:比嘉世津子 字幕監修:ブルボンヌ
配給:ミモザフィルムズ
写真はすべて© UPSIDE DISTRIBUTION, IMP. BLUEMIND, 2017
2018年9月1日(土)よりヒューマントラストシネマ渋谷、
シネマート新宿ほか全国順次ロードショー
【執筆者プロフィール】
佐藤麻弥(さとう・まや)
東京在住の映画ファン。Twitter:@yako802 ブログ:双子座殺人事件