【連載】「視線の病」としての認知症 第2回「向こう側の人たち」と出会うまで text 川村雄次

化粧を手伝う「小山のおうち」の石橋さん

「視線の病」としての認知症
第2回 「向こう側の人たち」と出会うまで

(前回はこちら

「本人の側から見る」とは、言い換えれば、「相手の立場になって考える」ということだが、そんな小学校の道徳の時間で教えられる教訓のような文言を、10年以上にわたって繰り返し言うことになるとは、自分でも想像もしなかった。だが、それが起きた。なぜか? 

始まりは2003年、と前回書いたが、私が初めて「認知症の人たち」と出会ったのは、その2年前の2001年の2月のことだった。その半年前に私は転勤を命じられ、東京から松江に、生活と仕事の場を移していた。そして、取材先である島根医科大学(現島根大学医学部)環境保健学教室の忘年会で出会った一人の看護師から、一度自分の職場に来るよう誘われたのだった。

私はその人のことを知っていた。石橋典子さん。その時、54歳。島根医大がある島根県出雲市の精神科クリニックに併設する重度認知症デイケア「小山のおうち」のリーダーだった。このデイケアを、1993年の開設の半年後から2年間、当時NHKに就職したばかりの若きディレクターが取材して作ったドキュメンタリーが、地方の時代映像祭の優秀賞を受賞していた。認知症になって、妄想や徘徊、暴力などが現れ、家族からもはや何も出来ず、意思疎通不能になったと思われていた人たちが、石橋さんたち職員の働きかけで、ある男性は言葉を取り戻し、ある女性は皿洗いを手始めに昼食のおかずの盛り付けなど、キビキビと行うようになっていく。そして、石橋さんの誘いで家族が小山のおうちに見学に来て、自分たちの夫や母親の家での様子との違いを目の当たりにし、自分たちの関わり方を変え、心の通い合いを取り戻していく・・・。その、奇跡のような変化が起きる決定的瞬間をことごとく映像と音とで捉え、克明に描き出す、奇跡と感動の「名作」だった。

「小山のおうち」の午後のひととき

松江局で働く誰もが知っていること番組を、私は5年遅れで見て、これは凄いと思った。だが、このような作品が撮られた現場に通っても、それを超える新たな番組を作る力が自分にあるとは思えなかったので、関心はあるものの、そこに行ってみようという気持ちにはならなかった。

この日、忘年会の席に遅れて来た石橋さんは、着くなり、その日、小山のおうちで起きた出来事について語り出した。「皆さん、見てください」とスカートの裾をたくしあげ、朝、自分がすねをぶつけて出来たあざを老人たちに見てもらったことから始まって、いかにスリリングな時を過ごしたか、その場面をいきいきと再現する。あの奇跡の名作を生んだ現場の熱気が、その後もずっと続いていることを感じた。魅力的だった。だが私は、新しい任地で一刻も早く自分の取り組むべき新たなテーマを見つけ、自分のドキュメンタリーを作らねばと焦っていたので、やはりそこに行ってみようとは思わなかった。

ところが、私が学生時代、シネマ研究会に所属して8ミリフィルムで映画づくりの真似事をしていて、NHKに入ったのは、土本典昭監督のドキュメンタリーに憧れたからなんだと話したところ、石橋さんが興味を示した。この時ちょうど、彼女をモデルにした人物が登場する劇映画の企画が進んでいて、シナリオが送られてきたので、それを見て感想を言ってほしいということだった。後に、松井久子監督、原田美枝子主演作品として完成し、全国で上映された『折り梅』である。映画では、石橋さんに相当する、認知症の老人の通う施設の長は、加藤登紀子が演じていた。翌日、そのまだ推敲中のシナリオを私が読んで、ボソボソと感想を述べると、一度小山のおうちに来るように、強く言われたのだった。日常の暮らしを取り戻す

その時、私は34歳。NHKにディレクターとして就職して11年目。実は以前にも、「認知症の人たち」に接近したことがあった。

1992年から4年間を過ごした長野放送局時代、やはり映画が縁で通い始めた農村医療で有名な病院の現在を取材する中で、全国に先駆けて1987年に作られた老人保健施設(老健と略す)に何度も行くようになっていた。制度上は病院と在宅との間の「中間施設」と位置づけられる。敷地を広々と使った、鉄筋コンクリート2階建ての開放的な建物だった。しかし、私が訪ねるのはいつも1階だけ。2階は認知症のある人たちの居住エリアで、鍵がかけられていた。

その時の私の取材の関心は、高齢化が進む農村で、通院が難しい老人が自宅で暮らし続けるため、病院から地域へ飛び出していった在宅医療チームの活動だった。老健は、家では治せない病気の治療のために入院した老人が再び自宅に戻るため、本人と家族が準備するためのリハビリテーション施設として制度設計され、最期まで自宅で暮らすための重要な役割を持つものとされていた。だが実際には、一度入院したり入所したりすると、家の中に居場所を失って帰れなくなり、病院と施設をぐるぐる回る人が多いことが、当時しばしば問題として取り上げられていた。地域から弾き出され、病院や施設の中に囲いこまれ、見えない存在になる。その最たるものが、認知症の人たちだった。

2階からは時折、大きな声や物音が聞こえることはあったが、「そこに行きたい」と言うのは、興味本位であり、知っても仕方がないことのように思え、言い出せなかったし、職員にも勧められなかった。この新しい施設の中で、特に目新しくもなく誇るべきでもない部分と見なされていたのではないだろうか。

認知症、呆け、アルツハイマー病・・・そうしたものは、年老いた人の中でもごく一部の限られた人たちだけがかかる特殊な病気だと、当時多くの人が思っていた。例えばアルツハイマー病は、欧米人では多いが、日本ではあまりいないと言われており、私は、そうしたものを自分の問題として考えてはいなかった。

鍵のかかった扉の向こう側で、どんな人がどんな暮らしを送っているのか、どういう処遇を受けているのか、それは、ずいぶん遠いことのように感じていた。

2001年2月9日の午後、私は小山のおうちを訪ねた。「向こう側の人たち」との初めての出会いに、私は気負っていた。だが、そこで見たものは、拍子抜けするほどに「普通」だった。

再び包丁を持つ

※写真提供 エスポアール出雲クリニック

(つづく。次は10月1日に掲載する予定です。)

【筆者プロフィール】

川村雄次(かわむら・ゆうじ) 
NHKディレクター。主な番組:『16本目の“水俣” 記録映画監督 土本典昭』(1992年)など。認知症については、『クリスティーンとポール 私は私になっていく』(2004年)制作を機に約50本を制作。DVD『認知症ケア』全3巻(2013年、日本ジャーナリスト協会賞 映像部門大賞)は、NHK厚生文化事業団で無料貸出中。