連載を開始する川村雄次さんのこと
川村雄次さんの連載が始まった。川村さんは長年にわたってNHKで「認知症」に関する番組に取り組んで来られたディレクターである。その膨大な経験から、川村さん自身、「認知症」にまとわりつく数々の誤解や偏見をひとつづつ克服して来られた方であり、今もその途上にある。
「認知症」については、わたし自身、背中合わせの年齢に達していながら、その実、真剣に考えてこなかったし、若い人がいずれ罹患するかもしれない症状である。また高齢化社会が進むなか、身近な人間がそのような病気にならないとは誰も断言できない。
今回の連載によって、旧来の「認知症」のイメージが払拭され、「新しい人間」の誕生に立ち会うことを期待したいと思う。連載は毎月1回、1日に掲載する予定である。
(neoneo編集室 伏屋博雄)
「視線の病」としての認知症
第1回 治らない病を生きる希望とは
川村雄次(NHKディレクター)
認知症の人はどんな世界を見ているのだろうか?
認知症の人はどんな不自由を感じているのか?
そして私は、どんな顔をしてその視線の先に立てばいいのだろうか?
私は15年にわたり、「認知症の人」にカメラを向けて、主にTVでおよそ50本のドキュメンタリーを作り続けてきた。その基本的な姿勢は、「本人の側から見る」ことだった。始まりは2003年。認知症と診断された後、自らの経験を本に書き、講演を行っていたオーストラリア在住の一人の女性との出会いだった。
当時、日本では、認知症は「痴呆」と呼ばれ、「痴呆を知るための講演会」では、「本人は何も分からないからいいが、介護する家族が大変」と、医療や介護の専門家が語るのが普通だった。また、認知症には、恥の意識がまとわりつき、家族に認知症の人がいることを隠すのが当たり前とされていた。医療現場では、本人に「あなたは認知症です」と知らせるのはかわいそうだし、言っても分からないと、多くの医師たちが考えていたので、本人に対して病名を告知することはほとんどなかった。介護現場でも、本人の前で「痴呆」という言葉を口にすることはタブーだった。あえて口にするのは、「どうせ分からないから」と、本人がそこにいてもいないのと同じものと見なしている場合であり、つまり、「言葉による虐待」として行われる場合だった。
だから、彼女が日本に来て講演の舞台に上がり、明瞭な言葉で、認知症になってから自分自身が困ったことや苦しんだこと、そして助けになったことや喜びを感じたことなどを述べるのを聞き、人々は驚いた。一部の人たちは「誤診である」「認知症の本人であるなら、自分が認知症であると分かるはずがない」と否定した。
オーストラリア在住の女性の著書『死ぬ時 私は誰になるのか』(1998年刊)
一方で、彼女の言葉を「希望の光」と捉えた人々がいた。
当時も今も、ほとんどの場合、認知症は不治であり、しかも進行する。現れる「症状」としてよく語られるのは、記憶障害、そして妄想、作話、徘徊、失禁、暴言、暴力といったものだ。認知症が進行すると様々なことを忘れ、身の回りのことも自分で出来なくなって、介護を受けるようになるが、「自分の物を盗った」「食事を食べさせてくれない」などと、事実を捻じ曲げた作り話をし、意味不明の言動によって周囲を困らせる。やがて、家族の顔すら忘れてしまう。体は元気でも心は空っぽの、ブラックボックスかモンスターのようなものとして語られていた。家族にとっては、そうした人を介護する、報われることの少ない重荷がのしかかる。私は2000年に、定年退職についての番組制作に参加し、現役サラリーマンに「定年後心配なことは何か」アンケートを行ったことがあったが、その回答で一番二番を占めたのが、「ボケ」と「ぬれ落ち葉」だった。
つまり、本人にとっても家族にとっても、楽しみも喜びも奪われた、苦しみのみが続く、暗い世界をイメージする人がほとんどだった。高齢化とともに認知症になる人が増え、自分が働かないばかりか、働く人たちを介護のために奪っていくとしたら、経済が立ち行かなくなるのではないかと、国の未来を危ぶむ人たちもいた。
そんな暗闇に、本人の語る言葉が光を差し入れると見た人々がいたのだ。
その一人が、精神科医の小澤勲である。
実を言えば、私が冒頭に記した3行は、小澤が1998年に出版した『痴呆老人からみた世界』の書き出しを少し変えたものである。認知症の人々の医療・ケアの現場で約30年を過ごした小澤は、しばしば同僚たちにこう言われたという。「言葉の通じない人たちとよくつきあえるな。」これに対し小澤は、「あんなにわかりやすい人はいない」と応じた。自分の思いや感情を隠しておけず、さらけ出してしまうことに、認知症の人たちの脆弱さがあるとして、彼らがなぜ「不可解」とされる言動をするのか、心の動きを読み取り、再現してみせた。本人の思いに添い、理にかなった医療・ケアを切り拓くための第一歩であったが、小澤にしても、本人の心の中というブラックボックスで起きている事を、外側から推測しているにすぎなかった。
認知症の本人の言葉は、それをブラックボックスの内側から解き明かし、小澤の推測とぴったりと重なるものだった。認知症の人が何も思わず何も考えていないのではなく、「認知症の人の心の世界」が存在することが示された。小澤はそこに希望の光を見出した。
他にも光を見出した人々がいた。「認知症の新しいケア」を模索してきた、先駆的な介護現場の人々だった。彼らは、認知症の人たちの「異常な言動」ではなく、本人がやりたいことやできることに目を向け支えることにより、従来「何も出来ない分からない」とされていた人々の「生きる姿」を変えていった。一日中パジャマ姿で病棟の中をウロウロさまようか、ベッドや車椅子に縛りつけられていた人々が、朝になれば洋服に着替えて、外に散歩や買い物にも出かけ、台所で包丁を握る、普通の暮らしを取り戻すことを実証していっていた。そして、そこに認知症の人と関わりあいながら生きる喜びややりがい、さらには認知症の医療やケアの向かうべき方向を見出そうとしていた。本人の言葉は、その追い風になるものと期待された。
もちろん、「生きる姿」が変わったからといって、認知症のほとんどが不治であり進行性があるという状況に変わりはない。だが、そこに「希望の光」を見て、広げていこうと、それぞれの仕方で取り組む人々が世界中にいることが分かってきた。私自身が彼ら一人一人に驚き、魅せられ、「希望」を感じていた。私の15年間は、そうした人々と出会い、取材して、番組を作るうちに過ぎていった。そして今、日本でも、自ら名乗り出て、経験や意見を語る人々が次々と現れるようになった。認知症という病と直面した後の人生の見え方も「生きる姿」も大きく変わりつつある。
その間、私が出会った人々のこと、そして、番組作りを通して見えてきた「希望」とは何か、また逆に生まれてきた「心配事」とは何か、私自身が次の一歩を踏み出すための心覚えとして記しておこうと思う。それが読む人にとって何かの役に立てば幸いである。
京都で2017年に開かれた国際会議 認知症の人々によるワークショップのひとこま
(つづく。次は9月1日に連載する予定です。)
【筆者プロフィール】
川村雄次(かわむら・ゆうじ)
NHKディレクター。主な番組:『16本目の“水俣” 記録映画監督 土本典昭』(1992年)など。認知症については、『クリスティーンとポール 私は私になっていく』(2004年)制作を機に約50本を制作。DVD『認知症ケア』全3巻(2013年、日本ジャーナリスト協会賞 映像部門大賞)は、NHK厚生文化事業団で無料貸出中。