【Interview】「かけがえのない一瞬」を求めて――『寝ても覚めても』濱口竜介監督インタビュー text 若林良


5時間余という上映時間や、ヒロイン5人のロカルノ映画祭最優秀女優賞受賞などで大きな注目を集めた『ハッピーアワー』から3年。『寝ても覚めても』は、濱口竜介監督の商業映画デビュー作だ。カンヌ映画祭コンペティション部門への出品をはじめ、公開前から話題が殺到し、公開後もいくつもの雑誌やSNS上において、絶賛の声が相次いでいる。

本作はジャンルとしては、ヒロインである朝子と、彼女とかかわりを持つ麦・亮平というふたりの男をめぐる「恋愛映画」ではある。しかし、そうした表面的な分類を嘲笑うかのように、本作には文字通り千差万別の解釈が可能な、いくつもの未知にあふれかえっている。neoneoでは「東北記録映画三部作」のインタビューから5年。同時代の人間として本作を享受することの確かな喜びを胸に、公開を控えた監督にお話をうかがった。
(取材・構成=若林良)

 

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――まず、映画化の経緯についてお伺いできますか。

2012年にオーディトリウム渋谷(現:ユーロライブ)で、僕の最初の特集上映を組ませていただいたんですけど、その中で何度も来てくださったのが小林英治さんというライターの方で、小林さんから柴崎友香さんの小説を勧められて、何冊か読んでみたんです。それで『寝ても覚めても』は、至るところに「映画」の萌芽を感じました。ただ、自分に具体的な企画があるわけではなかったし、当時はまだ自主映画の段階で、小説を映画にする制作体力はなかったので、いったんはそのままになりました。2014年になって、今回プロデューサーになってくれた山本晃久さんが、一緒に映画を作りましょうとおっしゃってくださって。やりたい原作を探っていったときに、『寝ても覚めても』がふたたび浮上して、それから具体的に進んでいきました。企画の当初、麦と亮平は誰がいいんだという話になって、僕が東出昌大さんの名前を出したら、ほぼみんな賛同してくれて。主役が決まってからは、一気に走り出しました。

――「偶然性」がこの作品の要になっていると思います。これはドキュメンタリー性ともつながる概念だと思います。

そう思います。偶然性は一番大事なものだと思っていて、それには2種類あると思います。ひとつ目は、現場というか現実での偶然です。生きていく上では、「かけがえのないできごと」ってあるじゃないですか。なぜかけがえのないのかと言えば、他と代替がきかない、たった一回のことであるからですよね。繰り返すことはできず、かつ計算してできるようなものでもない。それはそのできごとに偶然が介在しているからです。偶然があることでそれは一回きりのできごとになる。それゆえに重要で、ある時期から偶然こそをとらえなければならないという思いでやっています。もうひとつの偶然は、作劇の要素として、つまり物語の中に組み込まれている偶然です。作劇そのものは、基本的にはすべてコントロールが可能ですが、現実において偶然が大事だという感情があるから、作劇においても偶然が入ってくる。一歩間違えれば、ご都合主義的にも見られかねないんですけど、現実を表現する上では、偶然はそのリスクを冒しても入れる必要を感じています。

――STUDIO VOICE(VOL.412、「Documentary / Non-Fiction 見ようとすれば、見えるのか?」)における東出昌大さんとの対談で、「目の前で何かが起きている」瞬間をつないでフィクションをつくる、という言葉が印象的でした。

撮影現場ですごいこと、少なくとも何度も繰り返すことができない何かが起きている。その何かは簡単に壊れてしまうようなものだから、見ているこちらは容易にコントロールできない。ただ、それが起こればカメラは確かにそれを記録する。そういうことがドキュメンタリーを撮る中では、自然と存在すると思います。ドキュメンタリーは偶然撮れたものが核になって、それを編集の過程でどうしていくかという話になる。捉えられた偶然は自分たちにとっては貴重なものなんだけど、観客にとってはどうすればこれが「かけがえのないこと」に見えるだろうかと。その感覚は、フィクションの撮影においても持ち込むべきものだと思います。フィクションだと編集が前もって決められるので、この構図でこの台詞を言っている人物がうまく撮れていればもうOKという判断基準がありますけど、それだけではなく、目の前で偶然すごいことが起こって、これを作品の中に入れなければならないという衝動によってこそ作りたい。ドキュメンタリーを作る過程で、「撮れた、これで映画になる」という感覚があるのはそういう瞬間ですけど、フィクションも「かけがえのない一瞬」の連鎖によって構成されるべきではないかと今は考えています。

――原作にない、というよりも原作の後に起きた東日本大震災を、映画の中に入れた意味についてお伺いできればと思います。

偶然と言えば偶然なんですけど、原作においては、登場人物のバックグラウンドとして「社会」はなくてはならない存在です。原作の精神を受け継ごうとした時に、社会的な描写を入れることは必然で、「原作に描かれているように社会的なできごとも並行して描きこんで欲しい」という僕のオーダーに対して、共同脚本の田中幸子さんが震災の場面を執筆してくださったのが発端です。ただ単に社会的な「背景」とは言えないような震災の描き方だったので、最初は躊躇したんですけど、この10年間の社会的動向を見直した際に、震災を扱わない理由のほうがむしろないと思うようになりました。途中からは外すことのほうが心情的に難しくなってきて描写を分厚くしていった感じですね。

――牛腸茂雄ではじまり、牛腸茂雄で終わる、いわゆる「円環」を感じますが、まずは『SELF AND OTHERS』(2001)をご覧になられたのでしょうか。

そうですね。佐藤真さんの作品を先に見て、それで牛腸茂雄さんを知りました。数年後に吉祥寺で牛腸茂雄の写真展があって、それを見に行ったんですよ。ドキュメンタリーと写真の両方が心に残るものがあって、このドラマの中で写真が出てくるとなったときに、思い浮かんだのが牛腸茂雄さんだったんですね。

――さきほど、「偶然性」についてお聞きしましたけど、それは牛腸茂雄の作品にも通底する概念ではあります。双子の女の子の写真は牛腸の代名詞のように使われていますが、あの写真にしても、後年の彼女たちのインタビューとかを読むと、「自分たちとは全然違う存在に見えた」とおっしゃっているんですね。つまり、牛腸との出会いによって“偶然”あらわれた表情というのでしょうか。本作にもつながるようで、すごく印象的でした。

でも、やはりそうなんじゃないかと思います。牛腸さんの写真に写っている人たちは多かれ少なかれ、そういう感触を持つのではないかと。自分なんだけど、自分ではない。映画を撮る側としては、役者さんたちもそういう感覚に至れるような作品づくりができればと思っていました。

――「変化」についてお伺いできればと思います。『寝ても覚めても』の作品の時間経過は10年ほどに及びますが、その中で朝子を取り巻く人物には、さまざまな変化が起こります。たとえばマヤと串橋が結婚して子供ができたり、外面的な変化がいろいろ起きていますけど、一方で朝子には、そうした目立った形での変化はありませんね。

朝子も髪を切ったりはしているんですけど、ただあまり目立たなかったりもして。外見をもっと抜本的に変えるということもありえたと思うんですけど、でもしなかった。周囲の人たちの変化は、時間の経過を見せる役割を担っている部分があります。一方で、朝子の変化は外見的なものではなく、あくまで観客の内面の中で感知されるようになっているのかもしれません。

――小説では朝子の一人称によって進みますけど、映画における「一人称」を意識した結果でもあるのかな、と思いました。

そうかもしれないですね。原作においては一人称の小説でありながら、朝子は他者に対して自分を積極的に表現することはむしろ少なくて、雄弁なキャラクターではありません。朝子のそういう、自身について寡黙なキャラクターを映画においてどう生かそうかと考えたときに、変化について言葉や外見で雄弁に物語るというよりも、むしろ見る観客一人ひとりが、彼女を自らの印象の中で変化させるべきということを意識したように思います。

――(東京芸術大学大学院時代の師である)黒沢清さんからの影響について、お伺いできますか。

黒沢さんの影響は全面的に受けています。特に大きかったのは、カメラをどう置くか。ただそれは、黒沢さんのカメラの置き方をまねるということではありません。黒沢さんの講義で、監督の仕事とは何かという話になりました。そこでおっしゃられていたのは、基本的にはどこにカメラを置くかを決めて、いつ回し始めて、いつ回し終えるかを決めることだと。つまり、「この時間と空間をどこからどこまで記録するか」を決めるということで、それが監督の仕事なのだと。カメラ=万年筆理論というのがありますけど、カメラは万年筆とは違って、あくまで記録の機械です。それゆえに、何かを描くという以上に、現実を記録することが本分なのだという認識を与えてもらいました。つねに「現実の記録」である以上、フィクションの映画を作ることは実はものすごく難しい。では、自分はどのようにフィクションに対峙するか。カメラに対する認識を黒沢さんから学んだことで、自分の映画作りは変わったと思います。

――現実の記録ということとも関連しますが、前作『ハッピーアワー』には「省略がない」といった批判がありました。本来作劇をする上で、ストーリーに沿っていないセリフや動きは削除するべきだということですが、私としてはむしろそれらを残したことで、現実性が残されたことが魅力だと感じました。それは『寝ても覚めても』にも感じられました。

フィクションと言えども、また商業映画と言えどもですけど、現実の記録によって、物語を組み立てていくことが基本的原理です。すべてをCGで創るわけにはいきませんし、現実そのものを変えるには限界があって、その限界の範囲内でやっていくしかありません。ですので、リアリティを大きく逸脱した話を作るのは難しい。と言うよりも、まず心理的な抵抗があるんですよね。これをやっても現場でうまくいかないということは、脚本を書いている時点であるんです。現実と離れすぎているから、役者がやっても負担がある。この台詞からこの台詞に飛ぶのは飛躍がありすぎるから、もう少し段階を踏もうとか。そうすると映画は現実そのものではないんですけど、現実のある側面に寄り添った形になります。このつくりものの「現実」が、自然なものとして受け入れられるかどうか、まず自分のからだでジャッジするような感覚が基盤にあります。『寝ても覚めても』は2時間の映画ですので、『ハッピーアワー』に比べたらはるかに省略や凝縮がありますけど、基本的な感覚は変わっていません。ですから、共通点を覚えることは自然だと思います。

――「偶然性」に話が戻りますが、ラストシーンにもそれは顕著だと思います。これから亮平と朝子が深い絆で結ばれるかと考えると、恐らく確信は持てなくて。また麦が舞い戻ってくるのではないかというような、危うさはありますよね。

それが必然だと思います。一般的に言って映画のラストで、これからこのふたりがずっと幸せだろうという感覚を覚えるとしたら、それはどこか嘘があるはずです。幸福にせよ不幸にせよ、僕たちが人生の中でそれを「保障されている」と感じることはまずありませんから。基本的には、次の瞬間に何が起きるかはわからない。現実自体をまねなければいけないとは一切思いませんけど、ただ僕は自分の「これが現実」という感覚からあまり大きく離れることもできないので、不確かさを残した終わり方のほうが、自分にとって力強いものには感じられました。

――今後、ドキュメンタリーの分野で撮りたいものなどはありますか。

ドキュメンタリーはカメラの記録の力をそのまま使うものですので、映画の基本だと思うけど、ドキュメンタリーもフィクションも行き来をして思うのは、根本的な違いはないということですね。たとえば僕自身は『寝ても覚めても』もひとつの記録として見てしまうところがあるんです。物語として見るというよりは、2017年の7月から8月の現場の記録が立ち上がってくるように見えて、むしろ物語がなかなか見えないんです。そのように、フィクションでも現実を記録するということにおいては変わらないので、特別にジャンルとしてのドキュメンタリーを撮りたいという欲望はないですね。ただ、いわゆる「ドキュメンタリー」を撮ることに、自分のなかで踏ん切りがつかない部分があるとすれば、人物に密着した「追っかけ」型のドキュメンタリーを撮る気には、なかなかなれないところかもしれません。もちろん、創造性が入り込む余地はたくさんあります。たとえば想田和弘さんの観察映画は、単に背中を追っているという作品ではないですよね。自身がそういうところにたどり着けるかどうか。その方法が編み出せれば、ドキュメンタリーを撮ることはあり得ると思います。

【映画情報】

『寝ても覚めても』
(2018/119分/カラー/日本=フランス/5.1ch/ヨーロピアンビスタ)

出演: 東出昌大 唐田えりか 瀬戸康史 山下リオ 伊藤沙莉 渡辺大知(黒猫チェルシー)/仲本工事/田中美佐子
監督: 濱口竜介
脚本:田中幸子、濱口竜介
原作:「寝ても覚めても」柴崎友香(河出書房新社刊)
音楽:tofubeats
主題歌:tofubeats「RIVER」(unBORDE/ワーナーミュージック・ジャパン)
英題: ASAKOⅠ&Ⅱ
製作:『寝ても覚めても』製作委員会/ COMME DES CINÉMAS
製作幹事:メ〜テレ、ビターズ・エンド
制作プロダクション:C&Iエンタテインメント
配給:ビターズ・エンド、エレファントハウス
www.netemosametemo.jp

写真はすべて©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINÉMAS

9月1日(土)より、テアトル新宿、ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷シネクイントほか全国公開