【Interview】「記憶を未来に聞き届けるために――東北記録映画三部作」酒井耕・濱口竜介監督ロングインタビュー 聞き手=萩野亮


2011年3月11日、あなたは何をしていましたか? ――

酒井耕・濱口竜介共同監督による「東北記録映画三部作」が、11月9日(土)より、オーディトリウム渋谷、次いで渋谷アップリンクで公開される。被災の光景よりも、その土地に生きる人びとの語りを、おしゃべりを、撮りつづけた『なみのおと』(2011)に始まるこの3部作は、2013年のいま、わたしたちに何を届けようとしているのだろうか。
これまで映画祭や特集上映などの機会を得て上映されてきた全3作4篇が、いよいよ一挙公開となる。

第二作『なみのこえ』(2013)と第三作『うたうひと』(2013)のノミネートで、山形国際ドキュメンタリー映画祭2013にいらしていたおふたりの監督に、映画祭の熱気のさなかにある山形市内でお話を伺った。

(聞き手・構成=萩野亮/neoneo編集室)

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酒井耕監督(左)、濱口竜介監督

酒井耕監督(左)、濱口竜介監督 撮影=小林和貴(neoneo編集室)

|僕らは映像によって被災した

――昨日、山形映画祭のプログラムで『なみのこえ』を拝見しました。東北の映画祭で、東北の方たちが多くいらっしゃるなかで、この作品を笑ったりしながら見られたことは、ほんとうによかったと思います。はじめに、『なみのおと』と『なみのこえ』でおふたりが語り手の方々に問われていたことを、わたしも聞いてみたいと思います。2011年3月11日を、おふたりはどう過ごされましたか?

酒井 僕はそのときある映画のスタッフとして働いていました。翌日に控えた富山での撮影準備をしている最中だったんですが、渋谷のカフェで昼食中に地震に遭い、電車も止まって帰れなくなったので、そのまま会社に泊まりました。オープンカフェでみんなでUstreamで津波の映像を次から次へと見ていて、何か自分が体験しているようなショックを受けた。東北の沿岸部で起きていることは東京からさほど遠くはないはずの場所なのに、何かうまくつながってくれないという気もちがありました。

濱口 僕はそのときプロデューサーと打合せをしていて、渋谷の円山町のあたりを歩いていて、何かぐらぐらするなと。これは俺が疲れていてめまいをしているんだろうかと思っていたら、ショーウィンドウの水槽がばっちゃんばっちゃん揺れていたから、ああ、俺じゃなくて地面か、と(笑)。ただそんなに大事とは思っていなくて、髪を切ろうと思っていたので美容室に行って「変な揺れでしたよね」と話をしたことをおぼえています。

撮影を何日か後に控えていて、フランスのカメラマンのカロリーヌ・シャンプティエさんが藝大(東京藝術大学)に来てテスト撮影をするから、演出をやらないかといわれていたんです。その準備をするはずが、誰にもつながらない。4時くらいにカフェに入って10時くらいまでずっと作業をしていたんですが、「すごいことになっているらしい」と聞いて、津波の映像を見たら、ほんとうに膝がふるえるような思いがしました。

――これは映画に撮らなくてはいけない、という思いはそのときからあったのでしょうか。

濱口 直後はなかったですね。『親密さ』(2012)の撮影がその4、5日前まであって、ラストシーンだけまだ撮れていなかったので、そっちをどうしようかなと考えていました。

酒井 「撮る」ということはほんとうに考えていなかったですね。撮影で富山に向かっている最中に原発事故があって、「こんなときにみんな映画撮るんだ」というのが率直な感想で(笑)。でも富山に着いてしまうと山のこっち側なので、地元の人もみんなどこか他人事で、「ぜんぜん揺れなかったよ」と。ただ何日かすると、福島から新潟を迂回して避難して来られた人たちがいて、飲み屋でホテルに泊めてもらえなかったという家族に会ったりしました。そういうかたちで、間接的に意識させられるものがあった。

――1作目の『なみのおと』がちょうど2年前の山形映画祭で初めて上映されて、わたしもその場にいてつよく印象に残っているのは、上映後の質疑応答に立たれた濱口さんの「僕たちは映像によって被災したんです」ということばでした。

濱口 実際の「被災」経験というものが、この東北にあるわけですよね。沿岸部は根こそぎやられてしまった。でもわれわれは、自分の身に何の危険もなかったわけです。こんなにひどいことが起きているということははっきりとわかっていながら、それに対して何ら手出しができない。その感覚はやっぱり映像を見ていたということがひとつには大きくて、車が津波に流されてゆくのをただじっと見ている。自分の中心がもっていかれるような感じがしたというか、やるべきことは映像の向こう側にあるのに、自分はいまひたすら映像の前にいてしまっている、そういう感覚を植え付けられたという気がします。「自分はそこにいない」という強烈な感覚があった。

酒井 ケータイのすごく小さい画面を、ものすごく集中して、顔を近づけるようにして見ていました。自分と映像が何かとても関係をもっているという感覚があって、でも自分の身体は別のところにある。映像に対する感覚が相当アンバランスになっていましたよね。この状態で、次にどういう映像を撮ればいいのかということを考えられなかった。5月くらいまでアニメや報道番組は見られたんですが、実写のドラマをまったく見られなくなりました。

『なみのおと』 ©SilentVoice

『なみのおと』 ©SilentVoice

|被災地で映画を撮り始める――『なみのおと』

――『なみのおと』は、おふたりの出身である東京藝術大学から打診があって撮り始めたと伺いました。

濱口 2011年4月に、仙台市のせんだいメディアテークに「3がつ11にちをわすれないためにセンター」という、被災の記録など、市民の撮ったものも含めてアーカイブしていくためのセンターができました。そこに僕たちが在籍していた東京藝大の映像研究科が参加したい、ということになりました。公的なものというよりも、ひとりの人間としてそこに関わりたいという思いが藝大の人たちにあって、でも現役生を行かせるというタイミングでもない。そういうことで4月の段階で修了生の僕のところに話が来ました。かなり早い段階で「行きます」という話をして、実際に現地に入る手筈が整ったのは5月の中旬くらいでした。酒井に連絡したのは7月に入ってからです。

――ずっと劇映画を撮られてきたわけですが、とまどいはなかったのでしょうか。

濱口 あんまりなかったですね。ただ「見たい」という気もちでした。これを野次馬根性というのかもしれませんが、当時の自分が日常にすごく座りが悪いということがあって、被災地の光景を映像で見てはいるけれども、身体はこっちにあるという感覚が解消できないままでいた、だとすれば、そこに実際に行くのがいちばんの解決策になるだろうと思ったんです。

酒井 僕は4月末まで仕事があって、6月にも仕事がひとつ入ってきたのでそれをやるつもりではいたんですが、濱口から声がかかったときには、「行きたい」と思いました。ただ、仕事が決まっていたこともあって、実は一度ことわっているんです。でも自分が間違った判断をしているような気がして、すぐに電話をかけなおしました。決まっていた仕事はことわって、「やっぱり行かせてほしい」と。

――おふたりは藝大修士課程の同期であるわけですが、学生時代はどういう関係だったのですか。

濱口 関係性としては、かなり薄いですよね(笑)。ただ、僕が助監督をやっている現場に酒井が来てくれたことがあって、ふだんおちゃらけたイメージだったのが、こんなにちゃんと仕事する人なんだなと思って、それもあって声をかけたんだと思います。仕事はちゃんとする人なんだなと。

酒井 「仕事は」(笑)。僕は濱口のことを、仕事をちゃんと完結させる力のある監督だなというふうに見ていました。修了制作の『PASSION』(2008)のほかに何本か見ていますけど、やるといったら必ず終わらせる。それは簡単なことではない。

――わたしは寡聞にして、酒井さん単独の監督作品を目にしていないのですが、これまでどういう作品を作ってこられたのでしょうか。

酒井 何か自分に突出したスタイルがあるとは思っていないんですね。いちばんはじめに恋愛ものを撮って、その次にはコメディ、その次はロードムービー。スタイルに固執するというよりは、状況から出てきたものに対して答える。自分でシナリオを書いたのは修了制作だけで、ほかは別の人のシナリオで撮っています。出てきたものに対して合わせる、役者さんに何かいったりする、というスタンスでこれまで来ました。だから今回も、現地に入ってみて、濱口のやりたいことを聞いて、それに合わせようというふうに思っていました。

――ふたりで現場に入られてみて、何かお互いに印象の変わるようなことはありましたか。

濱口 それは明確にありますね。「いっしょに監督やらないか」ともちかけたのは、それもあってのことです。ひとりで現地に入ってみて、わからないことがたくさんあったんですね。僕はひとつの土地にずっといたという経験がなかったので、感覚として「土地を奪われる」ということがわからなかったりする。でも長野出身の酒井には「ふるさと」っていう感覚がわかったんですね。車で行き帰りを2年間ずっとともにしていたんですが、そこでいろんな話をして、「これってこういう感覚なんだと思うよ」とか、酒井の話からだけでもわかることがたくさんあった。迷いがあるならいっしょにやったほうがいいなと思って。

酒井 リーダーシップをもって、ある強靭な意志とともに映画を作る人なので、「共同監督」ということを聞いたときには、「マジで? いいの?」という感じでしたよ(笑)。

(Page2へつづく)