【Interview】「記憶を未来に聞き届けるために――東北記録映画三部作」酒井耕・濱口竜介監督ロングインタビュー 聞き手=萩野亮

『なみのこえ 新地町』©SilentVoice

『なみのこえ 新地町』©SilentVoice

|「いま、空間変わったよね」

――『なみのおと』の時点で、語り手を交互に座らせてそれぞれに正面からカメラを向けるという、あの特有の撮影と編集のスタイルが確立されています。それはおそらく、おふたりに「語りを正面から撮りたい」という思いが明確にあったからなのだろうと思います。

濱口 顔ってものすごく情報量があると思うんですね。でもそれなら斜めから撮ってもいい。真正面に入るのも、カメラの背後に自分が入ってしまえば難しくない。でも何かそれはとても暴力的な感じがしたんですね。「さあ、しゃべってみろよ」というような。そういう感じを避けながら、かつ正面にカメラを置くことはできないだろうか、と。正面にカメラを置くと、スクリーンから観客に向けて直接「力」が行く、そのことは良いときも悪いときもあるんですが、今回はそれがあってほしいとすごく思っていたんです。

酒井 いくつか事前に撮った映像は斜めからとらえているんですね。どうしたらいいかわからないけど、何か違うということだけはわかる、そういう映像だったんです。正面に置こうと決めたときに、何か「そうだよね」という感じがした。

――3部作を通じて「語り」ということにフォーカスを定めています。風景ではなく、人物とその語りに焦点をあわせていったのはどういうところからでしょうか。

濱口 風景を撮れない、という感覚がいちばん最初に行ったときからあったんですね。震災直後にいちばんよく目にしたのが、車載映像というか、車の窓横にカメラを据えて、流れる風景とともにこんなにすごい被害があるんだということを圧倒的なスペクタクルとして撮ったものでした。でも、現場に行って感じるようなものはものすごく削ぎ落とされている。

ことばとして納得したのは、「みんなただのモノになってしまった」と仙台の人がいっていたそのことです。そしてカメラは歴史を欠いた「モノ」としてそれを写すわけですね。僕たちは津波が起きたことを知っているし、知っているからこそモノの映像からでも何かを感じることができるけれど、いつかはただの瓦礫、ただのモノの映像にきっとなってしまう。記録として残っていることはもちろん有用なことですが、これだけではこの映像たちはいつか死ぬだろうという感覚がありました。

語りを撮ろうと思ったのは、6月ぐらいに10人くらいいる空間で、石巻の市議さんという方が自分の体験を語ってくださった機会です。その語りの最中に場の空気が変わったという感じがあったんですね。みんなこの話を聞かないといけないという感じで、すごく息がつまった。ぎゅーっと空気がねじ曲がる感覚があったんです。津波はもう起こってしまったことだけど、この「ぎゅーっという感じ」はいまここで起きていることだなと感じて、それだったら撮れるかもしれないと思ったんです。ことばにはならないことだけど、いまここでたしかに起きているのだから、カメラを据えれば何かが映るに違いないと。それで語りを撮ることを始めました。

酒井 僕が体験したのは、始めにもうひとつプロジェクトが決まっていて、「みやぎ民話の学校」という、被災した民話の語り手が自分の被災体験を語るというイベントがあって、その記録映像を僕らのチームで担当することが決まっていたんです。のちに『うたうひと』にご出演いただく小野和子さんがいらっしゃる「みやぎ民話の会」が、被災した語り手から体験談を聞きだすということがあって、僕らはカメラをもたずにそれに同行したんです。それは話の聞き方から何からものすごくていねいでした。

そのあとみんなで泊まったとき、大勢がいるなかでひとりひとり民話を語るという場に立ち会ったんです。そのときに僕は、さっき濱口がいったような、空間がねじ曲がって、何か距離よりも近く感じるような体験をしたんです。 それで僕らはマジックワードのように「空間が変わる」ということをいい始めました。「いま、空間変わったよね?」と。そういうことばを使ってみることで、何かそこに向かっていけるような感じがしたんです。

――3作すべてを通じて、出てこられる方たちがほんとうに素敵だと感じます。彼らとはどのように出会われたのでしょうか。

濱口 まず何より話を聞かせてもらえるか、カメラを向けた状態で話せるかどうかという不安があって、すでにメディアに向けて話されている方にまず話を聞きに行きました。その一方で、それだけでは、という気もちもあって、ボランティア団体などに紹介してもらいました。そうして出会った『なみのおと』の最後に出てくる姉妹の会話がすごくよかった。

酒井 あの姉妹は、僕らも撮りながら、「ああ、いいなこの空気」というのがありましたね。同年代ということもあって、僕らもフランクに話せた。最初はお姉さんに話を聞いていて、二回くらい会ったときに「妹もいる」というので、ふたりに話してもらったらもっと良くて。長い時間をかけて撮りました。カメラのモニタを見ながら撮影しているわけですが、何かそれが一瞬消えるような体験をした。カメラが消えるんです。モニタを越えて、彼女たちと見つめ合っているような気もちになれた。

濱口 それは次の『なみのこえ』の課題になったんですね。姉妹はいってみたら他愛のないことをしゃべっている。その前に出てくるご夫婦の体験というのはほんとうに壮絶なもので、そのすごさを追体験するような感覚も強かったけれど、ふたりの姉妹は、彼女たち自身の魅力や、その関係性の魅力自体が映った。だとすると、誰に対しても魅力自体を引き出すようなアプローチをすることができれば、とてもよいものが映り続けてくれるんじゃないかなというのが、『なみのこえ』の発端にあったんです。

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