【Review】「東北」を移動する記録映画〈ロードムーヴィー〉酒井耕&濱口竜介「東北記録映画三部作」 text 岩崎孝正

なみのおと

『なみのおと』

濱口竜介&酒井耕監督の『なみのおと』『なみのこえ』(新地町、気仙沼)『うたうひと』は、8時間にわたる記録映画だ。『なみのおと』は岩手県宮古市田老から福島県の相馬郡新地町、『なみのこえ』は相馬郡新地町と宮城県気仙沼市、『うたうひと』は宮城県の各地民話を採集している。8時間の映画体験は、ひとに何をもたらすだろうか。濱口・酒井監督は彼らの話を「聞く」ことを主題としたという。本作は、劇映画で登場するような俳優や女優はいない。登場するのは東北各地の村や町の人である。日常的な会話(対話)を交わしていくひとびとは、それぞれの「震災後」を語る。会話は、ともすると自分へ語りかけてくるかのような錯覚を受ける。

東北記録映画三部作は、いま「濱口竜介プロスペクティヴin Kansai」で上映されている。また『なみのこえ』は2013年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でも公開される予定である。


カメラポジションと「対話」

数カット、波うち際や、破壊された堤防が映される。アッバス・キアロスタミ風に、車両の窓から外の風景を映す。車両にとりつけたウェアラブルカメラが、濱口監督の手にもつ山口弥一郎著『津浪と村』を映す。濱口・酒井両監督は、冒頭から三部作の終わりまで、村や町ひとつが消えた「被災地」の情景を正面にとらえることはない。震災・津波をテーマとする記録映画(ドキュメンタリー)にもかかわらず「悲劇の土地」が映らない。みなは不思議な光景を目の当たりにするはずだ。濱口・酒井監督は、この映画で何をとらえようとしたのだろうか。

『なみのおと』『なみのこえ』(新地町、気仙沼)のカメラが映すのは、主婦から消防団員、印刷業者、石巻市の市議会議員、飲食店経営者、呉服屋、自営業の夫婦、結婚間近だった若い夫婦、工場勤務の父親、新地町役場の元同僚、新地町の漁師親子、新地町の図書館職員など19組33名の「対話」だ。一人のは両監督が話をきく場合もある。2名~3名のばあいは、お互いが遭った震災について語らせている。三部作をとおして、まず登場人物の多さに驚くはずだ。そして、ほとんど「対話」しか映らないことに、もしかしたら不満を抱くかもしれない。

濱口・酒井監督は、たんに東北沿岸部で、不特定多数の者たちへインタビューを試みたわけではない。無作為のように見えて、そこには一定の関係性があるのだ。彼らは明確な目的意識があったに違いないのである。

『なみのこえ 新地町』

『なみのこえ 新地町』

両監督は、震災・津波・原発による人と人との関係性の亀裂を、日本のどこにでもある普遍的な問題としてとらえている。多種多様な人々をインタビューにすることにより「被災者」を私たちの身の周りにいる普遍的な存在としてとらえている。両監督は震災をステレオタイプ化されたありがちな悲劇としてとらえない。災害を普遍的なものにするのではなく、災害によってあらわれた人間関係の問題を普遍化しているのだ。ショットの巧みさと登場人物の豊かさは、そのまま映画メディアのもつ多様さを表象する。

登場人物は被災によって変化を余儀なくされた生活を、ほぼ日常的な会話で語る。そこに通っているのは、ある親しげな感情である。彼らの関係は震災によって亀裂が入り、関係性の変化もあったはずだ。私たちはかつての親しい関係が対話によって修復される光景を目の当たりにする。もちろんそこには対人関係の問題だけでなく、彼ら自身の心情の関係も横たわっているに違いない。ごく些細な会話は、逆説的にではあるが、リアルなそれぞれの「震災」を浮かびあがらせている。

お互いが面と向かい合うバストショットは、まるでビデオレターのようにフレームする。よどみのない会話をしてもらうのに、両監督がどれだけ苦心をしたのかはわからない。ドキュメンタリーは、あらかじめ用意されたセリフを喋ってもらうわけではないからだ。巧みな演出は見る者を飽きさせない。

だが、すべてのシークエンスで会話しか映さないのは、ドキュメンタリーにとって実はかなり難しい。一つのカメラをあつかうドキュメンタリストたちは苦手とするだろう。複数のカメラをズームから広角のレンズをつかってアンサリングショットで映す試みは、真新しい。

見る者は両監督のカメラポジションとフレーミングの巧みさに魅了されるはずだ。(肩からの)ナメショット、ズームショット、1カメ、2カメと座席位置を移動させてのバストショット、シンメトリー法、イマジナリーラインの横ぎりから目線が飛んで……と、劇映画のカメラポジションとフレーミングをほとんど教科書どおりに援用している。手持ちカメラで撮影するドキュメンタリーとは一線を画しているのだ。劇映画を撮影してきた濱口・酒井監督だから当たり前といえるのだが、やはり巧みなのだ(オートフォーカス誤作動など問題はあるが)。では彼らがそこまで「対話」にこだわった理由は、何なのか。

『なみのこえ 気仙沼』

『なみのこえ 気仙沼』

「東北」を移動する記録映画〈ロードムーヴィー〉

『なみのおと』は、昭和三陸大津波の紙芝居の朗読からはじまる。つづいて岩手県宮古市田老の老婆の対話を濱口監督がきく。この土地は869年の貞観地震から、昭和にかけ津波が多発している土地である。話は、過去の津波からはじまる。私たちはそこで少し立ち止まる。2011年の東日本大震災ではなく、半世紀も前の過去の話からはじめるのだから。やはりここにも明確な意図がある。紙芝居から老婆の対話は、じつは三部作のラストに位置する『うたうひと』につながっているのだ。

彼らは三部作を通して、まるでワープするように終着点の新地町までクルマで駆る。ロードムーヴィーのように。「被災地」での彼らの言葉は、ふつうメディアのなかで表象できないぐらいの些細なものにもかかわらず、彼らはクルマのアクセルを踏みっぱなしで言葉を採集する。たとえば終点の新地町を竹水門とすると、以北は未開の土地である「奥州」だと言いたくなる。くりかえすが、両監督は映画メディアをつかい、テレビやラジオなどのメディアでは不可能な「言葉」を採集していくのだ。

『うたうひと』は、三部作の最後に位置付けられている昔話の採集の記録である。採集者である小野和子と両監督は、ともに宮城県各地の昔話をききに行く構成となっている。たとえば『なみのおと』の冒頭の紙芝居の世界は、3・11以後現実となった。じつはこの紙芝居や『うたうひと』の昔話は、対話によって、いかに民衆の物語が変化していくのかの記録なのだ。本作は、昔話を時間芸術たる映画に刻印しようという野心的な試みでもある。まさしく映画の実験的な試みが東北記録映画三部作には描かれている。三部作の終着点である『うたうひと』の民話採集の記録は、はるかな過去の震災・津波と、「対話の映画」の時間の交錯にある。

『うたうひと』

『うたうひと』

『親密さ』と東北記録映画三部作

時間の交錯と言って、頭によぎるのは、濱口監督の前作『親密さ』のショットと構成ではなかろうか。『親密さ』は、舞台劇「親密さ」の初演を成功させようと葛藤する若者たちの群像劇だ。一部が劇映画、第二部が彼らの演劇の上映となる。彼らは演劇の行き詰まりから、インタビュイーとインタビュアーの関係となり、ごきありきたりな対話を重ねる。彼らはバラバラになりつつあった関係性をもう一度見直すのだ。「あなたは私ですか」と『親密さ』の令子は言う。インタビューされるのは、恋人である良平から、脚本家である佐藤などだ。彼らは既知にもかかわらずあらためて自らの境遇を語る。アンサリングショットからバストショット、クローズアップされた彼らは、一様に笑顔だ。令子の質問は、そのまま第二部の演劇の上演に活かされて、ほんらいの関係性を主軸にした演劇は会話劇としてあらためて成立する。

東北三部作のカメラポジションは、『親密さ』のインタビューのショットを援用しているのはあきらかである。濱口・酒井両監督が本作で狙っていたのは、震災・津波の悲劇を会話劇(ドキュメンタリー)としてとらえなおす試みでもあったのだ。

ただ、本作は対話を主軸としながら、じつは全く別の人と災害の関係性を映しだしているのも事実だ。これも、この映画を見る上で重要な鍵となる。

たとえば石巻市の避難所で、濱口監督はインタビュアーをアンサリングショットで映す。酒井監督の質問に答える市議の方のはるか後方で、避難所生活を余儀なくされている者たちが廊下を歩いていく。部屋の外にちらちらと映る者たちはほとんど気のみ着たままである。衛生状態も良くないのかハエが飛んでいる。また気仙沼市の漁協ではシンメトリーの構図でとらえたショットの窓の外で、ゆったりと漁船が海を漂う。試験操業からようやく漁が開始された期間のはずで、両監督はあるべき映像として、気仙沼市の漁のはじまりをとらえている。さらに新地町図書館からの窓外の風景である。新地町役場を定年退職された伏見さんをバストショットでとらえる。その後ろの窓外で、パワーシャベルが護岸工事のためがれきを撤去している。窓外に映されている光景は、「対話の映画」とはまったく別の震災の時間を映している。彼らの本来の生活は、町や村と破壊された自然との関係性とともにあるはずだ。つまり、先に日常的な会話と書いたが、そこに暮らす者たちのほんらいの生活は窓の外にある。そこには生半な「劇映画」が成立しないような時間がえがかれている。被災体験の取材をもとに、両監督は劇映画化することも可能だったはずだが、それを選択しなかったのは、「被災者」たちの本来的な時間こそが劇的だった(または劇的になる!)からに違いないのだ。

震災はたしかに悲劇的だ。だが、『なみのおと』『なみのこえ』(新地町、気仙沼)『うたうひと』の19組33名の登場人物たちは、見る者へ希望を持たせてくれる明るさがある。身の周りで亡くなった者がたくさんいるにもかかわらず、彼らの会話にはなぜか重苦しさがただよわない。そう感じるのは私だけであろうか。友人を亡くし涙を流す者、あっけらかんと夫婦で救出劇を語る者、亡くなった友人を墓前で悼む者……。震災の体験は、想像を絶していたはずだ。だが受け取りかたは人それぞれなのだ。東北記録映画三部作は、震災体験の多様性を、はるかな過去からの時間を通過してもなお、そのまま映画として体験をさせてくれる。まさに稀有な記録映画なのだ。


【作品情報】

『なみのおと』(2011年 / 142分 / HD/ カラー)
製作:東京藝術大学大学院映像研究科 / プロデューサー:藤幡正樹、堀越謙三 / 監督:濱口竜介、酒井耕 / 撮影:北川喜雄 / 整音:黄永昌

2011年7~8月に撮影された岩手県から福島県沿岸部の、津波被災者6組11人への対話形式インタビューの記録。

『なみのこえ 気仙沼』(2013年 / 109分 / HD/ カラー)
製作:サイレントヴォイス / プロデューサー:芹沢高志、相澤久美 / 監督:濱口竜介、酒井耕 / 実景撮影:佐々木靖之

2012年1月から2013年3月に行われた宮城県気仙沼市に暮らす7組11名への対話形式インタビューの記録。

『なみのこえ 新地町』(2013年 / 103分 / HD/ カラー)
製作:サイレントヴォイス / プロデューサー:芹沢高志、相澤久美 / 監督:濱口竜介、酒井耕 / 実景撮影:北川喜雄 / 整音:鈴木昭彦

2012年1月から2012年6月に行われた福島県新地町に暮らす6組10名への対話形式インタビューの記録。

『うたうひと』(2013年 / 120分 / HD/ カラー)
製作:サイレントヴォイス / プロデューサー:芹沢高志、相澤久美 / 監督:濱口竜介、酒井耕 / 撮影:飯岡幸子、北川喜雄、佐々木靖之 / 整音:黄永昌 /助成:文化芸術振興費補助金 ほか

宮城県に暮らす語り手による東北地方伝承の民話語り。これは同時に彼らを訪ね続けた聞き手の記録でもある。

 

三部作 予告編 https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=X-VH9F_K-NA

 

公式サイト
『なみのおと』 http://silentvoice.jp/naminooto/
『なみのこえ 新地町』『なみのこえ 気仙沼』 http://silentvoice.jp/naminokoe/
『うたうひと』 http://silentvoice.jp/utauhito/

【上映情報】更新しました

酒井耕・濱口竜介監督 東北記録映画三部作
11/9−22 東京・オーディトリウム渋谷にて公開

プログラム詳細(ゲストあり)http://a-shibuya.jp/archives/7426

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【執筆者情報】

岩崎孝正(いわさき・たかまさ)
1985年福島県生まれ。フリーライター。現在相馬市在住。せんだいメディアテークの「わすれン!」に参加しています。短編の映像を編集作業中です。