【Review】『VIDEOPHOBIA』の徴 text 桝田豊

 若い女が男の求める声に従い自らの下腹をまさぐり自慰をする。相手はどんな男かと思うとパソコンの画面のなか、恐らくは見ず知らずの相手。

 姓を朴とも青山ともいう女、愛は大阪鶴橋の古びた民家に母、叔母、二人の妹という女ばかりの家族と暮らしている。だが家族とのシーンは僅かで、愛が兎の着ぐるみを着て街に立つアルバイトのシーン、通っている芝居の稽古の場面が映される。まだ一〇代とも、もう三〇近くとも、ヨーロッパ系かとも見える不思議な顔立ちで口数が少なく、おっとりしていて摑み所がないのだが。

 ある夜稽古場の仲間と出かけたクラブで声をかけて来た男と打ち解け、恋のような、俄な好意を抱いて相手のマンションまでついて行きセックスをする。自然な流れ。

 ところがその様子が撮影されていたらしく、後日インターネットに流される。動揺した愛は男を訪ねるが、何も知らない素振りの相手に話を切り出すこともできずその場を立ち去ってしまう。まだ動画に現実味が持てないのかもしれない。すると今度は同じ夜の別の動画が公開される。前のものよりもはっきりと愛が映っている、しかしそれは、相手の男の脇に立つ位置から撮られたあり得ないアングルの動画だ。訳が分からない。だが映っているのも事実だ。急いで男のマンションへ走る。訪ねた部屋に男はおらず、全くの別人が住んでいた。消えた男には電話も繋がらない。

 自分の姿が世界に晒され拡散される、その恐怖を想像させるが、ここで映し出されるのは男の暗躍でも外部への拡散という事態そのものでもなく、動画の不可解な点も含んだ愛という女性の主観的、内的な事象だ。

 そもそもポルノサイトに流出している動画を見つけたのは愛自身で、それを見ているのも映画に映る限りでは当人だけである。愛は動画を撮られたことやその拡散を恐れているが、その動画のなかに、そこに映ってはいない自ら、つまりネットを介した男にオナニーを見せ、何者か知れない男とセックスしていた、しかも趣味のように見ていたポルノサイトで自分が映る動画を見つけてしまう、そんな自らまでを見、その全てが晒されるかのように妄想するだろう。動画の拡散の事実を見る前に、自ら恐怖を増大、増幅させていく。

 そうした様を映画は寡黙に、ただ映像で示していると思う。

 愛が警察に相談したことで動画は他者にも確認される。だが警察官らしい女性は、動画に映っていた女性と、こうして実際に会ったあなたとでは随分印象が違うと言う。女性の言葉は救いというより事の主観性を示唆するものと聞こえる。映画を見る者の目も愛の主観に重なっていると云える。

 一方で似た経験を持つ、被害者の会のようなシーンがある。不自然で奇妙な、見ていて少し苦しいシーンだったが、愛以外の参加者らが被害について話すのはアドリブ的な作り話である。こちらは出来事を客観視する姿勢の提示とは見える。だが愛の救いにはならない。

 姿を消したあの男から不意に電話がかかり、男は「ずっと、見てるよ」と言う。街角に立つ生身の自分までが、得体の知れない不可視の目に晒されている感覚だ。愛はある行動に出る。

 説明のない映像、物語は急な動きを見せて途切れる。というよりジャンプして、ある意味別世界に着地する。そこは愛が逃れた先として明確ではあるが、エキセントリックとも云える着地点でありその見せ方で、こちらは戸惑い呆気に取られた。そして戸惑いが解消しないうち、映画はいかにも不気味なシーンでまたブツっと断つようにして終わる。

 だからそれまで不穏ながら緩やかにた揺蕩うようであった映像、映画が、このジャンプ以降の運びによってタイトで奇抜な短編スリラーのような印象になってしまった。面白いのだが、暗くなったスクリーンを前に何か釈然とせず、きっと物語には他の運びや着地点もあり得た、そのなかでこの展開、この結末が採られたのだと考えて納得していた。

 だが、作品について思い返すうち、そのなかに浮標のように配されたある徴が浮かんで見えてきた。家族、着ぐるみ、芝居、その他より明確な徴。そして思い合わされる、この世界に漂うように暮らす愛という個人、それへの他者による侵害、増幅する外部世界からの主観的圧迫、その世界に在る主体、愛による世界、同時に自身からの逃避の劇、暗示される不安。ああ、この映画は初めから、人物設定、人の姿、その映し方によって、愛の向かう先、後の着地点を示唆し、そこのみへ向かって進んでいたのだ。そのように見え、だから映画を見ながらそんな徴を感受し、想像していれば、あの変転を見て、こちらは戸惑い呆気に取られた、ではなく、この映画の企みと自らの感覚が調和するような快さを得られたのかもしれない。なお釈然としない所は残るものの、そのように映画を読み切れなかった自らを残念に思わせる、難解ということではないのだろう、問題作だった。

 そんな鑑賞者だが、見ていて特徴的に感じたのは幾つかのショットで、本作は全体的にモノクロの映像が柔らかに肌に触れるような質感を湛えているが、その流れのなか、特に鶴橋の商店街を映したショットでは、瞬間、ここはいつのどこで、これはいつの、どこの映画かと、視覚、平衡感覚を揺さぶられるような感覚があった。程度としては微かだが似た感覚のショットは所々にあり、その違和感が心地よく、そんなショットにこの映画は、少なくとも見ているこちらは運ばれていたようだ。

【映画情報】

『VIDEOPHOBIA』
(2019年/日本/モノクロ/88分) 

監督・脚本:宮崎大祐
音楽:BAKU(KAIKOO)
プロデューサー:西尾孔志
撮影:渡邉寿岳
録音:黄永昌
製作:DEEP END PICTURES、十三・シアター・セブン

出演:廣田朋菜、忍成修吾、芦那すみれ、梅田誠弘、サヘル・ローズ

配給・宣伝:boid/VOICE OF GHOST
宣伝協力:クエストルーム株式会社
公式ホームページ:videophobia2020.com

画像はすべて©「VIDEOPHOBIA」製作委員会

10月24日(土)よりK’s cinema、11月7日(土)より池袋シネマ・ロサ、第七藝術劇場、他全国順次公開


【執筆者プロフィール】

桝田 豊(ますだ・ゆたか)
1975年福井県高浜町生まれ。ライター。
2015年、小説「小悪」で第25回早稲田文学新人賞受賞。
最近作は小説「ムラの子供」(早稲田文学2020年夏号)。