【連載】LA・ドキュメンタリー映画紀行 〈2〉ロサンゼルス、ロックダウン下で思うこと text 中根若恵

街のいたる場所に現れたBlack Lives Matterのグラフィティ。撮影は7月。

アメリカ社会に根深くはった人種問題の可視化を一気に加速させたBLM(Black Lives Matter)、深刻な大気汚染をもたらした西海岸の山火事、混迷を極めた大統領選に、アメリカ各地でのパンデミックの第二波、第三波の到来。2020年は、次から次へと起きる悲劇的な出来事をひたすらメディアを通じて眺める一年だった。年の瀬も迫るなか、カリフォルニアでは1日のコロナ感染者数が5万人を超え、重症患者で埋め尽くされた病院のICUの空き病床もついに尽きたという衝撃的なニュースを目にしながら、8月の半ばから始まった大学の秋学期がようやく終わりをむかえた。

前回の連載から長く期間が空いてしまったのは、長引くパンデミックで当初の連載予定項目に関わるインタビューや調査ができなかったことも一因だが、それ以前に、次から次へと生じる問題や出来事を前に呆然とし、感情的に圧倒されるがままになってしまったことが大きい。グローバルな規模で起きるカタストロフィックな出来事が、修復不可能なほどに分断された社会の状況を浮き彫りにする状況を目にして、ただ無力感に手足がすくんでしまう日々だった。

ロサンゼルスの街がロックダウンされる直前、最後に参加したパブリック・イベントとして記憶に強く残っているのは3月上旬に開催された民主党革新派議員バーニー・サンダースのロサンゼルス支持集会だった。グリーン・ニューディール政策への賛同、国民皆保険の導入などを根幹とするサンダースの政策は若者層から熱狂的な支持を集めており、カリフォルニアではバーニー旋風が巻き起こっていた

3月1日にロサンゼルスで開催されたバーニー・サンダースの支持集会。

しかし会場で感じた人々の熱気とは裏腹に、予備選でジョー・バイデンへと軍配が上がっていくにつれ、変革への希望は徐々にかき消されていった。街中にあふれるホームレスたち、そして高額な医療費・保険費用のために医療へアクセスできない人々が多く暮らす超格差社会・アメリカの現在を見ていると、この社会が急進的な変革を求めていることは自明だった。革命への兆しをサンダースへの熱狂に読み取っていた私は、彼の敗退をやるせない思いで眺めることになった。希望の象徴だったサンダースの敗退と皮肉にも時期を重ねて、自宅滞在命令によってロックダウンされたロサンゼルスの街はすっかり活気を失っていった。

以来、大学はすべてオンラインのプラットフォームへと移行し、授業への出席も、ティーチングアシスタントの仕事もすべてPCのスクリーンを介して行うことになった。家から一歩も外に出ない日が続くなか、部屋の窓から見える街路樹の椰子の木がなければ、自分がロサンゼルスにいるということもとっくに実感しなくなっていたかもしれない。

自宅の窓から見える風景は椰子の木の色も含めて常に変わらず、季節の移ろいを感じることも難しい。

そのようにしてバーチャルにでも大学という組織に属しながら日々感じていたことが、アカデミアに蔓延する学者らや人文系の学生たちの存在不安だった。停滞し悪化していく現状がもたらした社会全体に広がる不安は、大学という空間も例外なく侵食していた。オンラインの催しや大学の友人との会話で、学者たちがこの時代に知識人たちはどのような役割を果たせるのか、果たすべきなのかと問う場面に繰り返し遭遇した。私たちは社会とコミュニケーションが取れているのだろうか。ただ、空っぽの穴に向かって叫んでいるだけじゃないだろうか——と、そんななか友人がつぶやいていた一言が忘れられない。日本の社会をおおう息苦しさに耐えかねてアメリカへと出てきた自分にとっても、自らの立ち位置を問い直すこうした議論の提示する問題は、のっぴきならないものだった。しかし、無力感に手足がすくんでいた自分にとって、それはあまりにも大きすぎる問いで、無意識的に考えることを避けてしまっていた。

そうしたなか、トロント大学がオンラインで主催した「残酷な楽観主義の未完の課題:クライシス、情動、センチメンタリティ」(The Unfinished Business of Cruel Optimism: Crisis, Affect, Sentimentality)というイベントは、自らの足元から研究者としてのあり方について再考する一つのきっかけを与えてくれた。この企画は、ローレン・バーラントが2011年発表の本で提唱した「残酷な楽観主義」(Cruel Optimism)という概念を2020年というコンテクストに位置付けながら、バーラントを含めた複数の登壇者たちがその概念の批評的可能性を再考するという内容のものだった。

より具体的にいえば、ナショナリズムと情動が交差する地点から私たちが服従する集合的ファンタジーの解明を試みるバーラントの批評概念を用いて、BLMやアントロポセンの問題系統をめぐる現状を批評する言語を探るのが中心となった催しだった。例えば、登壇者の一人であるレベッカ・ワンゾは黒人を含めた有色人種のコミュニティは「より良き豊かな生活へ」というアメリカン・ドリームのファンタジーに、より極端ななかたちで翻弄されていると論じた。2045年までに白人の人口が半数を割ることで彼らがマイノリティの立場へ転落するという論に進歩的な未来を見る行為は、イタリア系やアイルランド、ポーランド系移民らが白人のカテゴリーへと組み込まれていった人種をめぐる複雑な歴史的プロセスの忘却の上に成立する「残酷な楽観主義」だとワンゾは語る。

「残酷な楽観主義」とは、様々な対象にむけて私たちがもつアタッチメントが、私たちの生を存続させるのと同時に、私たちの足かせにもなっている状況——いわば「情動の監獄」とも言える状況を指している。なぜ人々は、それが自己破壊的な行為であることが明白なのに、政治家たちの自己愛的・権威主義的で稚拙なパフォーマンスやレトリックに希望を見出し、彼らに追従するのか。今回の選挙では、トランプがラテン系の人々の高い支持を得たことが注目を集めたが、トランプの提示するアメリカン・ドリームへ期待を寄せることは、排他的な移民政策を打ち出すトランプに間接的にでも加担することを意味し、皮肉にもラティンクスのコミュニティーに属する人々自身を人種差別や場合によっては強制送還の危険にさらすことと直結している。それにも関わらず、トランプはなぜ彼らから支持を集めるのか。ひとつにはラテン系のコミュニティが、歴史的に他の移民グループが経験してきたのと同じように彼ら自身を白人社会へと同質化していくプロセスが生じていることも関係しているだろう。人種差別、階級問題、環境破壊そしてパンデミックと様々なレベルでのクライシスが複層化し、偏在する状況を前にして、日常的な感性の領域を分節化することによって、こうした複雑な問いへの答えようとするバーラントらの試みは、情動や日常性といった足元にある感覚から、歴史的社会的な公共性の構築を読み解くヒントを与えてくれた。

思えば、趣味だった街歩きをやめ、街の空気に直に触れないまま、メディアを介してのみ2020年という年を形成する悲劇的でメロドラマ的な物語に接してきた私は、ワンゾの言うように「2020年は史上最低の年」というトランスメディア的な「絶望の物語」の消費にひたっていたのかもしれない。無自覚にその物語消費に身を委ねているうちは、そこから現状を変革するオルタナティヴを想像することはとうてい不可能だ。ロサンゼルスの部屋に一人こもって過ごす日々は、いまだにどこか現実感がなく、現実に触れたいという切迫感から私はさらにオンライン上に氾濫する「悲劇の物語」を読みあさっている自分に気づく。しかし、このイベントからは、自らの接するプラットフォームを精査し、そこから立ち現れる感傷的で、感情的な物語のありようを見つめることこそが、感情の歴史性を正面から捉え、真の意味でのオルタナティヴな場や公共性について考えるための重要な一歩なのだという、非常に単純ではあるが忘れがちだった基本を再確認する契機を得たように感じた。

アメリカでワクチンの接種が始まったというニュースを耳にする一方で、いまだにパンデミック収束までのはっきりとした道筋は見えてこない。しかし、自らを情動の監獄に閉じ込めるのではなく、情動が駆動されていくプロセスそのものを自省的に振り返ることで、その歴史性を見つめ、「残酷な楽観主義」のメッキを外した先にあるオルタナティヴについて思考することをこの場所から続けたいと意志を新たにする年末になった。

【執筆者プロフィール】

中根若恵(なかね・わかえ)
1991年生まれ。南カリフォルニア大学映画芸術学科博士課程在籍。専門は映画学とジェンダー論。論文に「作者としての出演女性——ドキュメンタリー映画『極私的エロス・恋歌1974』とウーマン・リブ」(『JunCture 超域的日本文化研究』7号、2016年)、「親密圏の構築——女性のセルフドキュメンタリーとしての河瀨直美映画」(『映像学』97号、2017年)。