東日本大震災から10年の節目となる2021年3月。テレビ各局は様々にこの10年を振り返り、被災地の今を伝える番組を放送するだろう。しかし、私はこの未曽有の大惨事を伝えるのにテレビという媒体には限界があると思っている。
2011年3月当時、私はテレビ岩手で報道部長を務めていた。地震発生から5分足らずで通常の番組を飛ばして緊急放送に切り替えた。コマーシャルも放送せず、刻々と入ってくる情報を伝え、現場からの映像を伝えた。地震からほぼ30分後、岩手県宮古市の魚市場に設置した情報カメラは、魚市場一帯を襲う巨大津波の映像を映し出していた。車が波に押し流されるなんて。想像したこともない光景だった。その映像に驚愕しながらもキー局である日本テレビとのやり取りや現場に記者を配置し、系列局の応援を仰ぐなどの実務に追われていた。
2004年12月に発生したスマトラ沖地震で発生した巨大津波の動画は、日本の茶の間にも飛び込んできた。放送では初めてのことだったと思う。その映像を見たとき、津波常襲地帯の三陸沿岸を取材範囲とする地元局で報道に携わる者として、「明日は我が身」という思いを強くした。その後報道部の責任者となり、系列局、特に東北太平洋沿岸の宮城テレビ、福島中央テレビと連携して津波対応訓練を重ねていた。そして心配していたことが実際に起きてしまった。
震災から一週間は、地震と津波に関する報道だけを放送した。そのうちに視聴者からのクレームが多くなってきた。「もう津波の映像は見たくない。」「流さないでくれ。」確かに大事な家族を亡くした人も多いだろう。しかもテレビは見たくなくてもお茶の間に侵入してくる。嫌ならテレビ岩手を見なければ良いと言っても、どこの局でも津波の映像を流している。私は社内や応援に来てくれていた系列局の人たちとも話し合って、津波映像の使用を抑制する方針を決めた。程なくして他局も津波映像の放送を控えるようになった。不特定多数の視聴者を対象とするテレビ報道では、あまりにも刺激的な津波映像の使用を抑制しなければならないことは仕方がないと思う。しかし、私がスマトラ沖地震で津波映像を見たときの恐怖が、東日本大震災の報道をするうえで大きな推進力になっていたことも事実である。
その点、映画ならどうだろう。お客様はわざわざ決まった時間に、お金まで払って作品を映画館に見に来る。ご自分の意志で来てくださるのだから、そこに大事な真実を込めることはむしろ必要なのではないか。また歴史的にも大事な事件を、映像記録として後世に伝えること。映画には「送りっ放し」のテレビとは違う役割があるのではないか。社内に実行委員会が設置され映画作りが始まった。津波映像を入れることは、減災のためにも大事なことだ。きちんと津波の実像を紹介しよう。委員会の意志は固まった。
構成は、私が長年関わってきた日本テレビ系列のNNNドキュメントで500本以上のドキュメンタリー番組を編集してきた佐藤幸一氏。編集は、やはりドキュメントで20年以上私とコンビを組んできた田中進カメラマンに頼んだ。さらに地震発生以来定点観測や、地域の人の取材を積極的に行ってきた三浦裕紀記者も加わった。三浦は1981年大船渡市生まれ。被災地には格別の思い入れがある。この4人で1850時間にも及ぶ東日本大震災と津波の映像を掘り起こし、新たに取材して映画にしようというのだから無謀だ。しかしこの4人は(少なくとも作業が始まった時点では)映像記録、ドキュメンタリー映画を作ることに燃えていた。佐藤さんは、68歳で仕事を辞め住所を東京から奥さんの実家がある仙台に移していた。佐藤さんとの打ち合わせに行く前、三浦にどんな取材をしたいか尋ねてみた。三浦の答えは意外なものだった。「震災直後にたくさんの人のビデオレターを放送しましたね。あの人たちの今を追ってみたい。」
災害報道では、通常亡くなった人や行方が分からない人の名前を伝える。ところが東日本大震災では夥しい人たちが犠牲になり、むしろ生存情報が貴重だった。当初は避難所に掲示されている避難者の名前をアナウンサーが読み上げた。そのうちに、被災者の方たちが自らマイクを握って、「〇〇市の〇〇です。〇〇の避難所にいるから心配しないで。」という話から「お父さんは流されてしまった。」「妻は行方不明で遺体安置所を訪ね歩いています。」という悲しい話まで語られるようになった。放送した人は950人にも上った。三浦はその人たちの10年後、今を取材したいというのだ。
それは無茶だ。私は即座に他の方法を考えるように言った。とてもじゃないが10年前の被災者を広い被災地で探すなんて無理な話だ。しかし三浦は「いや、ぜひやらしてください。」と言って引きさがらない。私は説得をあきらめて、編集の都合もあるからと11月いっぱいは被災地めぐりをしてもいいけど、12月からは編集に専念するよう約束して三浦を送り出した。カメラマンは、私の相棒田中だ。10月中旬からの一週間、二人は被災地を駆けずり回った。三浦が、10年前のビデオレターのうち、当時の住所がわかっている人だけを対象に、スマートフォンに映像を録画して「この人は知りませんか?」と訪ね歩いた。当たり前のことだがなかなか消息はつかめない。新型コロナが蔓延する中で、感染者が極端に少ない岩手県の沿岸地域では、盛岡ナンバーの車が来るだけで嫌がられたこともあったという。
苦労しながら回っているうちに、二人は小松紀久代さんという80歳の女性と出会った。この人の取材をした日は11月11日。奇しくも紀久代さんと、津波にのまれて亡くなった夫、久晃さんの誕生日だった。紀久代さんは久晃さんの遺影を抱えてハッピーバースデーを歌い、最後に投げキッスをした。三浦と田中は帰社するなりその映像を見せてくれた。この10年間、変わらず夫を愛し続けてきた妻。見ているだけで涙が出てきた。この映像を仙台の佐藤さんにも見てもらった。当初考えていた記録映像を作るという考えはすっかりうち破られ、被災地に生きる人間ドキュメントにしようと思った。タイトルも、パリ市の紋章に記されている「たゆたえども沈まず」に決めた。セーヌ川の流れに翻弄されても沈まないという船乗りの心意気を表したという言葉。それは、一瞬の津波で人生が変わってしまった人たちが、この10年を生き抜いた歩みを伝えたいという思いからだった。その後も二人の被災地めぐりは続き、最終的に9人の被災者を取材することができた。
映画の柱はいくつかあるが、その中でも重要なのが三陸鉄道だ。1984年、全国で初めての第3セクター鉄道として開業した三陸鉄道の歴史は、1896年に発生した明治三陸大津波の復興を願った地域住民の要望から始まった。90年近い年を経てようやく実現した岩手県久慈市から宮古までの北リアス線と、釜石から大船渡市盛までの南リアス線の開業。しかし過疎化によって乗客が減り続けている中で見舞われた大地震と津波。それでも三陸鉄道は地域住民の足を守ろうという誓いを守って、震災からわずか5日後、一部区間で営業を再開した。しかも3月いっぱいは無料とした。その後3年で当初の三陸鉄道区間の営業を再開。そして宮古―釜石間50キロ余りのJR山田線をJRから移管され、やっとリアス線全線が開通したのは2019年3月だった。その半年後には台風19号が三陸沿岸を襲い、93か所が被害を受けたが、2020年3月には完全復旧を遂げる。東日本大震災や台風被害にあって幾度も鉄路を絶たれるも、その度に地域住民の足を守るという社是を貫き通して立ち上がってきた三陸鉄道。開業の時、運転再開の時、いつも沿線住民は大漁旗を振って三鉄にエールを送ってきた。それは企業体のストーリーというより、次々に迫りくる苦難を乗り越えて生き抜く、一人の人間の姿のように感じた。
地震や津波のことは、もう多くの人の記憶から遠ざかっている。そんなことを言う人もいる。しかし2011年3月以降、全国各地で頻発する大地震。また地球温暖化で相次ぐ集中豪雨。2021年2月13日には最大震度6強の大地震があった。これは東日本大震災の余震だという。あの大地震と津波が、日本全国の人たちの記憶から遠ざかっているかどうかは私は知らない。しかし、被災地で生き抜いている人たちにとってはあの大地震は「つい昨日の出来事」であり、愛する人を亡くした人の心には今も大事な人が生き続けている。そうした思いを抱き続けられる人こそ、真に強い人なのだと思う。
「たゆたえども沈まず」はそうした人たち一人一人の、この10年を描いたヒューマンドキュメンタリーだ。
【映画情報】
『たゆたえども沈まず』
(2021年/日本/カラー/DCP/16:9/ドキュメンタリー/103分)
監督:遠藤 隆(テレビ岩手)
ナレーション:湯浅 真由美
構成・編集:佐藤 幸一
音楽:馬場 葉子
制作協力:日本テレビ放送網株式会社、株式会社宮城テレビ、株式会社福島中央テレビ、NNN 取材団
特別協力:読売新聞社
後援:岩手県・岩手県教育委員会
協賛:株式会社アート不動産、株式会社エヌティコンサルタント、セイコーホールディングス株式会社、 株式会社東北銀行、トヨタカローラ岩手株式会社、株式会社三ツ星商会
企画製作・配給:テレビ岩手
公式サイト:https://www.tvi.jp/tayutaedomo/
画像はすべて©2021 テレビ岩手
3/5(金)よりロードショー
岩手県内4館(フォーラム盛岡、イオンシネマ北上、みやこシネマリーン、一関シネプラザ)
宮城県(フォーラム仙台)、福島県(フォーラム福島)
【執筆者プロフィール】
遠藤 隆(えんどう・たかし)
1956年東京都生まれ。埼玉県立高校を卒業後、大学進学にともない岩手県へ。1981年3月国立岩手大学人文社会科学部卒業。同年4月に株式会社テレビ岩手に入社し、報道部に配属。1987年 1月NNNドキュメント‘87「両手に力をください」でドキュメントデビュー。その後、様々なドキュメンタリー番組を手掛け、数々の賞を受賞している。2007年報道部長、2008年報道局次長兼報道部長を務め、東日本大震災発災の 2011年3月には取材・放送の陣頭指揮をとる。2012年編成技術局長を経て 2016年5月に定年退職。その後もシニア契約社員としてテレビ岩手報道番組を手掛けながら2019年には自身が25年に渡り取材してきた酪農家族を題材としたドキュメンタリー映画「山懐に抱かれて」を初監督。現在はテレビ岩手シニア報道主幹兼コンテンツ戦略室長として新たな番組開発やドキュメントの取材・編集を行っている。