これは、「家」をめぐる物語。
建物としての「家」。そして、「家族」という意味の「家」。
家は、家族を包み込む。
これは、ある夏の、ある家の物語。
第24回釜山国際映画祭でGDK賞他4冠をはじめ、第49回ロッテルダム映画祭、第45回ソウル独立映画祭など数々の映画祭で多くの賞に輝き、あいち国際女性映画祭2020でも『ハラボジの家』として上映され好評を博した、『夏時間』。
監督は、本作が初長編作品となる、ユン・ダンビ。若手女性監督の活躍が際立つ韓国映画界に、新たに現れた才能である。
ある夏の日。
少女オクジュは、父と弟と共に、祖父がひとり暮らす少し大きな家に引っ越してきた。母の姿は、ない。
まだ幼い弟は、お調子者で甘えん坊。難しいお年頃のオクジュには鬱陶しい。つい邪険にしてしまう。
家族三世代の暮らしが始まる。そこに転がり込んでくる、叔母。
まず、この家の造りが素晴らしい。住むものの心理を、「家」はここまで表現するものなのだろうか。
開かれた中二階の扉は、時に誰かの意思で閉じられる。蚊帳は概ね閉じられ、時たま開かれる。玄関は人々を迎え入れるが、歓迎されざる来客はそこで激しく罵倒される。
ベランダで吸うたばこの煙。窓からぼんやり見やる外。物思いに耽り眺める先に映る、それまでとは違う景色。
「家」は、住む者の暮らしと呼応するように息づく、有機的なものなのかもしれない。冒頭、オクジュたちが、それまで暮らしていた部屋を引き払い、祖父の家に向かうそのとき、部屋は既に彼らに対し無関心なまなざしを向けていたようにも思えるのだ。
妻を亡くした祖父が、長い間ひとりで暮らしていた、少し大きな家。
息子たち家族と、娘が転がり込み、一気に賑やかになった家は、おそらくそれまでとは異なる顔を、住む者に向けていることだろう。
スイカ、ぶどう、唐辛子、ミニトマト。夏野菜が青々と繁る家庭菜園。
お喋りしながらつくられ、大勢で囲まれる日々の食卓。賑々しく運び込まれる誕生日のケーキ。おどける弟。
しかし、ここに住む人々は皆それぞれに問題を抱えている。
父は事業に失敗し、妻は出ていった。よって、姉弟には「母」はいない。
祖父は自らの老いに直面し戸惑う。身体が思うように動かない。
叔母は離婚寸前。夫が訪ねてきても断固として扉を開かず、塩まで撒く。
ここに集う者たちは、皆それぞれ「欠落」あるいは「心に空いた穴」を抱えている。
それぞれの心の穴と向き合わなければならない、一夏の物語。
不思議なもので、ぽっかりと穴が開いた者たちは、それぞれうまくパズルのピースのようにお互いを支え合っている。
この家は、人々が寄り集まって過ごす「宿舎」にも似ている。情けない父。気の強い叔母。まだ幼く、母を求め続ける弟、妻を亡くし身体も不自由な祖父。ままならぬ心が寄り添い暮らす場所。
オクジュは母を避けている。怒りの感情を持っている。彼女にとって母の不在は、身近に「手本となる大人の女性」が存在しない、ということでもある。変化していく心と身体を持て余すオクジュ。それを支えるのは、夫と別れることを選んだ叔母である。
大酒を飲み、煙草を吸い、ベランダに派手な下着を干す彼女は、オクジュにこう言う。
若いうちに、恋は、たくさんした方がいい。
おそらく実の母なら、娘にこんな理解のある言葉をかけることはないと思うのだ。若いうちの恋は、親にとって心配の種になりかねない。然るべき時期に、然るべき人と出会い、然るべき結婚をする、娘に対してはそのような期待を持つのではないだろうか。
しかし、叔母は「母」ではない。オクジュの小さな恋を知る彼女の、どこか無責任にも思える言葉は、もしかしたらその「然るべき」人生を過ごしてきた結果、今の離婚騒ぎに至った、という想いによるものなのかもしれない。
そういえば、母も叔母も「夫を捨てた」という共通点がある。
男を見る目を磨くには、若いうちからたくさん恋をするに越したことはない。
これは、「時間」についての映画でもあることにも、気付かされる。
流れゆく時間について。父や叔母がかつて暮らした、この家の時間について。
「父」としての祖父、存命だったであろう「母」、子どもだった(それは今のオクジュと弟のような)父と叔母。
少しかたちを変えて、この家に再び集う彼らの「時間」に、思いを馳せずにはいられない。
オクジュにかける叔母の言葉は、彼女が積み重ねてきた「時間」の結晶でもある。
彼女も戸惑いの時期を過ごしていたのだろう。衝動的で、反抗的で、でも孤独ではいられなかった年頃を、この家で過ごしていたのだろう。オクジュは、かつての自分に重なる。
誰かの時間が、次の誰かの時に繋がっていく。
少女は戸惑いを抱えながら大人になっていく。
彼女にとって、叔母は心強い「センパイ」ではあるが、「母」の代わりにはなり得ない。
弟が甘えてくるのは、きっと今だけ。姉弟の関係性は、変わっていくもの。
困惑しながら日々を過ごしているのは、父も叔母も祖父も同じである。時は流れていく。しかし自分は、留まっている。いつ、動き出せる?
しかし、実はこの大人たちの戸惑いの時間は、「父」であり、「妻」である、という立場を離れ、そして、「祖父」という立場をも離れて、身近な者と向き合い過ごす大切なひとときでもあるのだ。おそらく彼らの心中それどころではないだろうが。
お互い悩みを抱えた父と叔母――いや、それ以前に「兄」と「妹」が、道端でスルメを齧りながらビールを飲む。その時彼らは「子ども」にかえり、夏休みを共に過ごす兄妹としてそこにいる。かつてここで育った兄妹の夏時間を、再び過ごしている。
人々の「時間」は、それぞれの心の揺らぎと共にゆるやかに流れゆく。気づくと暑さは和らぎ、日差しは翳りを帯びてきている。
過ぎゆく夏。秋がきて、冬がきて、春がきて、そしてまた、夏は戻ってくる。季節は螺旋を描くように、少しずつそのかたちを変え、訪れ、そして過ぎてゆく。
この夏、この家に集った者たちにとっては、本意ではなかったであろう、この時間。やがて、懐かしいある夏の出来事として――その暑さ、湿度、日差しの移ろいと共に、いつか愛おしく思い出され、次の誰かに繋がっていくのだろう。
時は流れ、少しずつ変わっていく、家族のかたち。その一瞬を切りとった、この『夏時間』。
ハラボジ――おじいさんの「家」は、季節の移ろいを温かに見守るように、そこに在る。
【映画情報】
『夏時間』
(2019年/韓国/カラー/DCP/105分)
監督・脚本:ユン・ダンビ
編集:ウォン・チャンジェ
製作:ユン・ダンビ、キム・ギヒョン
撮影:キム・ギヒョン
出演:チェ・ジョンウン、ヤン・フンジュ、パク・スンジュン、パク・ヒョニョン、キム・サンドン
協力:あいち国際女性映画祭(映画祭2020上映タイトル「ハラボジの家」)
配給:パンドラ
公式サイト:http://www.pan-dora.co.jp/natsujikan/
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2021年2月27日(土)〜ユーロスペースにてロードショー全
【執筆者プロフィール】
井河澤 智子(いかざわ ともこ)
人は時間が経つと変わっていくものです、普通は。
自らを顧みて、ふと思います。
何ひとつ、変わってないじゃないか、と。
どこかで時間が止まったような感覚があります。
もどかしく厄介な夏時間を、私はもう長いこと過ごし続けているような、
そんな気がしてなりません。
馬齢ばかり重ね、全然成長しない、情けない人生です。