【文学と記録⑨】太宰治と「隠沼」〜前編:『津軽』〜 text 中里勇太

 戦時中の一九四四年、太宰治は『津軽』(*)という小説を書いている。

 津軽半島の中ほどにある金木で生まれた太宰は、上京までのあいだに、叔母の家があった五所川原、中学時代を過ごした青森、高校時代を過ごした弘前といった町に親しんだ。一九四一年に、母の見舞いのために十年ぶりの帰郷をはたすと、太宰はその翌年、翌々年も母の見舞いや法要のために帰郷。さらにその翌年にあたる四四年五月、小山書店から「新風土記叢書」の執筆の依頼を受け、「生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周した」。そうして書かれたのが『津軽』である。紀行文の体裁をなしているが、あくまでも小説であり、本来は主人公の「私」を太宰と同一とみなすことは誤りであるのだろうが、ここでは「私」=太宰治と捉えて考えていきたい。

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 『津軽』の「序編」において、太宰が生まれた町である金木をはじめ、五所川原、青森、弘前といった慣れ親しんだ町について述べていくなか、見慣れないことばが目にとまった。「隠沼」と書いて「こもりぬ」と読む。万葉集などによく出て来るそうで、本作の注解によれば、「草木などが茂っている下にかくれて見えない沼」とある。まずはその「隠沼」が登場する部分を、長くなるが引用する。

「あれは春の夕暮だったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはずれに孤立しているものだとばかり思っていたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さな軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持で思わず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼」というような感じである」

 ふしぎな印象を抱かせる文章だ。「夢の町」とあり、「見た事もない古雅な町」とあるようにそれは太宰が目にした幻想だろうか。けれども、年若い太宰の「ぞっとした」、「ああ、こんなところにも町があった」という感慨には、どこか現実の手触りも感じられる。そればかりか、「息をひそめてひっそりうずくまっていた」その町を見る視点や、そのときもらした「深い溜息」が、いまだ判別のつかない通奏低音として、「隠沼」ということばに集約されているようにさえ思われる。じっさいに『津軽』を読み進めていくと、「津軽」を紹介する太宰の試みはいくどとなく軋み、そこにはたえず「隠沼」が潜んでいるようにさえ思えてくるのだ。

 たとえば、友人が住む蟹田という町について、田畑や、ひば林、海山の幸についてほめあげたのちに、「しかし、この観瀾山から見下した蟹田の町の気配は、何か物憂い。活気が無い」と太宰は書く。また、蟹田のひとの気質についても、「温和というのは美徳であるが、町をもの憂くさせるほど町民が無気力なのも、旅人にとっては心細い」と述べ、そのあとには、「蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかえっている」とある。ここにはどこか「隠沼」をみているような気配や視点が感じられないだろうか。
 あるいはまた、深浦という港町を「完成されている町は、また旅人に、わびしい感じを与えるものだ」というときや、その次に訪れた鯵ヶ沢という港町について、「妙によどんだ甘酸っぱい匂いのする町である。川の水も、どろりと濁っている。どこか、疲れている」というときにも同様の視点が感じられる。いいかえれば、「隠沼」をみる目がたえず太宰にまとわりついているように思う。弘前城で「ぞっとした」と太宰がいうとき、それは恐ろしさというよりも、なにか打ち震えるような衝動がからだを走り抜けたと考えるほうが自然であろうが、しかし「隠沼」をみる目の底にひそむなにかが、太宰が述べる感慨のなかに現れているとは考え難い。本人も「旅行」と述べ、またときおり「旅人」ということばも出てくるように、太宰の抱く感慨はあくまでも旅人の感慨である。旅人とは、その土地を知らぬものであり、本作の冒頭で太宰はつぎのように述べる。

「私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かったのである」

 つまり、蟹田も深浦も鯵ヶ沢も太宰にとって「見た事もない」町だった。その土地を知らぬ「旅人」であるからこそ、太宰の感慨のなかに、ほんらいは「かくれて見えない」ものや、「ひっそりうずくまって」いるものがみえてくるといった単純な指摘もできそうではあるが、ここではまずときおり現出する「旅人」ということばから生じる軋みを考えていきたい。
蟹田の町を見下ろしてから数日後、太宰は友人から郷土史の文献を見せられる。そこには津軽における凶作の年表が載っていた。「豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回の凶作があった」。精米業を営む友人の工場の奥に大きな二つの機械が息をひそめて眠っているのを太宰は見つける。友人もまた数年前の凶作の際に明日を知れぬ境遇に陥り、そのときに購入した縄をつくる機械と筵をつくる機械だという。

「この善良な友人が、馴れぬ手つきで、工場の隅で、ひとり、ばったんばったん筵を織っている侘しい姿が、ありありと眼前に見えるような気がしてきた」

 わけのわからぬ憤怒に駆られた太宰は、「だらしがねえ」と二度、誰に向けるでもなく罵る。幼いころから、老人たちに凶作の凄惨な状況を語り聞かされてきた太宰は、科学の世といいながらも凶作を防ぐ方法を農家に教えられないなんてと嘆くが、研究や品種改良はされているがそれでもまだ四、五年にいちどはいけないという友人の、「こんな風土からはまた独特な人情も生れるんだ」ということばを受けて、「生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすって育った私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝わっていないわけは無い」と述べる。こうして「だらしがねえ」といちどは放擲されたことばは、地に足をつけて土地と対峙する友人のことばを通して、太宰の内なる「津軽」へ着地する。
 しかしながら、深浦や鯵ヶ沢に太宰の友人はいない。そこでは太宰が抱く感慨、たとえば「だらしがねえ」といったことばは放たれたままとなってしまうのだろうか。深浦の町の印象について、蟹田のひとの気質を語るのと同様に「旅人」ということばをつかったところをみてみたい。

「決して出しゃばろうとせぬつつましい温和な表情、悪く言えばお利巧なちゃっかりした表情をして、旅人を無言で送迎している」

 蟹田を表すのに用いられた「温和」ということばがここでも用いられ、さらに「旅人」は「心細い」という心情をもつ立場から、「無言で送迎」される、つまり「全く無関心」を示される立場へ変化している。ふたつの町に対して太宰が抱いた印象の違いについては定かではないが、深浦の町の「表情」について、太宰は津軽の北部(つまり蟹田を含む)と対比して、「成長してしまった大人の表情」と表している。深浦の町には、自信が奥深く沈潜しており、津軽の北部に見受けられる「子供っぽい悪あがきは無い」。いうまでもなく太宰はここで、自らの内なる「津軽」と深浦の町を対峙させている。媒介となる友人がいない場合、太宰の内なる「津軽」が顔をもたげてくるのである。逆にいえば、蟹田で友人と凶作の話をした際には、友人を媒介として、太宰は内なる「津軽」を更新したといえる。はたして自らの内なる「津軽」を更新していく太宰は「旅人」といえるのだろうか。では、「旅人」と表されているものは、なにを指しているのか。それを考えるうえでも、つぎは「風景」について太宰が述べているところをみていきたい。

 最初の場面は、三厩(みんまや)という町から、津軽半島の北端であり本州の北端である竜飛岬を目指して歩いていたときのことである。
「二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなって来た。凄愴とでもいう感じである。それは、もはや、風景でなかった。風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂わば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼われてなついてしまって、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やっぱり檻の中の猛獣のような、人くさいに匂いが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なってやしない」

 人間の眼で眺められ、飼いならされて「風景」となる。この意味で次に「風景」について述べられるのは、先ほどの深浦から当時の五能線で約四十分の距離にある大戸瀬の奇勝について書かれた箇所である。
「外ヶ浜北端の海浜のような異様な物凄さは無く、謂わば全国到るところにある普通の『風景』になってしまっていて、津軽独特の佶屈とでもいうような他国の者にとって特に難解の雰囲気は無い。つまり、ひらけているのである。人の眼に、舐められて、明るく馴れてしまっているのである」

 そしてもうひとつの「風景」が現れるのは、先ほどの三厩のおおよそ西に位置する小泊へ向かうバスの中から見た風景について、太宰が語る場面である。
「背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やっぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂いが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きている。東海岸の竜飛などに較べると、ずっと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり『風景』の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない」

 引用した箇所を並べて考えてみると、太宰は北津軽、ことに津軽半島の北端に近づけば近づくほどに見られる「凄愴とでもいうべき感じ」という印象に、「風景」以前の場所や土地、草木を重ねている。いいかえればそこは、人間が介入しない、ひらけていないところである。じっさいに津軽半島の南側にある大戸瀬の奇勝については「ひらけている」と評しているが、そこには「津軽独特の佶屈とでもいうような他国の者にとって特に難解の雰囲気は無い」とも述べている。太宰はつづけて、「ただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言うのだが」とことわりを入れながらも、「やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないような気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の『要領の悪さ』は、もはやこの辺には無い」と述べる。凄愴な「風景」以前のところ、つまり「人間と全く無関係に生きている」ところに「津軽」を仮託していると考えるのはさすがに言い過ぎだろうが、太宰がいう「津軽独特の佶屈」や「津軽の不幸な宿命」は、「風景」よりも「風景」以前のところに近いのだろう。「隠沼」にならえば、太宰は「風景」以前のところの「下」になにをみているのか。

 そこでもういちど「旅人」である。率直に考えれば、「旅人」とはその土地を知らずにそこを訪れて去るものである。かれらは町をひとまわりして抱いた印象を語るものであり、しばらく滞在して土地の人の生活に触れた印象を語るものであり、そこで語られるのはかれらが理解した印象である。そうした印象をかれらは胸に抱いて去る。つまり「風景」とは、そうしたかれらの眼に舐められて「風景」に成り代わったものである。深浦や鯵ヶ沢の町の印象を語る太宰を仮に「旅人」とすれば、それは「風景」を眺めるものと同義である。しかしながら太宰は内なる「津軽」を抱え、そのなかには「津軽独特の佶屈」や「津軽の不幸な宿命」という「他国の者にとって特に難解」な、つまりひらけていない、「見えない沼」がある。「風景」以前の土地や草木は人間そのものの理解を拒むが、太宰はその一歩手前で、ひらけていない「津軽」を見定めようとしていたのだろうか。

 この津軽をたどる旅について、太宰は作中でつぎのように述べている。
「都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかもうとする念願である。言いかたを変えれば、津軽人とは、どんなものであったか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ」

 あらかじめ旅の念願を抱いていた太宰は、じっさいに作中でも津軽のひとたちの気質について、数多く言及しているようにみえる。たとえば、太宰が当時の弘前高等学校時代を過ごした弘前市について、自身も熱中した義太夫をまちの旦那たちが損得抜きに真面目に唸っていたことにふれて、「弘前の人には、そのような、ほんものの馬鹿意地があって、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑いになるという傾向があるようだ」といい、その意地や頑固さから、「そうして、どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる事にこそあれ、とて、随わぬのである」と述べたあと、「弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるようだ」とまとめている。また、蟹田に住む友人と凶作について語り合っているとき、ぼくはいつも押され気味だと自嘲する太宰に、「それでも君は、負けないじゃないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ」と友人がいうところなどには時勢の影響もありそうだが、別場面での「津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振り」のコミカルな描写なども含めて、じつに親しみをこめて描かれている。このように表象される津軽の気質というのもまた「津軽独特の佶屈」を示す一端ではあるのだろうが、振り返れば、「津軽独特の佶屈」とは「他国の者にとって特に難解」とすでになんども記述してきたように、「旅人」がたやすく触れられるものではないはずである。ここでは、それを太宰がそのサービス精神によって「他国の者」にも理解できるようにとりまとめたと考えるべきだろうか。そう考えれば、本作中の「旅人」とは読者を指すといえなくもないが、じっさいはそう簡単な話でもなさそうである。

 冒頭の「隠沼」の話にもどりたい。先に引用した「隠沼」の一節の手前で、太宰はひどくうろたえている。
「まったく下手な文章ながら、あれこれと工夫して努めて書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独特の強さを描写する事はついに出来なかった。重ねて言う。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国、どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感しているのであるが、それが何であるか、形にあらわして、はっきりこれと読者に誇示できないのが、くやしくてたまらない。この、もどかしさ」

 このすぐあとに「隠沼」の一節がつづくことを考えれば、太宰は「記憶」というが、それを素直に「記憶」と受け取り難くもある。あるいは仮に、「隠沼」の一節の「弘前城」を「津軽」に、「弘前のまち」を「本州」に置き換えて読めば、太宰が「津軽」に「予感」しているものがそのまま表れていると考えられないだろうか。さらに仮定をつづければ、そのように考えたとき、ここには「訪れ」たものの視点があり、ある種の一回性を含んだ衝動が「ぞっとした」ということばに込められている。太宰にとっては、内なる「津軽」を抱えた存在であり、そこを「訪れ」た存在であるという両義性が必要だったのかもしれない。また、そう考えれば、本作における「旅人」は多義的なことばと捉えるべきだろうか。

「隠沼」とは、「草木などが茂っている下にかくれて見えない沼」である。太宰はそこに、「夢の町」「見た事もない古雅な町」をかさねている。その「隠沼」をみる太宰の目ともいうべき一節がある。
「とにかく、現実は、私の眼中に無かった。『信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない』という妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いていた」

「反骨」に象徴されるような津軽のひとの気質は、太宰にとってひとつの理想であったのかもしれないが、津軽の旅で太宰がみていたのは、やはりつぎに「宿命」と表されるようなものではないだろうか。
「私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いていた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいうべきものを囁かれる事が実にしばしばあったのである。私はそれを信じた」

(*)太宰治『津軽』(新潮文庫、一九五一年)

【書誌情報】

『津軽』
太宰治著
新潮社 2004年6月発行 473円 A6判 260p
ISBN 978-4-10-100604-8

【執筆者プロフィール】

中里 勇太(なかさと・ゆうた)
文芸評論、編著に『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(金子遊共編、響文社)。