昨年2022年の9月頃、中国で一本の映画が話題になった。『小さき麦の花』(原題『隠入塵煙』)と題された映画であった。甘粛省の貧しい農村を舞台として、村人から忘れられた存在であった二人の男女が結婚し、静かに愛を育んで生活していく物語とまとめられるだろう。波瀾万丈のストーリーはなく、二人が静かに寄り添いながら暮らす様子を、暖かい眼差しで描いた映画である。ストーリーだけを取り出すと取りたてて何ということもないこの作品が、どうして中国で大きな話題となったのだろうか。
声高に言葉を交わすことなく、お互いを信頼しあう夫婦の姿は、たしかに美しい。経済的には貧しくても黙々と自分のやるべき仕事に打ち込む主人公二人は、忘れかけていた美徳を思い起こさせる。しかしそのような「失われつつある美しい農村」を讃える映画でしかなかったとしたら、これほどまで話題にならなかったであろう。
良く知られていることだが、中国の都市と農村の格差は極めて大きい。経済面において生活水準に大きな差があり、また政治制度の問題もあるが、同時に見逃せないのは、意識面の差異である。都市の人々は農村をほとんど理解できない存在と感じている。近代化されていない遅れた農村というイメージは、実のところ中国の都市の人たちも持っている。しかし中国の人々にとって農村はまぎれもなく自国の内部である。しかも都市の住民の多くは、農村出身者であるか、あるいは農村にルーツを持っている。つまり中国の都市の人にとって農村は、切っても切り離せない内部である。理解できない存在ながら、自分の内部にあるもの、いわば自己の内なる他者として、農村は存在している。
中国の近代文学や映画を見ると、農村をどのように表現するかが、一貫して大きなテーマとなってきたことが分かる。たとえば中国近代文学の創始者というべき魯迅は、代表作「阿Q正伝」をはじめとして、自分の故郷を彷彿とさせる農村を舞台にした小説を多数発表している。1980年代に世界で注目された第五世代の中国映画でも、農村を描いた作品が多数登場した。第五世代の映画監督は、文化大革命中に「下放」と呼ばれる政策のため、農村体験をした人が多い。彼らは農村で実際に生活をして、貧しさを実感すると同時に、その生活の底に原始的な生命力が宿っていることに驚いた。第五世代の映画監督たちは、自身が感じた驚きの感覚をもとにして、貧しいながら生命力に満ちている農村を描き出した。
『小さき麦の花』はこうした文学や映画の伝統を踏まえていると考えられよう。しかし魯迅や第五世代の映画監督が、いわば農村の外部の人間として、外から見つめる視線によって農村を描いたのと比べると、『小さき麦の花』は多少異なった姿勢をとっているように感じられる。結論めいたことを言うならば、この映画は農村との距離感が絶妙であると思われる。農村を突き放すのではなく、農村に没入するのでもない。絶妙な距離感をもって農村を描き出したがゆえに、中国の人々を熱狂させたのではなかろうか。
ノンフィクションの試み
市井の中国人の生活を映像によって描き出した作品としては、ドキュメンタリー映画が思い浮かぶ。日本でも良く知られている監督としてワン・ビンがいる。ワン・ビンは没落する製鉄所の街を取材した『鉄西区』(2003)、政治運動に翻弄された女性の長篇インタビュー映画である『鳳鳴 中国の記憶』(2007)などで知られる。じつはワン・ビン以外にも中国には多くのドキュメンタリー映画作家が存在する。佐藤賢『中国ドキュメンタリー映画論』(平凡社、2019)によれば、中国のドキュメンタリー映画は、単に事実を記録する映像ではなく、世界にどのように向き合うかを意識的に考えながら、批判的に世界を見る映像作品であり、だからこそ、体制に縛られない自由な創作を求め、同時に市場原理からも自由であろうとしたという。
中国ドキュメンタリーはおおまかに言って1990年代に生まれたとされる。天安門事件によって政治的民主化が一旦挫折したあと、中国社会が経済成長一辺倒に進むのと同時進行で、発展からこぼれ落ちる部分に目を向けたと言えるだろう。技術的背景として、デジタルカメラが普及して、容易に撮影できるようになったこともある。また彼らは近隣分野とも連携していた。たとえば当時、テレビにおいてドキュメンタリースタイルの情報番組「東方時空」などが人気を博していた。あるいは、日本でも知られる映画監督ジャ・ジャンクーがデビュー作『一瞬の夢』(1997)を発表したのも同じ時期である。半分体制内のテレビ局や、劇映画とも連携しながら、中国の映像界全体で、独立心と批判意識を持つ流れが生まれた。
対象との関わり方を意識したのは、じつは映画だけの試みではない。文学において話題となったジャンルにノンフィクション(中国語では非虚構)がある。中国のノンフィクションは、事実にもとづく作品であるが、それ以前の中国で長く書かれてきた「報告文学」や「紀実文学」とは異なるジャンルとされた。言うまでもなく、事実を記録するにしても、どのような視点にもとづくかによって、描写は大きく異なる。中国の「報告文学」や「紀実文学」は、社会の要請にしたがう主張を込めることが多く、それは往々にして政府の求める方向と合致した。いわば「あるべき」「正しい」立場から事実を語る文学ジャンルになりがちであった。それとは異なり、ノーマン・メイラーやカポーティのような20世紀後半のアメリカの文学を参照しながら、個人の観点と感情を重視したのが、新しいジャンルとしてのノンフィクションであった。
中国ノンフィクション文学の代表作として、梁鴻『中国はここにある』(原題『中国在梁庄』、みすず書房、2018)がある。この作品で梁鴻は自分の故郷の農村を再訪し、そこで暮らす人々の姿を描き出した。注目したいのは、梁鴻が農民の世界に入れないと感じたことである。彼女にとって農村は生まれ故郷であるが、すでに理解の届かない場所になっていた。しかし彼女は違和感を自分の見知ったパターンに性急にあてはめることを避け、農民の視点に可能な限り近づこうと試みた。その過程で、自分自身の感情の揺れも隠さず、農村が直面するさまざまな危機に誠実に向き合おうとした。
こうした映像や文学の試みが示しているのは、農村のような対象に対して、外部から観察するのではなく、農村を見る自分自身を批判的に意識しながら、対象との距離を模索する創作活動が、中国で一定の流れを作っていたことである。『小さき麦の花』はこうした潮流から生まれた作品である。
土地と人間
『小さき麦の花』の舞台は監督リー・ルイジュンの生まれ故郷の農村であり、夫を演じたのは、監督の叔父であり実際の農民でもあるウー・レンリンという素人の俳優である。しかし『小さき麦の花』が興味深いのは、こうしたドキュメンタリー映画やノンフィクション文学に通じる設定だけではない。この映画の主人公である夫婦二人について、監督のリー・ルイジュンはこう語っている。「彼らは大地の作物や雑草のように、大地に落ちた子供です。大地は、雑草を受け入れるのと同じように、無条件に彼らを受け入れます。彼らは孤独の中で、むしろ別の空間、他の人は意識しないと思われる空間を手に入れるのです。」(「『入塵煙』:高台叙事与土地史―李睿珺訪談」)
映画において妻となる女性は障害を負っているとされ、夫となる男性は家族の中で他の兄弟の出世や結婚のために邪魔者扱いされている。こうした農村社会で見捨てられた存在を、大地が無条件に受け入れ、ある種の空間を与えたとしたのが、この映画の面白いところであった。人間を主体として考えるならば、映画の主人公は社会の底辺にいる弱者である。しかし大地に視点をおけば、誰もが同じように受け入れられる。人間にとって役に立つ作物と雑草を同列に扱うのも同じ視線である。大地を中心に据えたとき、大地に生きる人間は、大地と一体化した存在になる。そのような大地と人間の一体化した世界を、この『小さき麦の花』という映画は描き出した。都市の人間にとって理解が難しい農村の原理を、大地に視点を置くことによって、生気に満ちたイメージとして描き出したと考えられよう。
この映画は大地を中心に据えたことで、人間中心の世界とは異なる空間の感覚を示したが、同時に大地のリズムにもとづく時間の感覚も表現している。『小さき麦の花』は撮影に1年間の時間をつかい、植物の成長や動物の変化を、実際の成長の周期に合わせて撮影したという。邦題にも現れているとおり、この映画では麦が重要な役割を果たしている。その麦も自然の成長に合わせて撮影されている。そしてなによりも、主人公の二人は、人間の都合で無理に物事を変更しようとせず、大地のリズムに溶けこみ、自然と一体化した暮らしを送っている。
いわば大地を中心にすえて、大地の息吹にもとづいて、言いかえるならば大地の空間感覚と時間感覚に従うようにして映像を生み出したのが、この『小さき麦の花』という映画だと言えるだろう。
農村の時間を描いた作品として思い出されるのは、たとえば小川紳介のドキュメンタリー作品『1000年刻みの日時計―牧野村物語』(1987)である。小川紳介の場合、日本の農村に住み込んで何年もかけて作り上げた作品であり、リー・ルイジュンとは事情が異なる。しかし、都市とは異なる農村の時間の流れを意識的にとらえようとしたところは、通じ合うところがある。奇しくも小川紳介は、中国のドキュメンタリー映画にとって伝説的な存在であった。多くの中国ドキュメンタリー映画作家が、小川紳介の作品から大きな影響を受け、さらに小川が創設した山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加したいと願っている。小川紳介の関心を、リー・ルイジュンが劇映画によって表現したことは、日中の映画交流を考える上で感慨深い。
映像の力
『小さき麦の花』のもう一つ特筆すべき特徴は、美しい画面である。ポスターにも使われている、麦畑で夫婦とロバがたたずむシーンは、まるで一枚の絵画のようである。鮮やかな色彩をふんだんに使い、視覚に訴えてくる。
思えば世界で注目された中国の映画は、色彩への強い意識を持っていた。第五世代を世界に知らしめたチェン・カイコー『黄色い大地』(1984)は、冒頭の圧倒的な大地の映像によって、見るものを一気に引き込んだ。ジャ・ジャンクーの映画も、中国の地方都市にたしかに存在している独特の色彩をとらえていた。近年話題のビー・ガンやグー・シャオガンは、カメラの長回しが目立っているが、同時に独自の色彩感覚も見逃せない。『小さき麦の花』も、中国の農村に見られる美しい色彩をスクリーンに再現したと言えるだろう。
中国の農村を美しい絵画のように撮ることは、場合によっては、農村の美化と受け取られる可能性もある。農村の厳しい現実から目を背けているという批判もあり得る。映画の内容も、失われつつある美しい農村の賛歌と受け取られる可能性があることは、はじめに述べたとおりである。しかしこの映画を非現実的なファンタジーだと考えるのは短絡的に過ぎるだろう。それは何よりも、この映画で語られるのが、あくまでも都市の人間には顧みられない物質的に貧しい生活だからであり、また物語も決してハッピーエンドではないからである。では、厳しい農村の生活を美しい映像によって表現することで、監督のリー・ルイジュンは何を伝えようとしたのだろうか。
彼はインタビューで、「映画は観客を揺り動かさないといけません。そうしてこそ、観客が映画の中にとどまり続け、省察を行い、自分と引き比べて映画と新たな相互関係を結び、自分の生活や魂と関係を結ぶことができるのです」と語っている(「被忽視的郷土中国:李睿珺訪談」)。リー・ルイジュンは映画によって観客の心を揺り動かすことを重視している。重要なのは、彼にとって観客の心に訴えるのは、単に感動を与えるためではないことである。観客が映画を見て気持ちが揺れ動き、そのことが契機となって新たな思考が生み出され、さらには自分の人生を考え直すことを期待している。観客の思考は、映画監督の望んだ方向には進まないかもしれない。しかしそれでも構わないと、リー・ルイジュンは語る。あたかも大地に身を任せるように、人間の都合によって環境を左右しようとせず、映画が生み出す自然環境の変化を受け入れようとしている。
リー・ルイジュンは都会に出て映画制作をする人間として、自分が農村の生活から離れていることを自覚している。しかし農村は便利な都市生活に追いついていない遅れた場所なのではない。農村には、人間の都合によって左右されず、大地のリズムと一体化した、独自の生活の倫理がある。『小さき麦の花』は、そのような中国の農村の生活を描いた作品であり、視覚表現によって、観客にそのような農村のリズムを考え直す契機をもたらす作品である。観客の側から見れば、『小さき麦の花』は、都市の生活からかけ離れた生活が描かれた作品であるが、感動的な映像を見ることを通じて、中国の農村には確固たる生活が存在していること、それが自分と無関係ではないことを感じ取れることになる。
中国の人にとって農村が自己の内なる他者であるとするならば、その内なる他者と直面する機会を与えたのが、この映画だと言えるだろう。『小さき麦の花』は中国で奇跡の映画と呼ばれた。この映画がもたらす体験は、たしかに「奇跡」と呼ぶにふさわしい出来事であった。
【映画情報】
『小さき麦の花』
(2022年/中国/原題:隠入塵煙/英語題:RETURN TO DUST/カラー/G/133分)
監督:リー・ルイジュン
出演:ウー・レンリン、ハイ・チン
字幕:磯尚太郎/ 字幕監修:樋口裕子
配給:マジックアワー、ムヴィオラ
画像はすべて©2022 Qizi Films Limited, Beijing J.Q. Spring Pictures Company Limited. All Rights Reserved.
公式サイト:https://moviola.jp/muginohana/
YEBISU GARDEN CINEMA、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開中
【執筆者プロフィール】
鈴木 将久(すずき・まさひさ)
1967年生まれ。中国文学者。文学を通じて現代中国に生きる人の生活感覚を理解することを目指している。著書に『上海モダニズム』(中国文庫)、訳書に『中国はここにある』(梁鴻著、共訳、みすず書房)、『思想史の中の日本と中国』(孫歌著、東京大学出版会)、『家をつくる』(王澍著、共訳、みすず書房)など。東京大学教員。