2022年12月に開催した第5回東京ドキュメンタリー映画祭では、常駐のスタッフ以外でもさまざまなボランティア・インターンの方のご尽力をいただいた。観客対応やSNSの更新のほか、上映作品の中から作品を選定し、それぞれ批評を執筆いただくという取り組みも行われた。その成果として完成された批評を順番にご紹介したい。
第1回は伊東朋香さんの『マエルストロム』(長編コンペティション作品)評。若き日に大きな事故にあい、車いすの生活となった「私」の生活を記録した本作を、伊東さんは「感動ポルノ」という言葉を起点に考察する。安易な救い、もしくは絶望を見出すのではなく、複雑な事柄を複雑な事柄のままに捉えようとする視線が光る。
(neoneo編集室 若林良)
障害学の世界には、感動ポルノという言葉がある。障がい者のストーリー(や障がい者に限らずスポーツ選手のストーリーなど)を感動するための消費物のように扱う態度のことを指す言葉だ。
障がい者の密着ドキュメンタリーなどと題した感動ポルノは巷に溢れている。昨年の東京パラリンピックの際に数多く放映されていた選手の密着番組など中にも、そうした類のものが少なからずあった。皆さんも思い浮かぶテレビ番組の1つや2つはあるのではないだろうか。
そうした感動ポルノの物語の中では、障がい者は常に「前向き」に生きている。障がいは、とにかく辛いだけのもので、一方で障がい者は、その中で常に明るく、周りの人に力を与える存在で、ともすれば「障がいがあって良かった」という言葉が出てくる。仮に少し荒れた時期があったとしても、今ではすっかり乗り越えて、現状を全て肯定的に捉えているのである。もちろん、それが嘘だとは言わない。そういった人もいるとは思う。しかし、編集によって切り抜かれ、明暗がシンプルに示されている物語が、私たちが感動するために作られた消費財である側面はやはり否めないだろう。
この『マエルストロム』という映画は、そうした「感動ポルノ」とは最も遠いところにあるような作品だった。
美大を卒業した直後に事故に遭い、脊髄を損傷した「私」。両親への葛藤や日本社会の息苦しさを逃れて、海外の大学に進学していた。新しい世界を広げてくれる恋人やアートとの出会いがあり、これから社会へ出ていくという矢先に帰国を余儀なくされた。そして帰国後、車いすでの生活が始まる。車いすで生活する者にとってあまりに不自由な社会と直面し、それでも自立した自分らしい生活を試み、数々の人との出会いと別れを経験していく。そんな「私」の生活を記録したセルフポートレートである。自身の声で収録されたナレーションでは、離れてしまったアートへの渇望、思い描いていた自身とのあまりの違いに感じた絶望、両親への複雑な心情変化が語られている。
この作品は怪我だけを物語の中の唯一の「暗」として描くわけではない。「普通」に生きていても、鬱屈とした何かを抱えていて、その要因を1つの出来事だと断定できるほど私たちは単純ではないというリアルがそこにはある。
そして、障がいを100%肯定的にも、100%否定的にも捉えてはいない。作品の中で「あの時事故に遭わなければ」という言葉や、「後悔」という言葉が前半後半問わず何度も出てくる。車いす生活を通じて出会えた人がいること、気が付けた愛情があることは認めつつ、だからと言って「障がいを負って幸せだった」などという安易な結論を出すことはなかった。考えてみれば私自身、今までの人生で、プラスにしか働かなかったこともマイナスにしか働かなかったこともない。出来事の意味を言葉によって意図的に作ることはできても、出来事が「ただそれが起きた」という以上の意味を持つことなど本来はないのであろう。ましてや、重度の障がいを負うような出来事が、何かを機に100%肯定的な意味を持つものに変身することなど。逆に言えば、事故後の生活を作った要因が障がいである以上、事故がプラスの出来事をもたらしたように解釈できることもあり得る。
日々、感動ポルノに慣らされている私にとって、『マエルストロム』を見ることは、簡単ではなかった。車いすの目線で取られた映像は、地面から車いすに伝わるダイレクトな振動を感じさせるもので、乗り物酔いを起こしたような瞬間もあった。また、どこに希望を見つけ、どこに悲しみを感じればよいのかわからないまま80分近い時間を過ごすことも、今までにない感覚だった。モヤモヤした80分間の後に「感動して」すっきりと涙を流すこともできなかった。ただ、鑑賞を終えた私の中に確かに残ったのは、私は綺麗に切り取られた作り物のストーリーを見たのではなく、監督・山岡瑞子さんという「私」を主人公としたドキュメンタリー作品と対峙していたのだという実感だった。映像作品を前に、消費者ではない自分でいられたような気がしていた。
哲学者のインマヌエル・カントは、晩年、「哲学における最近の高慢な口調」という小論の中で、哲学は時間のかかる仕事であり、問題を一挙に解決しようとする態度は高慢であると主張していた。哲学に限ったことではなく、私たちは日々あまりにも短時間で、単純に物事を捉えているのだと思う。人生を1時間や2時間の映像作品の中で、わかりやすい「意味のある」ストーリーとして描くことなど本来は出来るはずがなく、そんなことを試みれば、作品の中の人物に対しても、作品を観る人に対しても高慢なものになってしまう。感動ポルノを始めとするそんな簡単なストーリーが溢れている今、安易に消費者になるのではなく、『マエルストロム』のような複雑な作品に価値を見出せる人でありたいと感じた。
【映画情報】
『マエルストロム』
(2022年/日本/ドキュメンタリー/79分)
監督:山岡瑞子
2002年、ニューヨークの美大を卒業したばかりの“私”は、突然事故に遭い、帰国を余儀なくされる。障害を負い、大混乱(マエルストロム)の日々の中で、やがて“私”は、それまでとは全く変わった日常の記録を始める。家族との葛藤や、事故前求めていたアートとの繋がり…。様々な別れと出会いを経ながら、自身が着実に再生してゆく過程を記録した、魂のセルフ・ポートレート。
【執筆者プロフィール】
伊東 朋香(いとう・ともか)
2001年生まれ。早稲田大学文化構想学部在学中。大学では、応用倫理学を専攻しつつ、副専攻としてドイツ研究、哲学、美学・文化哲学についても学んでいる。