【特別寄稿】映画のデジタル化について――『サイド・バイ・サイド』から考える text 渡邉大輔


© 2012 Company Films LLC all rights reserved.

キアヌ・リーヴスが企画製作を務め、クリス・ケニーリーが監督した『サイド・バイ・サイド――フィルムからデジタルシネマへ』(Side by Side-The Science, Art and Impact of Digital Cinema/2012)は、とりわけ2000年代末ころから、国内外の映画界で喫緊の話題となっている映画産業の「デジタル化」の問題にスポットをあてた長篇ドキュメンタリーです。

映画は、キアヌ自らがナヴィゲーターとして出演し、ハリウッドを中心に、ヨーロッパ各国の現代映画を代表する30人以上の著名な監督、キャメラマン、映画編集者、エンジニア、機材業者たちへのインタヴューから構成されています。その合間には、デジタルシネマの歴史も俯瞰的にたどられます。

本作は、2012年の第25回東京国際映画祭ワールドシネマ部門で上映され、会期中は黒沢清とキャメラマンの栗田豊通によるトークショーも行われました。

 ■

現在、日本をはじめとする世界各国の映画界では、製作体制から流通形態にいたるまでの「デジタル化」ないし「フィルムレス」の浸透が重要な課題として浮上しています。これまでの映画の物理的支持体として存在していたフィルムが消滅し、かわってデジタルキャメラによる撮影と、同じくデジタルによるノンリニア編集、そして、そうしたデジタルデータによる配信上映(DCP)などが急速にスタンダードになってきたのです。

とりわけ2011年末から2012年にかけては、日本でも興行(上映)のデジタル化が驚くほどのスピードで進行し、各方面でさまざまな議論や実践的な活動を呼び起こしています。この9月には富士フイルムが国内唯一の国産映画用フィルムの生産終了を発表し、昨年末で4割強の割合だった映画館のデジタル化完了は、1年のあいだにシネコンを中心に倍の8割以上(約2800スクリーン)にまで急増しました。東映の「T・ジョイ」やワーナー・マイカルの「シアタス」など、シネコンそのものの「多目的化」(ODS)も拡大しています。

このまま行けば、2015年以降には、ハリウッドを中心として世界的に35ミリの新作フィルムがなくなり、国内でもフィルムによる上映・保存は国立近代美術館フィルムセンターか一部の公共施設の例外的な措置のみになるといわれているようですが――どうも、「その日」は日増しに短縮しそうな勢いです。

目下、以上のような現状においては、映画(作品)をめぐるある種の美学的な規範(慣習)も大きく変わりつつあるように見えますし、フィルムとしての映画文化をどのように継承していくかというアーカイヴィングの問題も重要になります。

また、なによりも昨今とりわけ注目されているのが、2010年以降、日本にもアメリカから導入されつつある「VPF」(ヴァーチャル・プリント・フィー)という、デジタルシネマ興行の漸次的普及を念頭に置いた映画館のデジタル設備投資の負担を緩和するためのファイナンス・システムをめぐる議論でしょう。

このスキームについては、すでに映画雑誌や「neoneo」のサイトをはじめウェブ上でもたびたび取りあげられているのでここで詳細は省きますが、ようはそのスキームにおいてはインディーズ映画やアート系作品を上映している単館系劇場やミニシアターは過酷な淘汰を強いられる可能性があることが問題視されているわけです。それは、いまある映画文化や映画コミュニティの多様性や複数性を、グローバル資本の圧力によってシュリンクさせてしまうことにつながる恐れがあり、この2012年も折に触れ、映画クラスタのあいだではときに「炎上」にもいたる活発な議論が交わされていたことはよく知られているでしょう。

いずれにせよ、トーキー化、カラー化に続く映画史「第3の革命」と呼ばれることもあるように、デジタルシネマの問題はもはやだれもが無視できない段階に達しています。

わたしは、ふだんは大学で主に日本映画史や映画学を専攻し、学生にも映画理論などを教えている研究者のはしくれです。ご存じのかたも少なくないと思いますが、日本のアカデミックな映画研究はこの十年ほどで、飛躍的にレヴェルがあがってきています。しかし、その研究の現場の活況は裏返せば、やはりデジタル化によってかつての「フィルムとしての映画史」が歌舞伎やオペラのようにすっかり古典化し尽くし、遠い過去のものになりつつある現状も如実に暗示していましょう。監督や映画業界で働くことを志望する大学生たちに、これからどう「映画」について教えればよいのか、わたし自身も日々考え続けているところです。

ともあれ、この年末に、以上のようなデジタルシネマ問題についても検討した『イメージの進行形――ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院)という映画論の単著を刊行しました。また、11月からは、渋谷ヒカリエにて<CINEASTE3.0~デジタル世代の映画作家たち>という隔月の映画上映イベントもはじめました。はじめに断わっておきますと、わたしは研究者であり批評家ですので、目下のデジタルシネマの抱える問題群に対して、実地の動向を踏まえた具体的な提言やきちんとした施策の提示ができるわけではありません。したがって、ここでは拙著であつかった主題とも絡めつつ、映画の内容にも即して、この問題をわたしなりの批評的視点からいくつかの論点を考えてみたいと思います。

© 2012 Company Films LLC all rights reserved.

 ―

『サイド・バイ・サイド』の大きなポイントは、冒頭でも記したとおり、デジタルシネマの問題について、ほぼ「製作側」の人物たちのコメントによって占められており、いまの日本の映画クラスタのあいだで中心的に議論されているような、興行の側面についてはまったくといってよいほど触れられていないことが挙げられるでしょう。とはいえ、そのことは、デジタルシネマの問題や歴史が、昨今のようにここ数年のあいだに喧しくいわれ、視界に浮上してきたのではなく、すでに半世紀近く前から徐々にはじまってきていたことを、わたしたちにあらためて思いださせてくれる点で興味深いものでした。また、そもそもわたしのような技術的な側面にはさほど明るくない人間でも、デジタル技術のイノベーションの歩みが簡にして要をえた構成で綴られており、その点でも勉強にもなります。

映画では、1969年のデジタル撮影技術の基礎となるCCD(電荷結合素子)の開発のエピソードを語る前に、冒頭で、マイブリッジの有名な走る馬の連続写真(1878年)からポーターの『大列車強盗』(1903年)にいたる、銀塩フィルムの使用(仮現運動)によってはじまった初期映画史のイメージから文脈を説きおこしていきます。そして、たとえば、80年代後半のソニーによるCCDキャメラやアヴィッド社のノンリニア編集ソフトの開発などの経緯が示されます。また、それと並行して、ハリウッドにおけるVFX技術の先駆者・牽引者であるジョージ・ルーカスをはじめ、デジタルハンディカムによる撮影を試みた「ドグマ95」のラース・フォン・トリアー、本格的なデジタル撮影の作品ではじめてオスカーを獲得したダニー・ボイル、そして、ほかならぬ『アバター』(2009年)の成功で現代のデジタル革命を決定的なものにしたジェームズ・キャメロンなどにいたるまで、デジタルシネマの歴史を彩るそうそうたる顔ぶれの巨匠たちが自らの足跡を回顧していくのです。

これに加え、彼ら監督たちと数々の傑作を手掛けてきたスタッフたちの証言も貴重です。「ドグマ95」のキャメラを手掛けたあと、『スラムドッグ$ミリオネア』(2008年)でデジタル撮影初のオスカーを獲得したアンソニー・ドッド・マントルをはじめ、ヴィルモス・ジグモンドやミヒャエル・バルハウス、アン・コーツなどの「動いて話す姿」が見られる機会など、ほとんどないのではないでしょうか。それだけでも、一見の価値があるドキュメンタリーだといえるでしょう。

以上のような映画人たちのインタヴューを眺めていて、まず気づかされるのは、彼らの圧倒的なまでの「ポジティヴさ」です。つまり、作り手としての彼らは、映画のデジタル化の到来(とそれによるフィルムの消滅)という事態を、どちらかといえば、悲観的ではなく、わりと寛容に受け入れているように見えるのです。

もちろん、『ダークナイト ライジング』(2012年)をフィルムで撮ったクリストファー・ノーランなどのように、デジタルシネマに懐疑的ないし否定的なまなざしを向ける者もいないわけではない。しかし、頑ななまでにデジタルの可能性を訴えるスティーヴン・ソダーバーグもそうでしたが(彼はフィルム撮影の現場でなにか嫌な思い出でもあったのでしょうか)、わたしの見るところ、マーティン・スコセッシからウォシャウスキー姉弟まで、世代の別なく彼らは総じて、映画の新時代を前向きに捉えている。このことは、端的に望ましいことだとわたしには思えました。

たとえば、それは――うろ覚えなので、このとおりの表現ではなかったかもしれませんが――、「スマートフォンやタブレットで映画を観るようになりつつある若い世代にとって、フィルムがなくなったって、なにを嘆き悲しむことがある?」と肩をすくめてみせるダニー・ボイルの姿に端的に象徴されているものでもありました。

スティーヴン・ソダーバーグ ©2012 Company Films LLC all rights reserved.

 ―

ところで、この映画で個人的に注意をひいたのは、インタヴュイーとしても登場する、1990年代の半ばにデンマークで起こった禁欲的かつ機動的な映画運動「ドグマ95」にかかわる動向の紹介です。

ドグマ95とは、よく知られるように、1995年に、ラース・フォン・トリアーを中心とした新人監督たちによってはじめられ、ロケーション撮影や手持ちによる撮影、種々の視覚効果の禁止といった無数の制約を課した特異な映画製作集団でした。

そのため、彼らの第1作となったトマス・ヴィンダーベア監督の『セレブレーション』(1998年)において、予算の都合上、ソニーのハンディカムPC7を用いた先駆的なデジタル撮影を行い、映画界で毀誉褒貶も含む大きな波紋を呼んだことが、当時のキャメラを担当した先ほどのドッド・マントル自身の口から語られていきます。当時のデジタル撮影は解像度がきわめて粗く、とてもフィルム撮影の実現する美しい肌理を補いうるレヴェルのものではなかったのです。

映画のなかでは、その後、エレン・ミラー監督の『パーソナル・ヴェロシティ』や、長篇でははじめて全編デジタルで撮影されたルーカスの『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』が公開された2002年になってようやくデジタルシネマの評価が上向きに変わりはじめたとされていますが、ともあれ、ドグマ95が出現した95年はデジタルシネマの歴史におけるひとつのメルクマールとして位置づけられています。

さて、先ほど名前を挙げた拙著『イメージの進行形』では、その副題のとおり、21世紀のインターネットをはじめとした情報社会、とりわけここ数年、日常のいたるところで熱い注目を浴びている、「ソーシャルメディア」による「モバイル化/ユビキタス化/クラウド化」――総じて「ソーシャル化」と呼ばれる情報環境と映画・映像文化とのかかわりを幅広い見地から考えています。

当然のことですが、いまわたしたちの周囲に広がりつつあるソーシャルメディア、なかでもYou Tubeやニコニコ動画といったCGM(動画共有サイト)の類は、映画や映像のデジタル化を大きな前提にしています。

それはコンテンツ配信という面で、先ほどのシネコンのODSの広がりとも構造的に通底していますし、『LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語』(2011年)や『JAPAN IN A DAY ジャパン イン ア デイ(2012年)のような作品が採用するクラウドソーシングとも連動している。あるいは、2010年代には「Hulu」などをはじめとするいわば「ポストiPadの映画受容」がより一般化するでしょうが、デジタル化とソーシャル化はその点でも深く結びついています。

そして、思えばドグマ95がデジタルシネマのひとつの狼煙を掲げた95年とは、他方では、ご承知のように、マイクロソフトが「Windows95」をリリースして「インターネット元年」と呼ばれ、またアメリカでは、のちのネット文化の情報ポータル(検索エンジン)と、いわゆる「ロングテール」の基礎を担った「Yahoo!」と「Amazon.com」がその事業を開始した年でもあったのです。さらにいえば、この年は、リュミエール兄弟のシネマトグラフの発明・公開からちょうど100年目の年であったことも想起されるべきでしょう。それに、そう、この年には、日本映画で率先してデジタル化を推し進めた岩井俊二が監督デビューした年でもありました(詳しくは『ユリイカ』9 月号に寄稿した拙稿をお読みください)

ラナ&アンディ・ウォシャウスキー ©2012 Company Films LLC all rights reserved.

 ―

以上のように、わたしの見るところ、重要なのは、この『サイド・バイ・サイド』が、映画や映像のデジタル化について、それがかたや新たな情報環境の到来とも相即的な事態であったという事実をおそらく暗に告げている点です。もちろん、そうした情報環境ないしアーキテクチャにかんしては、『サイド・バイ・サイド』でも直接的には一切触れられていませんし、今日、デジタルシネマ問題を云々する映画関係者やジャーナリストもこの点には総じて冷淡です。

しかし、この文化史的符合はこれ以降もはっきりと認められる。たとえば、ハリウッドメジャーがデジタルシネマを正式に規格化したのは2002年のDCI(デジタルシネマ・イニシアティヴ)であり、それは3年後の2005年に制度化されます。これによって、2000年代後半のハリウッドはデジタルシネマ化へ大きく舵を切っていくことになり、09年の『アバター』の世界的な大ヒットと続く3D映画ブームにせよ、現在では、それがデジタル標準化を世界基準にするためのハリウッドの生存戦略の一環であったことが知られているわけです。

そして、おそらくこうした映画史における事態の変化は、日本でいえば、一方では、90年代以降のミニシアター文化を先導したシネカノンやワイズポリシーといった有名配給会社の09年前後の度重なる倒産、さらに他方では、2000年代後半以降の<CO2(シネアスト・オーガニゼーション大阪)><CINEDRIVE><桃まつり>といった無数のインディーズ系映画イベントの盛りあがりなどと遠くで確実に通じているといえましょう。

しかし、やはりここでわたしたちは、このデジタルシネマの仕様が制度化された05年以降の文化世界が、同時に、「Web2.0(ティム・オライリー)などと呼ばれ、ソーシャルメディアによる新たな情報とコミュニケーションの構造的再編がなされた時期とちょうど同じであったことにも、もっと眼を向けてみるべきではないでしょうか。念のために補っておけば、ハリウッドでDCIの規格化が決定したのとYouTubeが生まれたのは同じ05年、『アバター』が記録的ヒットを飛ばし、ミニシアター系配給会社が消えていった時期は、TwitterFacebookがキャズムを超えていった時期にもあたります。『サイド・バイ・サイド』が描くフィルムからデジタルシネマの歴史とは、おそらくWindows95からドットコム・バブルを抜けて、Web2.0のソーシャル的転回にいたるまで、20世紀末からの情報環境の進化とも深く結びついている。デジタルシネマの問題を考えるにあたって、この視点はとりわけ重要だと、わたしには思えるのです。

©2012 Company Films LLC all rights reserved.

 ―

では、それはなぜなのか。――そのことを拙著では詳述しているので、関心のあるかたはぜひお読みください、といいたいのですが、最後に、これについて簡単にわたしの考えるポイントを出しておきたいと思います。

まず第一に重要なのは、したがって、現在の映画のデジタル化の問題が、それに先行する(とされる)トーキー化やカラー化の問題と決定的に異なり、たんに映画内部のイノベーションの歴史でなく、はるかに大きな文化史的変容の一部に組みこまれている、という、書いてみるといたって単純なポイントです。

アメリカの著名なニューメディア研究者ヘンリー・ジェンキンズが論じるように、デジタル化は、映画のみならず、文学も音楽もアートも報道も、あるいは政治も経済もサブカルチャーも、象徴的にはまさにiPadのプレーンな液晶画面のうえにフラットに「収束convergent」させてしまう。いかなる文化も表現活動も、もはやその「フラット化する世界」(トマス・フリードマン)から逃れることはできないでしょう。であるがゆえに、デジタルシネマの問題を、映画産業の既存のシステムや慣習のうえで抵抗したり改善したりしようとすることは無意味です(というよりも、はっきりいって、それはもう手遅れかもしれませんが)。それはもっと大きい構造的な変化に通じているのだから。デジタルシネマの問題を考えることは、KindleiTunesのゆくえを考えることと本質的に関係しています。

その事実を踏まえて、批評家であるわたしが現状に対して取りうるアプローチは、おそらく次のふたつしか考えられません。

ひとつは、「映画」というこれまでの枠組みや概念そのものを一度ゼロに戻して考えなおしてみること。そして、もうひとつは、(ひとつめと通じることですが)そうした「映画」と向きあうひとびと(わたしたち)同士がそれぞれどうかかわりあえるのか、という映画文化の「公共性」や「社会性」をふたたび問いなおしてみること、ではないでしょうか。あまりにも、大きく、また抽象的な問いです。しかし、それでもわたしたちはここからはじめてみるほかないのではないか。

たとえば、ひとつめの問題にかんして、もう一度、『サイド・バイ・サイド』の話題に戻りましょう。このドキュメンタリーでは、繰りかえすように、映画製作のクリエイティヴィティ(創造性)の領域の話題がもっぱら語られています。たとえば、デジタルでの撮影ではフィルムと違い、現像の期間が必要ないので、いま撮ったショットをその場で監督が確認できる、あるいは、俳優たちはフィルム切れで演技を中断されることがないので、より集中力を持続できる、はたまた、編集マンはフィルムと較べてフッテージの切り貼りが格段にカジュアルな作業になる……といったような具合です。

これらの変化は、とりもなおさず、デジタルへのイノベーションによって、作品の個々の製作プロセスがよりいっそう細分化され、クリエイターの創造性を刺激する負荷が軽くなったことだといいかえることができましょう。ここには、製作者にとって、「映画たりうること」をめぐるこれまでの慣習の少なくない変化が見られます。映画のなかで登場した表現を使えば、「フィルムのリズムが変わってきている」。

ジェームズ・キャメロン ©2012 Company Films LLC all rights reserved.

 ―

この点で、東京国際映画祭での、上映後の黒沢清の発言がいささか示唆的でありました。黒沢が注目したのは、映画のなかで登場した「カラリスト」と呼ばれるスタッフの存在です。彼らはまさに映画のデジタル化が生みだした新たなパートを担う存在で、ある映像のなかの色彩を部分的にカラー補正する役割です。つまり、樹木なら樹木、車なら車と、気になる部分の対象の色彩だけをボタンひとつで自在に修正するスタッフです。全編DIを用いた初の長篇であるコーエン兄弟の『オー・ブラザー!』(2000年)では、このデジタルカラー補正の技術が駆使されました。

このカラリストの存在に、黒沢はあからさまに戸惑いと拒否反応を示していました。「彼らは、映画の撮影中もつねに実際の現場をキャメラマンと一緒に確認しているのだと信じたいが……もし、現場を見ずに作業ルームのなかだけで、監督やキャメラマンとの綿密な打ち合わせなく、色を自由自在にいじっているのだとしたら……ちょっと自分の現場では考えられない」、と。

そして、トークの終盤でためらいがちにこうつぶやいたのです、「ぼく自身はデジタル化を拒む気はない。しかし、映画がこのままデジタル化していくと、監督という役割はいらなくなるのかもしれない」、と。

この黒沢清の「不安」は、情報のソーシャル化ともつながる、デジタルシネマの文化史的変容の内実を、やはり正確にかたどっているように思えます。つまり、そこでは、たんに映画だけの問題ではない、人間の「クリエイティヴィティ」の意味そのものの変質が問われているように見えるからです。

たとえば、このことは『インターネットが死ぬ日』でジョナサン・ジットレインが提示した「ジェネレイティヴィティ」というコンセプトに通じています。日本語で「生成力」とも、「多産性」とも訳しうるそれは、ジットレインの定義するところによると、「あるテクノロジーに備わる、自発的な変化を産出するすべての潜在能力」を意味し、それは「多数かつ多様で、誰にも統御されていない」ものだということです。

いわば黒沢のいうように、「監督=作家のいらない」、創造性の肩代わりをする微分化・リゾーム化した新たなコンテンツ製作のプラットフォームの性質だといえましょう。映画に限らず、ニコニコ動画のMADにせよ初音ミクにせよ、いま広範に現れつつある製作環境は「作家」のクリエイティヴィティの発露よりも早く、スケーラブルにテクノロジーやネットワークのほうが作品の製作工程に介入し、世界に発信するという生産と消費のあり方を可能にしています。そうした局面においては、その構造が既存の作品の物語やイメージにもポジティヴ・フィードバックされていくことになる。

たとえば、IT系のコンサルタントを手掛ける池田純一は、近著『デザインするテクノロジー』において、それをJ・J・エイブラムスが製作総指揮や脚本を務めたテレビドラマ『LOST(2004~2010年)や『FRINGE(2008年~)に見出し、分析しています(エイブラムスはソーシャルメディアの構造を取りいれた映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』も手掛けていたわけですが)。何にせよ、こうしたジェネレイティヴな構造が、デジタルシネマにも本質的にそなわり、映画作家本来のクリエイティヴィティや美学的規範そのものにも影響を与えつつあることはたしかでしょう。いうなれば、先ほどのカラリストとは、デジタルシネマにおける新たなジェネレイティヴィティの側面を担うスタッフだといえるわけです。

池田によると、ここ数年の欧米では、デジタル技術がジャンルを飛び越えて創造活動全般に影響をもたらすようになった状況を背景に、ある創造行為に対して「デザイン」という表現を用いることが多くなったということですが(池田自身も自らの肩書を評論家などでなく「Design Thinker」としています)、その意味で、21世紀の「映画」はデジタル技術を通じて(演出や製作ではなく)「デザイン」されていくものとなるのかもしれない。

繰りかえしますが、そこでは、おそらく「映画」というものの外縁自体が急速にあいまいになり、また拡張していきます。したがって、デジタルシネマの問題を(批評的に)考えるということは、不可避的に、これまでわたしたちが対象としてきた「シネマ」の枠の「外」を含めて捉えかえさざるをえないということです。そして、これこそが「批評」に求められている役割であるはずです。

そして、ふたつめの問題です。そのように、来るべき21世紀の「映画」が、これまでわたしたちがよく知っていた「映画」とは異なる文化原理のもとに生みだされ、受容されるものになる以上、また、わたしたちひとりひとりがその「映画」と新たに関係を取り結ばないとならない以上、そうしたわたしたち相互の「映画」を通じたかかわりあいかた――「公共性」のあり方もまた、あらためて問いなおさざるをえなくなるでしょう。

たとえば、『サイド・バイ・サイド』では、「映画館は、いわば20世紀の教会だった」と語る人物が登場します。映画館でスペクタクルなイメージを消費する身体やそれに付随する権力のありようを近代的な「公共圏」の出現の問題として捉える議論は、古くは『視覚的人間』のバラージュ・ベーラから、近年では『バベルとバビロン』のミリアム・ブラトゥ・ハンセンまで少なからず存在します。それに倣えば、デジタルシネマの到来は、わたしたちに新たな「映画的公共性の構造転換」を要求しています。

しかし、やはりその問いに答えるのもまた、とても難しい。というのも当然ながら、それも現代社会における公共性の成立の困難さに直結しているからです。たとえば、日本におけるVPF問題に端的に象徴されているように、映画のデジタル化やソーシャル化とは、今日のグローバル資本主義の世界的浸透という事態の一部にすぎません。

すなわち、そこでは、ひとびとのあいだのコンセンサスを支える大きな拠りどころが失われ、わたしたちは、徹頭徹尾殺伐とした地平にポンと放りだされています。それゆえにこそ、ひとびとはあいまいで確率的に輪郭づけられてしまうほかない自らの存在のよるべなさにつねに苛まれ続けるのだし、その不確定な社会や文化の諸相を適切に紐づけるための制度や価値観が絶え間なく求められることにもなるわけです。

その意味で、現在、フィルム撮影を遵守し、日本映画で異彩をはなつ「空族」や、岡山県を中心にユニークな巡回上映を行っている『ひかりのおと』(2011年)の山崎樹一郎などの活動は、日本社会でも日増しに存在感を強めつつある、伝統的で多様な「中間共同体」への期待――いわゆる「地域主義」や「多文化主義」、また数年前にマイケル・サンデルによって日本でも流行したことがまだ記憶に新しい「コミュニタリアムズム」(共通善)への期待と重なっていることは明らかでしょう。

これらの個々の活動それ自体はどれも意義深いものですし、今日の映画的な公共性のあり方を考えるときに、有益な示唆を与えてくれます。しかし、その一方で、そうした多文化主義的でコミュニタリアニズム的なアプローチが含んでしまう、ある種の閉鎖性や自足性にも敏感でありたいとも思います(うえに挙げた作家たちの活動がそうだといっているのではありません)

つまり、「フィルムかデジタルか」という単純な二者択一を迫り、「みんなちがってみんないい」というふうに棲み分けようとすると、ややもするとそれは、寛容さと瓜二つの、それぞれの立場に不干渉になってしまう態度に通じる(ネット用語でいえば「ROMを決めこむ」)からです。そのことが危ういのは、これもまた今日のソーシャル化に関係しています。

©2012 Company Films LLC all rights reserved.

 ―

2012年に刊行された『ソーシャル・ドキュメンタリー』に寄稿した小論でも言及したことですが、今日のGoogleFacebookなどの情報空間はわたしたちに自分にとっての心地よい情報だけを定量分析して抽出し、それ以外のノイズを排除する構造に急速に収斂しつつあるといいます(イーライ・パリサー『閉じこもるインターネット』)。それはいっけんニュートラルな、寛容と複数性の空間をかたちづくるように思えますが、長期的に見れば、個々のコミュニティが分断され、ちょっとしたことで「炎上」が起こり続ける他者性の欠如した世界を招くように思えてなりません。

こうした隘路を乗り越えるのには、いってみれば、おそらく「共存共栄」という意味での「サイド・バイ・サイド」という態度だけでは限界があるでしょう。具体的な答えはここではとうてい出せませんが、フィルム派にせよデジタル派にせよ、また劇場派にせよネット派にせよ、今後はたがいがたがいを「パッチであてあう」ように、あるいはTwitterふうにいえば、「リツイート」しあうように、ゆるやかで重層的な公共性のあり方を映画コミュニティの内外で育んでいくことが求められるのではないかと思います。というよりも、デジタル技術やソーシャルメディアの汎用性や機動性は、そういうことのためにも活かされるべきではないでしょうか。

これらの問題については、拙著のなかでも主題的にあつかっています。関心のあるかたは、お読みいただければと思います。

最後に蛇足を。わたしは最近、思いたって正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読みました。『古今集』にはじまる平安以来の和歌の定型を批判し、結果的に桂園派をも滅ぼした子規のこの歌論にほとばしる凶暴なまでの情念に圧倒されるとともに、この子規による想像力の「イノベーション」が明治維新=近代化の暴圧を越えて、和歌を「短歌」として、あるいは俳諧を「俳句」として今日まで生き延びさせたのだとあらためて実感させられました。デジタル化とともに、映画にかかわるひとびとに求められているのも、確実にこの子規の情念なのだと思います。

『サイド・バイ・サイド』もそのなかに含むだろう、多くの「歌よみに与ふる書」が、いま映画界に求められているはずです。

【作品情報】

『サイド・バイ・サイド:フィルムからデジタルシネマへ』 Side by Side-The Science, Art and Impact of Digital Cinema

2012年/アメリカ/99分/HD
監督:クリス・ケニーリー
プロデューサー:キアヌ・リーブス、ジャスティン・スラザ、
撮影監督:クリス・キャシディ
配給・宣伝:アップリンク

© 2012 Company Films LLC all rights reserved.

公式サイト  http://www.uplink.co.jp/sidebyside/
予告編  http://www.youtube.com/watch?v=kD17zPSXa14
公式facebook  https://www.facebook.com/sidebyside.jp
公式twitter  https://twitter.com/sidebyside_jp

★12/22(土)より、渋谷アップリンク、新宿シネマカリテ、横浜ジャック&ベティ他、全国順次公開。 
★12/22(土)、23(日)、アップリンクにて公開記念イベント開催! くわしくはこちら。 

【執筆者プロフィール】

渡邉大輔 わたなべ・だいすけ
 1982年栃木県生まれ。日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程芸術専攻修了。博士(芸術学)。専攻は日本映画史・映画学。現在、日本大学芸術学部非常勤講師、早稲田大学演劇博物館招聘研究員。共著に『探偵小説のクリティカル・ターン』『社会は存在しない』『サブカルチャー戦争』『21世紀探偵小説』(以上、南雲堂)、『本格ミステリ08』(講談社)、『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)、『floating view 郊外からうまれるアート』(トポフィル)、『日本映画史叢書15 日本映画の誕生』(森話社)、『ソーシャル・ドキュメンタリー』(フィルムアート社)など。 2012年12月、待望された初の単著『イメージの進行形』(人文書院)を上梓。
http://d.hatena.ne.jp/daisukewatanabe1982/ http://twitter.com/diesuke_w