【Report】「メモリー」そして「メモリー・プロジェクト」記憶と記録を巡る問い ~『カメラが開く記憶の扉 中国ドキュメンタリー映画の試み』第二部レポート ~ text久保田桂子

■   文彗と呉文光のパフォーマンス「メモリー」との出会い 

神奈川大学で行われた講演会『カメラが開く記憶の扉 中国ドキュメンタリー映画の試み』の会場である講義室の最前列には、カーキのシャツを着た大柄の呉文光(ウー・ウェンガン)監督と、きれいな明るい色のセーターを着たふたりの小柄の女性、映像作家の章夢奇(ジャン・モンチー)と鄒雪平(ゾウ・シュエピン)が座っていた。彼女たちとは親子ほど歳の離れた呉監督の大きな背中を見ながら、私は2年前にフェスティバル/トーキョーで見た「メモリー」という舞台を思い出していた。私がこの講演会に足を運ぶきっかけになったのは、あの舞台との出会いがあったからだ。

2010年11月27日。廃校になった小学校の体育館に設営されたステージには、人の背丈の二倍くらいの蚊帳がぼんやりとした光に照らし出されていた。蚊帳の中にはおさげ髪の女性がひとり、ゆっくりと上半身を揺らしている。舞台の奥から、彼女の母親が使う足踏みミシンのカタカタという音が聞こえている。投射されたテロップの文字が蚊帳の表面をなぞりながら流れてゆく。“…記憶…思い出すこと・・・思い出せないこと・・・思い出そうとすること・・・”

呉監督のパートナーである文彗(ウェン・ホイ)氏が演出した「メモリー」という舞台作品の登場人物は、彼女と、彼女の母親、そして呉監督の3人だけだった。振付家であり、コンテンポラリーダンサーであるウェン・ホイは、ダンスが大好きだった少女時代を母との対話の中で辿ってゆく。ふたりの女性はあくまで家族間の小さな思い出を紡いでいくのだが、交わされる会話からその時代が文化大革命の真っ只中にあったことが伺える。呉監督もぴかぴかに光った便器を背負って舞台に現れ、革命の英雄に憧れた少年時代を回想する。彼らの回想の間に蚊帳のスクリーンに投射されるのは、革命歌が響き、熱狂と歓喜の表情に溢れた若者たちが画面いっぱいに溢れる当時のアーカイブ映像と、かつての紅衛兵達のインタビューで構成された呉文光監督のドキュメンタリー映画『私の紅衛兵時代(我的1966)』(1993)だ。このパフォーマンスの中に織り込まれた『私の紅衛兵時代』は、当時のプロパガンダ映像が消費し、埋没させてしまった“個人の顔”を、その人の渦の中からひとつひとつ拾い上げていく試みのように感じた。時を経て、現在はそれなりの地位についている彼らは、当時の自分自身の行為を戸惑いながら語る人もいれば、過去を問うことを止めたことで自分自身を保っているように見える人もいる。

8時間にも及ぶ「メモリー」のパフォーマンスは、3人の親密な会話やそれぞれの個人的な回想に耳を澄ます静かな時間と、『私の紅衛兵時代』で証言者たちの顔に見下ろされ、彼らが過去を語る声を聴き続けるという時間と、紅とカーキの色彩に溢れるアーカイブ映像の光と音の洪水を全身に浴びる時間とが交互に訪れる。

私が最も心を動かされたのは、ウェン・ホイの回想の中で、夜勤でノルマをこなすため夜通しミシンに向かう母親の傍らで幼い彼女が作業場に落ちていた色とりどりの端切れを集めて夜を過ごしたエピソードだ。作業場で眠りにつく少女のポケットに詰められた花柄やチェックの鮮やかな色の小さな布は、時代の大きな流れにもっとも傷つけられ、でも消して消えることのなかった母と子の日常の祈りそのもののように見えた。それは紅色とカーキ色に染められたプロパガンダ映像の華々しく、しかし暴力的な色彩の溢れた時代にも確かにあり、インタビューで登場したかつての紅衛兵たちの日常の中にも、形を変えて確かに存在していたものだった。ウェン・ホイが暗闇で繰り返し語りかけた「マー(母さん)」という小さな声と他愛のない母子の会話は、紅衛兵たちが歌った毛沢東を讃える歓喜の歌や主席を讃える声と同じくらいかけがえの無いものだったはずだ。文化大革命について記録された膨大な映像の光の洪水を全身に浴びながら、私はいつしか映像のその向こうに確かにあったはずの小さく愛おしい日常の色や光を手探りで拾い集めていた。

「メモリー」の体験は、私にとって過去と記憶へ向かう小さな旅のようだった。記憶は、投影された映像にもドキュメンタリー映画にも映っておらず、けれどステージの周りの闇の中に確かに存在するように感じられた。映像に記録されたもの、身体に記憶されたもの、そして言葉で語り直された記憶、そして記録されず語られることもなかったけれど、確かにあったもの…。こうした記憶を作品に昇華させることとは、一体どういうことなのだろう。「メモリー」は記憶と記録についての問いを次々とこちら側へ差し出し、それらはどれも明確に出来ないままに今も私の中に残っている。

 

■「メモリー・プロジェクト」~埋もれた記憶を記録する試み 

 2012年11月16日に神奈川大学の主催で行われた講演会『カメラが開く記憶の扉 中国ドキュメンタリー映画の試み』では、今年度のフェスティバル/トーキョーの審査委員として来日した呉文光監督と、近年氏が主導する「メモリー・プロジェクト(民間記憶計画)」に参加する若手監督・章夢奇(ジャン・モンチー)、鄒雪平(ゾウ・シュエピン)の三名をゲストに、彼らが近年取り組んでいる「メモリー・プロジェクト」について、彼らの作品(部分)を上映しながら、カメラが記憶を記録すること、人びとの埋もれた記憶を掘り起こす試みについての具体的なお話を聞くことができた。

メモリー・プロジェクトについて説明する呉文光監督(左)と、解説・通訳を担当した秋山珠子さん

「メモリー・プロジェクト」は、2010年に呉文光監督が活動拠点とする草場地ワークステーション(CCD)で始められた、中国の農村に生きる一般の人びとが過去に体験した政治事件や自然災害についての記憶を記録しようというプロジェクトである。最近のプロジェクトでは、1959年から1961年の間にあった飢饉をテーマに、プロジェクト参加者たちが自身にゆかりのある農村に帰り、その当時の経験について村人たちにインタビューを行ってビデオカメラで記録するという試みを行っている。

中国では、文化大革命や反右派闘争といった出来事はその犠牲者の多くが知識人だったことで、時間を経て一度語ることを許された後には多くの書物や映画で取り上げられることになった。しかし、この59年から61年の飢饉で犠牲になった人びとの多くは、自分の言葉を発する機会を持たない農民や普通の人びとだったことから、この出来事が再び語られる機会は殆どなかったのだという。

以前このプロジェクトの話を聞いた時、私は単純に研究者が行うフィールドワークや聞き取りの延長上にあるものをイメージしたが、今回の具体的な内容を聞く中でその印象はがらりと変化した。私が特に興味をひかれたのは、プロジェクトに参加するメンバーの多くは“80后(パーリンホウ)”と呼ばれる80年代生まれの若者達であること、そしてこのプロジェクトが今まで語られてこなかった記憶をビデオカメラで記録するだけでなく、撮影することによってそこで発生したものも作品化する、という点だ。

具体的には彼らは撮影した映像を元にドキュメンタリー作品を作り、そのプロジェクトの過程を舞台作品(パフォーマンス)として再構成を行い、ワークステーションで行われる年二回のイベントなどで発表を行っているという。今回呉監督と共に来日したジャン・モンチーは87年生まれ、ゾウ・シュエピンは85年生まれ。ふたりを含む約20名弱のメンバーは、小さなカメラを手にそれぞれにゆかりのある村へと向かい、2010年から現在に至るまで撮影を続けている。

『自画像:47キロメートル』監督:章夢奇(ジャン・モンチー)

 

■ 「メモリー・プロジェクト」参加アーティスト 章夢奇と鄒雪平  

章夢奇(ジャン・モンチー)はこのプロジェクトの中で『自画像:47キロメートル』『自画像:47キロメートルでの舞踏』という作品を制作している。元々ダンサーであった彼女は、彼女と母と祖母の三代の女性たちを描いた『三人の女性の自画像』(2011)というドキュメンタリー作品を昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映しており、その中で彼女は、自分の身体をスクリーンにして母が語るインタビューの映像を投射し、自分と母との対話を試みる印象的なパフォーマンスを行っている。

彼女はこのプロジェクトによって2010年に始めて祖父の住む村を訪れたが、初めはその村の名前も知らなかった。村には47キロメートルの標識があり、それは彼女の住む家からの距離でもあった。『自画像:47キロメートル』では、彼女が59年から61年までの飢饉について村人たちにインタビューしていく様子と共に、見知らぬ村を訪れた彼女が、次第に村との関係を築いてゆく過程が描かれる。

村が見舞われた飢餓の記憶を掘り起こしていくプロジェクトを進めたこの2年間は、自分自身が現実と歴史の間で迷っていく2年間でもあった、と彼女は言った。村にいる間、なぜ自分は村へ帰って来たのか?と常に自分に問い続けなければならなかった。記憶を掘り起こすということは、寝た子を起こすということに似ている、と彼女は言う。普段人びとの心の奥底に沈んでいる記憶のドアを開けると、その中は混沌としている。そして過去についての具体的なこと、詳細なディテールを尋ねていく時、夫婦でもお互いの言っていることが異なったり、亡くした子供の名前を記憶していなかったりする時、自分がしていることは、一体なのかということに立ち返らざるを得ない。真相を突き止めることが目的ではなければ、一体何をしているのか…。

やがて彼女は記録するだけでなくこの村のために自分が出来る事は何かと考え、この村で飢饉の為に亡くなった14名の死者のための碑を村人たちと共に作り上げる。そして『自画像:47キロメートルでの舞踏』では、林の中に掲げられた飢饉の体験者たちの写真とともに舞踏を踊る。

『自画像:47キロメートルでの舞踏』監督:章夢奇(ジャン・モンチー)

鄒雪平(ゾウ・シュエピン)は、『飢餓の村』『満腹の村』『子供達の村』という三つの作品を作った。『飢餓の村』では、彼女は両親と祖母が住む村に滞在し、祖母の晩年の二年間を記録した映像とともに、飢餓について村人たちに行ったインタビューの様子が描かれる。美大に通っていた彼女はこのプロジェクトに参加する以前は、村の年配者たちの過去に関心を払うことはなかったという。そして二作目の『満腹の村』では、完成した『飢餓の村』をインタビューした本人たちに見せ、感想を話し合う様子を撮っている。

鄒雪平(ゾウ・シュエピン)監督

特に興味深かったのは、彼女が作品を上映することついて尋ねるところだ。「この作品を国内の映画祭で上映をしてもいい?」と尋ねる彼女に対し、老人達は「かまわない、事実だからね」と言う。しかし次に「外国の映画祭で上映してもいい?」と尋ねると、人びとの間で賛否が分かれる。心配そうにひとりの老人が遠慮がちに言う、「そりゃまずいだろう、聞こえが悪いし、まるで中国を売るみたいだから・・・」その後、老人達の話を受けて、彼らと一緒に映像を見ていた子供たちが話し合う。「外国で上映することは間違いだと思う?」という彼女の質問には子供たち同士でも賛否が分かれる。「危険じゃないかな?国が、この作った人を見つけて、罰したりするとかしないかな・・・」「でも、おばちゃんが、昔の中国の間違いを撮っていることは良いこと?」「良いことだと思う」「じゃあ、上映してもいいんじゃない?」「外国人に笑われちゃうんじゃない?…外国人に笑われることを、政府は望んでいないんじゃないかな」「でも外国にもこういうことってあるでしょ?きっと笑わないで、共感してくれるよ…」明るい色のダウンや毛糸の帽子を着た10歳くらいの子どもたちが国や政府について熱心に話し合う姿に私はびっくりしてしまったのだが、撮影していた彼女自身、こうした反応には驚いたという。飢饉が起こってから50年を経た現在でも、人びとはその事実が外に知られることを怖れており、その感情を緩やかに子供たちも共有していた。そして三本目の『子供達の村』では、彼女が先ほどの子供たちと一緒に飢饉で亡くなった37名の死者ための碑を作るプロセスを作品にしている。

『満腹の村』監督:鄒雪平(ゾウ・シュエピン)

『子どもたちの村』監督:鄒雪平(ゾウ・シュエピン)


■プロジェクトを通じて生まれた場所、そして“記録”への問い 

ふたりの作品の中には、飢饉についてのインタビューとともに、彼女達と祖父母とのユーモラスなやりとりや、生活の穏やかな時間の断片が挿入される。それらは彼女達のプロジェクトの過程にあった日常の思い出である。「思い出」と呼ぶのは、それが同じ過去であってもよりも親密で温かく、時に物語化されて少し不確かなものまで包んでいるような緩やかな印象を受けるからだ。これらに比べて記憶という言葉は少しよそよそしく、けれどそこには底知れぬ深さと大きさ、時に社会的な意味合いをも帯びているように思う。ふたりの作品では、その両方が隣り合い、静かに響きあう。作品にする過程でそれらを選別して、一方を切り落とすのではなく、その両方を行き来して映像作品として昇華させたこれらの作品は、他者の人生や大きな歴史に、自分のささやかな日常を位置づけることをしているようにも思える。

私は彼女たちの親しい人との思い出、自らも画面に映り込み、他愛の無い会話を交わすその温かさによって、作品が持ちえた柔らかさはとても大切だと思う。過去の出来事について話す老人達は、歴史の証人であり、広大な記憶という水を湛えた海のようにも感じる。しかし同時に、彼らは誰かの父親であり、誰かの祖父である。その当たり前のことを、私はふとした時に忘れてしまいそうになる。歴史学者の俯瞰した眼差しではなく、NHKの知的であるが顔の見えない取材者の眼差しでもなく、親しい者同士の眼差しの交差する間の中で語られていく体温のある記憶。やがて彼らが亡くなり、彼らからも作者からも離れたところでアーカイブとしてこれらの映像が残っていく時には、資料としての別の価値が生まれていくかもしれない。

しかし私はそれよりも今ここにあり、交わした眼差しとそこにあった時間のこと、アーカイブの手前にある、手触りと眼差しのある記録行為と、そこから生まれた場所についてより鮮やかな印象を受ける。ここには映像の撮影者が隣り合わせである見えない暴力、一方的に人びとのイメージを奪い取るという行為は弱まり、逆に今現在の場所から、カメラの前と後ろの空間全ての場所で記憶や過去の生について他者とともに想像し、話し合う空間が生まれている。ふたりはこのプロジェクトの過程をベースに作り上げた舞台作品も発表しているという。私は彼女達の作品の断片を見ながら、かつて「メモリー」の舞台を見たときに湧き上がったのと同じ問いが何度もよみがえった。

記憶を作品に昇華させることとは、一体どういうことなのだろう。そして、それを人と共有していくこととは、どういうことなのだろう。彼らは、記録をする行為を行う過程で発生するあらゆる問いを自分に引き寄せて、ひとつひとつ向き合うことでその問いそのものを生きている様に見えた。

『子どもたちの村』より

【参考サイト】

・草場地ワークステーション(CCD Workstation)http://www.ccdworkstation.com/
・フェスティバル/トーキョー2010「メモリー」http://www.festival-tokyo.jp/program/10/wenhui/about.html

・国際交流基金プレゼンターインタビュー 2008.3.31「現代中国のインディペンデント・アートの草分け 北京・草場地ワークステーション」 http://performingarts.jp/J/pre_interview/0803/1.html
・「三人の女性の自画像」(監督:章夢奇(ジャン・モンチー)/2010/中国語/カラー/75分)山形国際ドキュメンタリー映画祭HPより http://www.yidff.jp/2011/nac/11nac13.html


【執筆者プロフィール】

久保田 桂子 くぼた・けいこ
1981年長野県生まれ。ドキュメンタリー作品『朴さんへの手紙』を制作中。中国のドキュメンタリー映画に興味を持った最初のきっかけは『鉄西区』(2003 監督:王兵)との出会い。現在公開中『ニッポンの、みせものやさん』(2012 監督:奥谷洋一郎)のせんでん隊の一員でもあります。